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ロシアに遺された鳥居を見るためだけにサハリンへ行った話
オーロラ航空で成田からユジノサハリンスクへ
2019年夏現在というか、コロナ禍による入国制限の前、日本~サハリン間で就航していたのは、オーロラ航空の成田~ユジノサハリンスクが週2便、新千歳~ユジノサハリンスクが週5便。他には、ウラジオストクやハバロフスクを経由して行くこともできた。
※稚内からの国際航路は2018年夏をもって休止。
運賃は往復6万円程度とそこまで高くなかった。東京~稚内のANAより少し高いくらいだった。
成田空港では出国審査を終えて、飛行機に乗り込む。
ユジノサハリンスクと表示されている行先表示板には、日本時代の建築である帝冠様式のサハリン州歴史資料館の写真が表示されている。
これからロシアへ向かうと言うのに、観光地の代表たる写真は日本時代のものなのだ。サハリンはあまりに中途半端な場所かもしれない。
機内ではもちろん機内食も出てきた。同じオーロラ航空のウラジオストク~成田線は飲み物しか出ないのに、ユジノサハリンスク線ではしっかり機内食が出る。稚内のすこし北に向かうだけなのにしっかり国際線面をしているのがおかしかった。
北海道を越えて、着陸態勢に入ると、西海岸が見える。北海道のような景色を眺めながら、サハリンに到着した。
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ユジノサハリンスク(豊原)
かつて豊原と呼ばれた街は、ユジノサハリンスク(南サハリンの意)市としてサハリン州の州都になっている。札幌を模して計画された碁盤の目状の都市計画は今も維持されていて、街を歩いているだけでも実感できる。
ユジノサハリンスク空港に着くと、事前に連絡していた、サハリンに住むロシア人の友人が迎えに来てくれていた。車に乗り込むと、どうやらレストランへ連れて行ってくれるらしい。楽しみにしていると、到着したのは、Hokkaidoという日本料理屋だった。異国に来たはずなのに、最初にご飯を食べるレストランは日本料理屋…ロシアや旧ソ連では日本料理屋は割と盛んとはいえ、拍子抜け感は否めない。友人は日本文化が好きだし、日本人の私が来たので連れて行ってくれたのだろう。
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ユジノサハリンスクに遺る日本時代の遺構
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ユジノサハリンスクはさすがの州都であって、多くの遺構が残っている。
まず、代表的な建築はサハリン州郷土資料館(旧樺太庁博物館)だ。
帝冠様式の建物で玄関の扉には菊の御門が刻まれている。
階段も今でも内地に現存していたら、ドラマ撮影に使われそうな重厚さである。
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また、大通りには、北海道拓殖銀行豊原支店がサハリン州美術館として残っている。中に入ると、朝鮮系の女性が案内をしてくれた。
サハリンには日本統治下の朝鮮人のうち、主に南朝鮮出身者がそのまま残り、人口の一割ほどが朝鮮系だそうだ。
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他にも、樺太庁部長官住宅や樺太神社跡、
郊外へ歩けば、日本時代の橋・王子製紙豊原工場が残っていた。
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こう見ると多くの建物が残っているように思えるが、実際は、ソ連式の集団住宅が並ぶ都市の中に、ほんの一部日本建築が残されているような様子だった。
台湾であれば、日本統治下の建物を文創(リノベ)して活用しているが、ユジノサハリンスクの遺構は、生活のためにそのまま残っているようだった。
ユジノサハリンスクは紛れもなくロシアの地方都市であった。
鉄道日本標準軌1067㎜
2019年当時、
サハリン島内の鉄道軌間は1067㎜といまだに日本標準軌が残っていた。
ロシア標準が1520mmであり、ロシア本土と合わせるべく改軌工事が行われていたが、終戦1945年から70年以上、日本と同じ軌間で列車は走っていたのだ。
このため、戦後賠償の一環としてD51機関車が輸出されたほか、JR東日本から気動車も輸出され、今でも博物館残っている。
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ホルムスク(真岡)
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ユジノサハリンスクからバスで約二時間、西海岸のホルムスクに向かう。
樺太時代から栄えていた町で、今も大陸へのフェリー乗り場がある。
