『月と六ペンス』
今月の「絵を読み解く」は、ゴーギャンを扱っているので、
ゴーギャンからヒントを得て書かれた、
サマセット・モームの『月と六ペンス』を読み返しています。
ゴーギャンがモデルとされる、
チャールズ・ストリックランドが、
なかなか破滅的で割と好き。
(以下、家族を捨てて画家になるためにパリに行ってしまったったストリックランドを、主人公の「わたし」が、ストリックランドの妻に頼まれてイギリスに戻るよう説得しに行くシーンの引用)
「あなたがこんな仕打ちをされるのは、奥様に非があるからですか?」
「いいや」
「奥様に不満が?」
「ない」
「じゃあ、こんなふうに奥様を捨てるのはひどい。17年も結婚していたんですし。あちらには何の非もないないんですから」
「その通りだ」
(中略)
「じゃあ、どうして奥様を捨てたんです?」
「絵を描くためだ」
(中略)
「どうして自分に才能があると思ったんです?」
「描かなくてはいけないんだ」
「かりにあなたに才能がまったくないとして、それでもすべてを捨てる価値があるんですか?他の仕事なら、多少出来が悪くてもかまわないでしょう。だけど、芸術家という仕事は違う」
「君は大馬鹿者だな」
「なぜです?本当のことを言っただけです」
「おれは、描かなくてはいけない、と言っているんだ。描かずにいられないんだ。川に落ちれば、泳ぎのうまいへたは関係ない。岸に上がるか溺れるか、ふたつにひとつだ」
(引用終わり)
ここのやりとりのシーン、好きです。
画家になるかどうかは、才能があるかどうかではなくて、川に落ちたかどうか。
岸に上がれば生きられるし、溺れれば死ぬだけ。
というストリックランドの言葉が、
いわゆる「規格外」な人生を選ぶ人達のやむにやまれなさが的確に表現されている感じがするので。
(モームはゴーギャンにヒントを得ただけなので、小説のストリックランドの人生は実際のゴーギャンの人生とは違うのですが、でもゴーギャンが画家になったのも、タヒチに行ったのも、「川に落ちた」感、本人の意思はもちろんあるけど、それを超えた大きな流れの中で追い込まれるようにそっちに行った感はあるかもしれません)
(株式仲買人として、平凡なお金持ちとして生きる人生もあったでしょうに、自分の人生に「コレジャナイ感」があったんだろうなぁ)
一般的には、川に落ちないで、平凡に人生を送れる方が幸せ、と考えられるかもしれないけれど、
川に落ちちゃった幸せも、あるのかも。
ちなみに、タイトルの『月と六ペンス』が作中に出てくることはなく、
気になって「6ペンス」をググってみたら、
結婚式で花嫁の左靴に6ペンスコインを入れておくと、幸せな人生をもたらす、と考えられるラッキーアイテムなのだとか。
「六ペンス」が「幸せな人生」の象徴であるのなら、
「月」は何の象徴なのだろう。
破滅をもたらす狂気、
あるいはその狂気にとらわれること自体の幸福、とか?
魔性の力で男性をとらえ、破滅に導く「運命の女(ファムファタール)」、割と好きなモチーフなのですが、
たぶん、
何もかも全部すてて、破滅してみたい
願望って、多かれ少なかれ、誰の心にもある気がします。男性でも女性でも。
実際にやっちゃう人と、やらない人、
やるにしても、徹底的にやっちゃう人と、生ぬるく破滅しちゃう人、
破滅した後、再生する人と、そのまんま破滅しっぱないの人
がいるだけで。
ゴーギャンは、「やっちゃった」側の人なのですが、
というか芸術家って「やっちゃった」側の人の集団とも言える気がしますが、
「やっちゃった」人って、やらない人達の世界にも風穴を空けてくれるので、
人類にとって、貴重な存在だなぁ、と思います。
(家族は大変と思うけど)
(そして、完全な個人的好みですが、「やっちゃった」側の人って割と好き)
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