グリッドを無視する
指先で小蝿と戯れる。
小蝿や蚊を捕える時、神経を相手に合わせてチューニングする遊戯の感覚がある。
相手に動きを気取られたら、相手の勝ち。
気取られずに望む動きを通せたら、自分の勝ち。
瞬発力を他の生物と競うというのは狩りや喧嘩に共通している。
幸い小蝿に特別の嫌悪感がないため、さっき飲み終えたウインナーコーヒーのグラスに降りてくる様子を眺めていると、給餌台に集まる鳥と然程変わらなく思う。
ただ読書と喫食中の視界に煩わしいので、小蝿にもマスターにも気取られないようさりげなく指先で潰して、そのままグラスとソーサーの間に敷かれた紙ナプキンの内側に折り込む。
紙ナプキンはロンググラスの結露をよく吸って満遍なく湿っていたので指を拭き取るに事足りたし、目立たず死骸を固定できて満足だった。
外は暑く、よく集まったため、蝿との神経勝負に勝つのを7,8回ほど繰り返すと視界にちらついていた黒点はおおよそ消えて、視界の端の薄紙の間で萎れた句読点になった。
小蝿の軌道を観察していると、無風に近い部屋の中で燻る、たばこの煙によく似ている。
無軌道に見えて、人の作る風を読んで上下している。蝶にない小回りが利いている。
″いいわよねえ、遮るものがないから。″
気品と過去の充足を感じさせる声がする。
″遮る″の響きを、2杯目に頼んだコーヒーのカップの地肌が半分ほど露われる間に3度聞いた。
″建物に遮られちゃう″から、景色が″見えなくなってしまった″らしい。
耳の外側に流れていく会話の中で、知っている地名の響きだけが古い新聞の切り抜かれたように残る。
むかし、同じ制服を着た人の声から逃げるように歩いた先で辿り着いたことのある場所だった。
近頃、建立途中のビルを囲うパーテーション越しに見えたエントランスなんかを睨む時、未来を睨んでしまった、と思う。視線を前に戻す瞬間に、泣いたことのない赤子の誕生日会について思いが過ぎる。
逆に築年数の古い、夜になっても灯りのない寡黙な団地や社宅を眺めている時は、過去を眺めている感覚がする。
記憶の抜け殻、暮らしの幽霊。そんな言葉を胸の内に唱えながら通り過ぎる。
鉄柵に取り壊しの旨を告示する白い看板がかかっていても、もう寂しくなりたくないから、成仏できない幽霊が住んでいることにする。
サービスでいただいた3杯目のコーヒーを飲み干しながら時計を見ると5時を回っていた。
喫茶店を出て歩いていると遠くのビルの隙間に鮮烈な色の重なりが見えて、
「9月の17時だ。」と思う。
横断歩道の向こうから、見ただけで少し緊張の解けるような、身のこなしに衣擦れの感覚を覚えるような、ゆるやかな姿勢の女性が歩いてくるのが目に入った。
青信号を渡らずに建物の角を曲がると、向こうから歩いてきた彼女と進行方向が重なった。
彼女より私の方がわずかに身体と足の方向を転換するのが早かったため、しばらくの間、背後で鳴る足音から彼女の歩行姿勢を思い描くことになった。
先ほど視界に飛び込んできた軸のしっかりした緩やかな歩調が切り出す先端のイメージが、頭蓋の右上辺りで勝手に描画される。
数秒前に追い越した地面が新しく擦れる音が、なんだか急いでいるような気がして、追い越してもらいやすいよう歩く速度を落とす。
自分の踵と草履がぺたりと鳴った。
彼女に追い越される頃には、昼間の陽の光に暖められた空気を髪が含んで、頸筋から耳にかけて張り詰めていた神経がすっかり弛緩してしまった。
橋の向こうから歩いてくる学生たちの間に弾ける英語の抑揚を聴きながら、右耳の上から後ろにかけて指先で撫で付けると、髪のおもてが纏っていた黄昏が深くまで潜り込んできて、目の奥の奥に、眩しさに似た気怠い甘さが侵入してきた。
はじまったばかりの瞬きの動きを眼瞼で捉えて、意識的に強く瞑ってから解くと、少しだけ視界の色が強まった。
この、遮られた夕陽は人工に切り取られているに過ぎない。
なので、幾らでも頭の中で続きを描くことができる。
かつて錦を織った職人が誰かの纏って歩くことを願ったであろう色合いも、絞り染めに倣って飴を散らしたような雲もそうだ。
縦に縦にと引き伸ばされた居住空間の影に塗り潰された角張る欠片の内側は、好きなだけ我々の塗り絵にしてよいのだ。
影の着彩に飽きたら、答え合わせのために高いところに登ればいい。
昼間、ベランダの外から私の鼻歌に耳を掠められた隣人の顰め面(顔も知らないのに頭の中で無断で描くことが日課になってしまった)に帳尻を合わせたくて、草履の踵が鳴らそうとする足音を低く殺して共用廊下の外の階段を、出来る限りの階数まで登る。
揺れる視界にうつる手すりは夕陽を抱えて暖かい。
近い空では鼠の背中に似た影を薄紫色が甘く包んでいた。
こういった雲を眺めると、何か予感を孕むよう命じられているような錯覚に陥ってしまう。
地震雲を発見した人はこんな心持ちだっただろうか。
叱られるのと甘やかされるのを同時に受けたような気分になって、とても長くは見ていられない。
脳が飽きて平易に色の塊として捉えるようになる前に、階段を降りて部屋に向かった。
ドアノブが円くひんやりしていた。