ホルムスクは丘の街という意味で、日本語地名の真岡と関係があるように思えるが、真岡はアイヌ語のマウカから転じており、直接の関係はない。
ホルムスクのバスターミナルに着くと、以前サハリンを訪れた際に、知り合ったロシア人の友人が迎えに来てくれた。彼は日本文化が好きで、真岡に遺る日本の遺産に詳しい。メッセージを送るときも、「ホルムスク」では無く「真岡」と言ってくるほど、樺太時代に興味があるようだ。
彼の車で、まず、旧真岡駅の近くにあるお寺の跡地へ行く。ここはどうやら、真教寺という寺であったようで、今でも境内への階段や、鐘楼の基礎が残っていた。今は、何かに活用されているわけではなく、庭になっているのが救いだった。
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真岡にはほかの樺太の町と同じように、神社があった。真岡神社だ。
もちろん、今は残っておらず船会社の建物が建っているのだが、境内の面影はずいぶんと残っている。
一目でわかるのは、境内へ向かう階段だ。日本の神社は高台に位置することが多いから、一発で分かる。
かつて、神社であったといっても、もはや神国の面影を見せるものは一つもない。宗教的な空間としての役割は、佇まいだけだった。
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真岡には他にも日本時代を色濃く残すものがある。
なんとこの町には、奉安殿が二基残っている。おそらく、日本ではほとんど残っていない奉安殿であるが、いまだに残っている。
※奉安殿とは天皇陛下の御真影が保管されていた建物のこと。
第二尋常小学校の奉安殿は一部しか残っておらず、ペルセポリス遺跡のようになっていた、ロシアにおいて奉安殿が遺跡であるのは間違いない。
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真岡市街から南へ向かうと王子製紙真岡工場跡がある。樺太の主要産業はパルプ製造だった。今はもう稼働していないようで巨大な廃墟になっている。
城郭が無かった樺太において、巨大な工場はお城のようなものかもしれない。
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他にも今にも崩れ落ちそうだが日本時代の橋も残っていた。
残念ながら、橋の名板は外されていたが、日本時代の橋であることは間違いない。隣の鉄道橋も日本時代のものかもしれない。
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トマリ(泊居)
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ホルムスクから一日数本しかない列車に乗ってトマリ(泊居)へ向かう。
サハリン西海岸を走る列車の本数はすこぶる少なく、夕方しか走っていなかった。地名の泊居(とまりおる)はアイヌ語のトマリ・オロから来ていて、ソ連になりトマリとなった。
この町は樺太時代は1万人が住んでいたが、今では4,000人ほどの小さな町になっている。トマリには宿が一軒しかなく、インターネット予約もできなかったので、友人に電話をしてもらい、空き状況を確認した。幸い、一部屋だけ空いていたため、泊まることが出来たが、日本人としては非常に行くのが難しい町だ。この日の夕食も、すでにカフェは閉まっているようだったので、小さな商店で肉まんを買った。
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泊居神社
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泊居の見どころと言えば、やはり泊居神社だ。なんと、本殿は残っていないというものの、鳥居が残っているのだ。
神社と言えば、日本人の生活と密接にかかわっている宗教施設にもかかわらず、戦後74年が経過した「南樺太」に残っているとは、、、この目で見ることが出来て感無量だった。かつて、ここは日本で、日本の神様が祀られていたのだと。
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泊居神社ではこの後、2019年10月に階段等が整備されたようだ。
トマリに残る日本建築
トマリの市街は日本時代は低地にあったが、ソ連時代以降は高台に移っているため、旧市街は廃墟のようになっている。
ただ、いまでも日本時代の橋や王子製紙泊居工場、中西呉服店跡などが残っている。
トマリは田舎町だったが、鳥居が残るだけで、日本が残っているかのように思えた。いい町だった。
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ウズモーリェ(白浦)
