【留学生時代】私の波瀾万丈なバイト物語②
いまの北千住は、再開発によって街の雰囲気が様変わりしたが、二十数年前は味のあるディープな街で、かなりの賑わいをみせていた。
先輩留学生に紹介されたバイト先は駅から徒歩5分ほどの2階建ての大型酒場だった(名前はもう忘れた)。1階と2階を足して、客席数は数十席もあり、とにかく広かった。1階は食事も出すレストランで、2階はお酒と軽食のみのバーみたいな感じだった。
客層も広範囲にわたり、夜はサラリーマンと日雇い労働者の憩いの場として多くのお客さんが訪れるお店であった。しかもメニューはどれも激安で、店内は常に賑やかな雰囲気だった。
オーナーである店長は60歳くらいのおじさんで、頭は 少しハゲ気味。背は小さく、お腹が出ている。精悍な外見ではないが、表情にはどこか威厳に満ちていた。
面接はわずか1分ほどで終わり、年齢だけ聞かれ、勤務場所はお店の2階で明日から夕方18時から23時まで出勤と告げられた。しかも週3回以上であればOK、人手が足りないので毎日でも歓迎とのことだった。
バイトが決まった夜は嬉しくて嬉しくて眠れなかった。なんだ、みんな心配してくれている留学生活は順調じゃん、早くも勉強と収入を両立できる。
日本語学校は午前だけ授業があり、午後は図書館で日本語の勉強、夜は5時間のアルバイトの生活は超理想。時給は低いものの、週6日間働けば、月に8万も稼げる!当時の中国のサラリーマンの月収を軽く超える額だ。
寝ながら思いを馳せた。
バイト代をもらったら留学生先輩からのお下がりの自転車を捨てて新しいのを買おう。
今度帰省時に両親や親戚、友達に何のプレゼントを買ってあげようかな。日本製品はみなんな憧れしているし。
お母さんには日本の炊飯器でも買ってあげようかな。中国の炊飯器はしょっちゅう壊れていたから。
お父さんには中国でも有名なあのセイコーの時計かな。付けたら周りから羨ましがられるのは間違いないな。
隣人の傑兄さんにも普段からだいぶお世話になったし、故郷を経つ日の朝、私のあの重たいスーツケースを率先して6階から降ろしてくれた(重量オーバーで空港で見事罰金取られたけど)。傑兄にもセイコーの時計かな。
幼なじみの平平は私が日本に留学しに行くと聞いて、大泣きするくらい本当の姉妹みたいだったから、彼女には資生堂の化粧水を贈りたいな。
あの夜、妄想の世界で10本くらいの時計と5本くらいの化粧水をプレゼンしてからようやく眠りについた。
(p.sプレゼントは気持ちだが、「気持ち」の解釈は日中で違う。「物が何であれ、それに込められた気持ち」を重視する日本人に対し、中国人の場合は、物の金額で気持ちを量ることが少なくない。特に20年前。プレゼントに関しては個人的に日本スタイルが好き。ご当地のお菓子だけで済ませられるし、簡単明快でお互いの負担が少ない)
次の日の夕方、初アルバイト出勤した。あの日の興奮はいまでも忘れられない。中国でも家族頼りっぱなしの私がついに自立向けて第一歩を踏み込んだから。
店につくと、日本人のおばさんバイトが教育係になってくれた。日本語がほとんどしゃべれない私に身振り・手振りで親切に教えてくれた。制服の場所や、お酒の作り方、注意事項など。その後は中国人バイト仲間にいろいろ聞きながらせわしなく働いた。日本語の日常会話がまだ覚えていなかった私は、まずは十数種類のお酒の名前と作り方を先に覚えたのはなんとも滑稽な話だ。
店が相当広く、たくさんのお客さんに対応するため、アルバイトは毎日20人以上居た。2~3人の日本人おばさん以外はみんな外国人だった。中国人が10人くらい、ベトナム人が5人、あとは東南アジアっぽい正確な国籍よくわからない人も数人いた。
バイト始まった三日目の夜の19時半頃、私は厨房で床に落ちたゴミをほうきで履いていた時のことだった、突然店の中が騒がしかった。
「警察だ、動くな」「警察だ、動くな」の怒号が響いた。
私は厨房から頭を出してみたら、店の中に20人くらいの男性が詰め寄った。みんな黒ずめの服で、ただならぬ雰囲気だった。
バイト仲間が次から次へと外に泊まっていた警察のバンに押し込まれて、私は厨房で茫然とたち尽くした。みんなどうしたの?何か事件でも起きった?私はすぐに帰宅した方がいいかな?と聞ける人もいなかった。
私はただただ事態を理解できずに茫然としていた頃、一人の男性が厨房に入り私を見つけ、「あなた、身分証を出せ」、財布から外国人登録証を見せて、きっとあなたは事件に関係ないから帰っていいよと言われるかと思いきや、「あなたも車に乗れ」って。え?えー?!どーして?どこに連れていかれるの?私が何をしたというの?聞きたくても何も聞けなかった(語学力の大事さを痛感)。
まさか、アルバイトの三日目に「激録・警察密着24時!!」のようなシーンで連行されるとは。。