犬
いつも土手から降りようとしなかった。
階段を先に降りる私に渋々ついてくるか、犬に続いてスロープを駆け下りるのが常だった。
よく道で固まった。
台車の音が嫌いだった。
バイクのビニールカバーが嫌いだった。
男の人が嫌いだった。
雷も花火も嫌いだった。
喧嘩が嫌いだった。
泳ぎが下手で海が嫌いだった。
さらさらしてまっすぐな茶色い毛は、抜けると根元が白くて、少しうねっている。
厚い耳を指先で触られるのを嫌がった。
脚の先と、眉とマズルが白かった。
爪は薄ピンクで、よく獣医さんに「幼いですね」と言われていた。
食事が好きだった。
よく人の食べ物を欲しがった。
蓄えた身体はもっちりふわふわで、コッペパンと食パンで再現できそうだった。
キャベツは食べるのにレタスは残した。
気に入らない餌は食べなかった。
近所の年上の雌犬に懐いた。
女の人が好きだった。
犬歯が大きかった。
怒ると3回ほど噛むフリをしてきて、それ以上しつこく絡むと本当に噛まれた。
犬がパニックの時は強めに噛まれる。
中学2年生の10月29日に唇を噛まれて噴水みたいに血が出た。
夜間救急で口腔外科と皮膚科と形成外科をたらい回しにされて、2針縫った。
口から血を流しながらおまえを見ると気まずそうに目を逸らしていた。
「敵意はない」のサインだと本で読んだ。
おもちゃを返してほしくて、しつこくせがんだ私が悪いから、気にしなくていい。
手をぺろぺろ舐めてくれたけど、血がついていたからか友好の意味なのかは分からなかった。
ただ激しい接吻だ……とは思った。
梅の実を見ると蹴るまで動かなかった。
落ち葉が風に吹かれると走って追いかけた。
野良猫を見つけると楽しそうに駆け寄った。
雪が降って本当に駆け回る室内犬がいるか、と思った。
桜吹雪が似合っていた。
四季は、おまえと巡るために用意されているのかと錯覚させられた。
おまえと遊びたいから、散歩に出かけると草木をよく見て猫を探した。
おまえは気分屋だから、構ってもらうのに必死だった。
でも嫌われたくないから、べたべたするのを我慢した。
小学校高学年の時、わたしの両親の喧嘩を仲裁しようとおまえは吠えて、首輪を捻られていた。
記憶はないけど、わたしはパニックを起こして、母はおまえを連れて外で警察を呼んだ。と、母が私の箪笥に放置した記録に書いてあった。
そのあと父親は赤く光る白い車に乗って、母親は同窓会に出かけていった。
祖父のお弟子さんが面倒を見てくれて、なんだか我が家は変だなと思った。
わたしが父親に首を絞められた時もおまえは吠えてくれた。
弟と喧嘩する時には必ず仲裁に来てくれた。
つよくてかしこくて優しかった。
でも恐怖が限界に達すると、きちんと逃げるところが安心できて大好きだった。
逃げると言ってもせいぜい玄関までで、ひと段落して探しに行くと大体、尻尾を下げて震えているのが痛々しくてならなかった。
こんな家に迎えて申し訳なかった。
首を絞める父の手を抜けて母に助けを求めると「これからリンパを流しに行くから、くだらないことで電話するな」と言われた日は、初めて明確に出生を悔いた。しまった!ごめんなさい!と思った。
わたしが大泣きしていると、おまえは涙を舐めに飛んできてくれた。塩気が美味しいのかもしれないと思った。
でも泣きやんでも舐めるので、だいたい笑ってしまう。わたしが笑ってもやめてくれないことがほとんどだった。おまえだって泣きたいほど怖いこと沢山あったろうに、やさしいなぁと思った。
高校生の時、痴漢されて帰ってきた時「もう生きていたくない」と玄関で泣いていたら、片方だけスリッパを持ってきてくれた。
私が泣いていても困っていても、いつだって元気に遊んでくれて、ご飯をたくさん食べていた。
どうしてこんなに可愛いんだろう、と毎日不思議で仕方なかった。
わたしが高校を卒業した次の日の朝、
皆に黙って新居に移る母親に連れられて、おまえは私の部屋に挨拶にきた。
泣いたらおまえが困惑するだろうから、なるべく簡素に「またね」と見送った。
泣きたかった。
どこにも行かないで、わたしと一緒にいてほしかった。
でも、わたしより母親に懐いてるおまえは、こんな家から出て行った方が幸せだと思った。
玄関が閉まる音が聞こえて、多分たくさん泣いた。うまく思い出せない。
中学2年生の時に好きな子に「尊敬しています」ってダサい告白した帰り道よりは全然泣いた。
今年の春、開花の前日。
私が仕事を辞める1週間と少し前、
14:30くらいに土手で息を引き取ったらしい。
桜が咲くか、咲かないか、との余命宣告を冬にされていたらしい。
母の腕の中だった。
死に際まで真面目にならなくていいのに。
触れると生きてるみたいにあたたかくて、生きてる時と同じ匂いがした。生きてるみたいだった。
2023年におまえを置いていくのが寂しい。
いつまでもわたしと一緒に年をとってくれると思っていたよ。
そうじゃないことを知っていたから、一緒に暮らせなくなってからは、おまえに会うたびに泣いていて、変だったでしょう。ごめんなさい。
おまえがいたから誰かを殺さなくて済んだし、生きることが許される瞬間があっていいんだって思えた。
でもやっぱり誰かを、血を、憎んでしまう瞬間があって、呪ってしまいそうになるけど、そういう時はおまえがしてくれたことを思い出そうと思うよ。
来世ではずっと一緒にいてほしいです。
幸せにします。
やっぱり、ずっと一緒じゃなくてもいいよ。
だいすきだよ。ほんとうに。