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新たな挑戦として学びの場を作りたいと思った理由③~かえる場所づくり~

サード・プレイスづくり

サード・プレイスとは、コミュニティにおいて、自宅や職場とは隔離された、心地のよい第3の居場所を指す。サード・プレイスの例としては、カフェ、クラブ、公園などである。アメリカの社会学者、レイ・オルデンバーグはその著書『ザ・グレート・グッド・プレイス』(The Great Good Place)で、市民社会、民主主義、市民参加、ある場所への特別な思いを確立するのに重要だと論じている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

突然、サード・プレイスという言葉を出しましたが、皆さんにはこういう場面は存在していますか?

忙しい現代社会の中、子どもたちにとって、家庭・学校。大人にとっても、家庭・職場など、自身が所属しているコミュニティというのが1stプレイスだったり、2ndプレイスだったりするわけです。

ただその場所は、自身にとってものすごい”近い場所"。これは大事な場所であると同時に、近いがゆえに軋轢も起こりやすい場所であります。

例えば「怒り」という感情については、近いところほど大きくなりやすい傾向がありますし、上から下に流れていく傾向もあります。
親子間、夫婦間、そして上司と部下、先輩と後輩、先生と生徒、同僚同士…数々の場面で近すぎるがゆえに起こりやすいすれ違い。

私自身の経験で言うと、職場という場所が、ものすごい大きい割合を占めていたプレイスでしたので、何かしらの違いが発生すると、その渦の中にいる時ほど冷静で客観的な判断はしづらくなりやすかったのだなぁと感じていました。

ここで大事なことは何かと考えたとき、私は一つこういう仮説を立ててみました。

帰ることのできる場所は作る方が良い。
ただ「帰る目的」が違う場所は、1つに限らない方がよいのでは?

ということです。

これを私は「境界線の引き方」とよく伝えているのですが、現代社会の中ではこのラインの引き方を上手くできなくなってしまってしまうパターンが本当に多いと感じます。

ある生徒の事例を一つ出します。
その子は、元々いた学校で、本当に仲の良い友達と一緒に学校生活を過ごしており、クラスも一緒、遊ぶのも一緒、そしてクラブ活動も一緒…という誰がどう見ても親友と呼べる友達がいたそうです。

しかしある時期から、大学受験を考え始め、塾に通う、部活の時間も制限するというような時間の使い方を考え始めるようになった時、そこから少しずつ距離が生まれ始めたといいます。

相手からすると、突然その当人が違う世界に、そして自分から離れていくことがあったせいか周囲の友達からも「それはひどいよね」「今まで仲良かったのに突然それはないよね」というように周りから色々と噂を流され、ひいては最終的にクラスの中でも異分子のような扱いを受けるようになり、学校に通いづらくなってしまったということになってしまいました。

きっといくつかのすれ違いが、こうした悲しい結果を生み、そして最終的には学校に通えなくなり、転校を余儀なくされてしまうという事態にまで至ったのです。

その当人と面談をしたとき、本人は転校当初、学校に通うことに対する恐怖心や焦燥感、期待のなさなど前向きな要素は何一つありませんでした。なぜなら、「また仲の良い友達が出来て、同じことになるのが嫌。だったらもう友達は作りたくない」という想いが強かったのです。

そのとき私がかけた声は
ここは友達を作らなければいけない場所でもないし、必ず登校をしなければいけない場所でもない。大事なのはこの場所をどう自分が居やすい場所にするかだから、まずはそこから始めよう
でした。

その生徒にとって、学校とは「友達といる場所」「勉強をする場所」であり、ある種の義務のような居場所になってしまっていたのだと思います。そして、全てを一つの場所に集約し、全てが適う場所としての「学校」になってしまっていたのかもしれません。
その子にとって、大学受験をするための場所は「塾」になっていて、そして友達と一緒にいれる場所は「学校」で、もしかしたら関係性においても、その友達は違う分野での友人ではあるけれど、学業という分野においては違う道を歩む友達だったのかもしれません。でも近い存在程、全てを受け入れてくれる、全てを理解してくれる。そしてその場所に行けば、その友人に会えばすべてが叶う。こうした曖昧な境界線が、ちょっとした違いを産み出してしまっていたのかもしれません。

こうした意味で「サード・プレイス」は自身にとって、丁度良い境界線の引き方が出来る場所づくりとして、誰もが利用できるようになると良いのだと思います。
その場所は、
誰かにとっては「学びの場所」になるかもしれない。
誰かにとっては「憩いの場所」になるかもしれない。
誰かにとっては「新たな刺激を受ける場所」になるかもしれない。
誰かにとっては「自分のことを出来る場所」になるかもしれない。

「境界線の引き方」は個人的には、一生をかけても難しい課題だと思います。なぜならばそこに絶対解がないものだからです。


サード・プレイスの大事な観点

ここでサード・プレイスを考える際に、大事なキーワードになりそうな言葉を以下の本からいただきました。

この中に、もちろん「民主主義」をいう言葉の概念から、その正しい考え方は?ということにも触れている非常に内容的に深い面白い対談が続いているのですが、その中に

「自由の相互承認」

というキーワードがありました。もう少し噛み砕くと
「すべての人が対等で自由な存在であることをお互い認め合うことをルールとする」ということなのです。
まさしくこれが「多様性の理解」なのです。

違いを知る。そして違いを認める。
違いを知るために自分を知る、相手と違うことを知る。
そしてその存在を認め合う。

少し方向性が見えるようになったキーワードなのだと思います。
昔、自分が子どもたちと何かの議論をしているときに出た話題を思い出し、最後にしたいと思います。

「郷に入っては郷に従え」ってどう思う?
この言葉の意味を、何かしらで深掘りを4~5名の生徒と1時間くらいかけて話し合った記憶があります。
「新たな文化の中に入るのだから、当然じゃない?」
「でも最初は従うにしても戸惑いがあるのだから、慣れないうちは許してほしいよ
「でもなんか昔の考え方な気がして、古い気がする…」
いろいろ意見が飛び交いました。

ここで大事なのは、
「郷に入る側、郷にいれる側それぞれがお互いの違いを理解すること」
ではないか?という問いかけです。
そしてそれぞれがその違いを自身がどう感じ、そして双方の違いをどう感じすり合わせるか。
対立する概念があるならば、いかにそれを合意形成にもっていくか。
このプロセスを考えていくことが、実は本質ではないでしょうか。

こんな身近な諺の中にも、本質を考えるきっかけは沢山潜んでいるのです。
この議論は、卒業していった生徒たちの中でも、たまに話題になっているようです。こうした本質を考えることが、日常の中でどれだけしていけるかは教育を考える中で大事なことなのかもしれませんね。


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