とびまわる墨
こどもの夏、
母の実家の納屋にはつばめがいた。
雨の降りだす前、棚田の上を歩く私たちの上を旋回する黒い小さな生き物。
学校の帰り道に灰色の空に点滅する蝙蝠にも似ていた。
低く飛ぶのは虫を捕まえているからだ、と叔母が言った。
あなたたちも虫を食べるんだね。とおもった。
おじいちゃんが、蜂の幼虫が美味しい、
フライパンで炒めると良い、と言っていた。
親戚の家の蜂の巣を落としたあとで
手に入れた蜂の子を、一口たべるか聞かれたけれど何かが怖くて食べられなかった。
大人になったら食べれるのかなぁと思った。
納屋は、2階建てで古かった。
庭に向かってシャッターが解放されていて、基本そこから入って、みんな荷物を取ったり犬に触ったりする。
1階には冷蔵庫、草刈機、古米、つかってない犬小屋、電鋸、丸太、肥料、花火、鎌、子供用のソリ、色々と置かれていた。雑多だった。
その余ったスペースで黒鳶色の犬が生活している。祖母が差し出した、神棚と仏壇に供え終わった乾いた米を、犬は鍋底が光るまで平らげる。
残飯の無い日は犬用の餌をやる。
餌袋を開くと鼻を覆いたくなるような餌の香りが納屋に充満する。
乾いた餌に触れた空の銀食器が機嫌良く鳴る。
納屋は主にそういう記憶の染みた場所だ。
ちなみに2階には入ったことがない。
何があるの?見たい!と何度かお願いしてみたが「大変なことになっていて、危ない、こわいよ」と告げられた。
納屋の2階に皆んなが大変な隠し事をしている想像をしながら眠った日から、怖くて納屋の2階が見れなくなった。
小さな私の頭の中では納屋の2階には人殺しか、おじさんのおばけが住んでいた。
つばめの話だった。
つばめの巣は2つあった。
納屋にかかった2本の梁の両方に建築されていた。初めて見た本物の巣だった。
雀の巣も、鳩の巣も、烏の巣も見たことがなかったから、鳥にも家があることが確認できて嬉しかった。
すこし触ってみたかったけれど、ジャンプしても梯子を使っても私には届きそうになかった。
だから、ただ見ていた。
怖がらせたら、もう来てくれないかも、と叔母が言っていたから、静かに見た。
つばめの巣のすぐ斜め下には犬が暮らしていて、
互いに同じ空間にいることを許し合っているみたいで格好良くて羨ましかった。
いつだか卵が孵って、こどものつばめが鳴いていた。上擦っていて響きつつ慎ましい声だった。
教えてもらった、ひな、の響きも好きだった。
親鳥は巣を行ったり来たりして忙しなかった。
墨で一閃したような影が一瞬だけ空を横切ると
、命のために動いている命のことを感じられた。それをするのがヒトだけじゃないんだと目の当たりにした。
突風に舞う枯葉にも似た動きが優雅で、見ているとどきどきした。
しばらくすると巣が空っぽで、みんないないな、明日になったら戻ってくるかな、と待っていたけれど一羽も戻ってこないことがわかって、寂しかった。
叔母に聞くと「渡り鳥なんだよ」と教えてくれた。今どこにいるの?どこの国に行ったの?海に落ちないの?と聞いたら、曖昧に返してくれた。
あんなに小さな鳥たちが、木々を渡って何千キロも移動するなんて信じられなかった。
私まだ新潟にいるのに、みんなどっか知らないところに行っちゃってつまんないな、と思った。
別の年に、またつばめが巣を使っていた。
巣を壊さなければ戻ってきてくれるらしい。
前に見た子たちとは別かもしれなくても、内心おおはしゃぎだった。
つばめを見つけると目で追ってしまうし、巣を探してしまう。癖がついている。
先日、初対面のカメラマンさんとの待ち合わせの時、駅の掲示板に留まったツバメを見つけたので、スマホで撮ってから改札を出たら、ツバメの巣にカメラを向けている方がいて、すぐにカメラマンさんだとわかった。写真を通して初めて会う人が同じものに目を向けていることが堪らなく嬉しかった。
人のいる街に間借りして、あたたかい場所から、あたたかい場所に飛んでいく墨色の鳥がずっと愛しい。
余談だけど、雀が育つと鳩に、鳩が育つと烏になると思っていた人はどのくらいいるんだろう。小学低学年くらいまで、同じ生き物だと思っていた。
大人に話した時、出世魚みたいだな、と笑っていた意味を理解するまで数年、出世魚ってなんだろう、ツケで食べるお寿司かな、など、出世魚の意味や基準に囚われていた記憶がある。
鳥に触れてみたい、とずっとうっすら思っていたけれど、初めて猛禽を触った時、羽がやわらかすぎて、指が沈み込んでいって、身体が軽いのに脚力の強いのにびっくりした。
壊れそうなのに絶対に壊れない安心感があった。
京都で見つけた大学生協でつばめノートを買った。なんとなく憧れていたので嬉しかった。