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トマリからは列車ではなくバスに乗って東海岸にあるウズモーリェへ向かった。列車の出発時刻は3時台と早かったため、5時台に送迎してもらえるバスにした。白浦までは二時間ほど。バスはユジノサハリンスク行だったが、白浦で降ろしてもらった。運転手に、北にあるポロナイスク(敷香)へ向かうのか?と聞かれたので鳥居を見るのだと答える。納得していないようだった。
朝から鳥居を見るために小さな町に降りる日本人など理解できないのだろう。まぁ自分でもこんな酔狂なことをしていることの理解がつかない。
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ウズモーリェ駅から東白浦神社のある方向へ向かう。大きな道路から砂利道に代わり人通りは少なくなった。
途端に心細くなる。クマが出てきたら襲われてしまうのではないか、と。外国の、とりわけ人通りの少ない地区を歩くと、怖いのは誘拐と野犬である。
何も出てこないように、と祈るも、案の定野犬が数頭出てきた。
さすがに野犬を前に進むことは出来ない。しかし、鳥居は見たい。
そこで、近くにいた漁師に、鳥居に行きたいのだが、野犬がいて進めないので一緒に行ってくれないか、と頼むことにした。仕事中のようだったが、一緒にいた小学生くらいの子供をお供に付けてくれた。
東白浦神社
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旧白縫村にある東白浦神社。この神社は海岸沿いの丘の上に立つ神社だった。目前に臨むのはオホーツク海。
サハリンで三つ目の鳥居は、風光明媚な場所にある鳥居だった。
よくぞ74年間朽ちずに、破壊されずに、残っていたなと思った。
それにしても宗教性を失った鳥居は儚くも美しいなと思った。
この場所が日本であったことは鳥居がある限り、誰にでも伝わる。
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この東白浦神社は私が訪れた後、公園になり、現在は鳥居が崩れ落ちそうとのことで鳥居の下への立ち入りが制限されているようだ。どうやらロシアでも文化的な価値を見出されるようになったらしい。
ウズモーリェ(白浦)からユジノサハリンスク(豊原)へ帰らなくてはならない。
バスは一日に数本あるようだが、目の前を通過され、立ち尽くしていた。
通りかかった一台の車に話しかけられ、ユジノへ、と答えると、途中まで乗せていってくれるという。厚意に甘え、ドーリンスク(落合)まで送ってもらう。まっすぐに続く道は絶景であった。
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コルサコフ(大泊)
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もう鳥居も見てしまい、特にやることはないのだが、せっかくなのでコルサコフ(大泊)へ行ってみる。ここは戦前から日本との航路が発着していた港で、戦後冷戦期を挟み、2018年まで稚内と国際航路で結ばれていた。ユジノサハリンスクからはバス(マルシュ)で60分ほど。あっという間だ。コルサコフにもいくつかの日本統治の面影が残されている。
港の桟橋や赤レンガ倉庫、拓銀、亜庭神社階段などである。
ただ、私が最も印象に残ったのは、ホテルの前に並べられた、三角点・水準点や奉納の石碑や手水鉢などであった。この中でも三角点は経緯度や標高を算出する測量の基準点で極めて重要な存在である。
もちろん日本ではしっかり管理されているが、領土を放棄した植民地ではもはや、不要のものであり、ここまで雑に扱われてしまうのは(おそらく、一か所に集めて日本時代の展示している意図はあろうが)見ていて悲しくなった。
領土・主権を失うとはこのようなことなのだと。
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ユジノサハリンスク・帰路
ユジノサハリンスクでは、ユジノサハリンスク名誉市民の宮西さんが営んでいる日本料理屋「ふる里」で食事を取った。
宮西さんからは、食事後にコーヒーまで出していただき、冷戦後からのサハリンの話をいくつか伺えて非常に楽しい時間であった。
※残念ながら2022年8月に閉店したらしい。
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私はなぜか、北海道の北に位置する樺太に興味を持ち、二回もサハリンを訪れてしまった。特に観光資源もないこの島は、ロシア本土と比べても、忘れ去られた島のようで、ここはソビエトのままだ、と何度か話を聞いた。
日本からも忘れ去られた開拓地で、日本であったことを認識している人は数少ないであろう。どうして、この島に惹かれてしまったのかわからない。
本当に自分のことを理解できないのだが、私には北方に対する憧れが心の奥底にあるのだと思う。そして、私はきっと数年後にまた訪れるであろう。忘れ去られた辺境に、日本の面影を求めて。
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完