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Facebookアカウント永久凍結と映画「ラストマイル」が交錯する大企業の闇

自分の会社のウェブサイトURLを「本文」に書いただけで……

昨夜、Facebookアカウントが永久凍結されました。
15年くらい使っていて、フォロワー2000人超。地方講演で知り合ったお坊さまなどFacebook内でしかつながっていない人もけっこういたのですが、なんの挨拶もできずに瞬時に関係が断ち切られました。

原因は、「ビジネスアカウントのなりすまし」とのこと。
思い当たるのは、自分のプライベートグループ内で自分の合同会社のウェブサイトURLを記載したことです。
プライベートグループなので、なりすましも何も、そもそも公開される場所ではありません。
Facebookに各種SNSからの共有URLを貼ることは日常的におこなっていましたし、WordpressなどからFacebookへの「共有ボタン」も存在しているので、よもや自分の会社のURLを記載して「ビジネスアカウントのなりすまし」と疑われるとは思いませんでした。
どうやら数年前から仕様が変わり、共有ではなく投稿本文にURLを記載すると永久凍結対象になるようです。

警告が出てから「異議申し立て」のボタンを押し、顔写真を求められ、つぎに本人確認書類の提出を求められました。2つの写真を提出した結果、アカウントは永久凍結となりました。そりゃあ日本の免許証の写真て犯罪者にしか見えませんしね。本人の顔写真と同一に思われなくて当然です;;

感想:かえってスッキリした

かくして面識のある人ばかり2000人とのコミュニケーション手段が一瞬で絶たれたわけですが、映画「ラストマイル」を2回連続で観た直後だったこともあり、私の気持ちは妙に晴れ晴れしかったのです。
連絡とるべき人とは、いずれLINEなりメールなり別な手段で連絡はとれるでしょうし。
これで連絡がとれなくなったならば、その人とのご縁はそれまでだったということ。必要な人間関係が絞り込めたので、かえって好都合なように思えました。
そもそもMETA社のSNSは、インスタリールに上げたものをアレンジしてストーリーズにも上げ、それらがFacebookストーリーとリールに共有され、さらにスレッズにも共有しますか?となり。同じネタをあちこちにバラまかなきゃならんことの意味がわからなかった。

以前は、こんなに横暴ではなかった!

そして後から思い出したのですが、コロナ前は「なりすましアカウント」の疑いをもたれると、「友人2人以上から、実在の人物であるという証明をもらってください」という流れになり、リアルの友人に頼んでなりすましでないことを証明してもらえばアカウント復活、という流れだったのです。
それが数年で、人的要素をなにもはさまず、AIの認識だけで、過去10年以上にわたる人間関係をバッサリ斬る仕様に改悪されていました。
しかも、異議申し立ては一度限り。再審査はしないという乱暴さ。
そんな横暴がゆるされるとは、怒りを飛び越えて開いた口がふさがらない気持ちでしかありませんでした。

許容しがたいこと:追悼アカウントとは、二度とつながることができない

リアルのつながりは、共通の知人をたどるなどして復活は可能です。
しかし、利用をはじめて15年もたっているので、20名近い追悼アカウントとのつながりがありました。
彼らの数人については、命日にメッセージを書き込むなどしていたのです(親族が読んでいました)。

再審査の余地がないということは、新アカウントをつくり直すしかないわけですが、アカウント新設しても、追悼アカウントとのつながりは二度と戻りません。

そこで一晩、考えました。
アカウント新設したところで、私はFacebookを開くたび、複数の追悼アカウントとのつながりがもう切れてしまった、ということを思い出すだろう。
そんな回顧に押しつぶされそうになるくらいなら、METAとの縁をバッサリ切りたい。

映画「ラストマイル」の主人公が「白い手帳をもう一度自分にプレゼントするところから」出直すと決めたように。私はまっさらからやり直したい気持ちでいっぱいになりました。

META社の横暴から距離をとり、SNSの使いかたを整頓する

現行のWeb2.0では、セキュリティの問題が大手企業のサーバにゆだねられています。
Web3.0になると、ブロックチェーン技術によって情報は分散化され、データは個人が管理する時代になるといわれています。

私は、ひと足早くWeb3.0に歓迎されたんだ! と、思うことにしました。

幾人かの友人は、
「いくらなんでも、自社のURLを貼っただけなのに、〝関係ないビジネスのなりすまし〟と誤認されるのは、METAが悪いでしょ。クレームメールとか何か出せないの?」
と言ってくれました。
でも、いまの私は「ラストマイルショック」もあって、
「横文字の大企業の横暴に、無力な個人があらがっても意味がない。自分のほうをまっさらにすることのほうが、利益が大きい」
というようにしか、思えないのです。

note内でも、Facebookアカウントを削除された人の投稿がいくつも見かけられました。
でもこれは、言ったところでどうにもならない。

無力なまま叫ぶよりも、これをよい機会、追い風として、20年先へダイヴすることのほうを選びたい。

そもそも30歳代以下の人はほとんどFacebookを利用していないんだし。
切れてしまった世代の人たちとは、やりとりする必要がない、と言われたに近いのだなと、解釈することにしました。

Facebookという世界で、私は交通事故で死亡した

ある日突然、挨拶もなしに、連絡がとれなくなる。
――それは、ちょっとボーッとしていて、うっかり交通事故に遭遇したのに近い感覚でもあった。

また、追悼アカウントと連絡がとれなくなったことについては、命日に追悼アカウントにメッセージを書く代わりに、毎朝お線香をあげるときに、ひとりひとり思い出して話しかければいいんじゃないか、と。

そのほうが、より一人一人と親密になれる気がする。
いうなれば、きのうまでは私が現世にいて、彼らはあの世にいるので、年に一度の命日メッセージでしかつながれない気がしていたのだけれども。

思えば私自身、Facebookという日常の連絡手段の大きな割合を占めていた世界から排除され、多くの人とのつながりが切れた結果、あの世へ半分足をつっこんでいる感覚に陥っている。
だから、先に逝った人々に、線香を焚いてひとりひとり、じかに話しかけることができそうな気がしている。

じっさい、納棺体験などよりもかなりリアリティのある臨死体験になった、と感じております(私が葬祭カウンセラーだから、なのか……)。

同じような体験をされたかたも、そうでないかたからも、ご感想など共有してみたいので、コメントお待ちしております。


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