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人を嫌うのに理由はいらない。どうか、嫌いなままのあなたを誇ってほしい。

大丈夫。明確な理由なく誰かを嫌ったところで、それを理由にあなたのことを嫌ったりなんてしないから。誰かを嫌うのに、理由はいらないよ。

――大晦日、年が明ける直前に妻とそんな話をした。

妻が、身近なある人のことをどうしても好きになれず、こんなに嫌いなのはなぜだろう、と考えていたので、

「なぜだろう、と理由を考えるよりも、どうすればその感情を大きくせずに済むかを考えてみたらどうだろう?」

という話をしたのだった。

そのとき妻にした話を、自分に言い聞かせるためにも、あらためて文章で残しておこうと思う。

―――

「あの人は価値観を押し付けてくるから嫌い」
「あの人はデリカシーがないから嫌い」
「あの人は人の気持ちが分からないから嫌い」
「あの人は話を聞かないから嫌い」
「あの人は失礼なことを言うから嫌い」

嫌いな理由は、どんなに掘り下げても、どんなにあげつらっても、「その人だから」という根源的な性質から抜け出せない。

何かの理由を考えて前進できるのは、何か行動したいときだけだ。たとえばダイエットや筋トレを習慣化したいとき、行動の強度や継続力を高めるために理由で補強するのはとても素晴らしいことだと思う。

なぜダイエットをするのか、筋トレをしてどのような自分になりたいのか。それらに対する具体的な想像は、強く行動を後押ししてくれる。

一方、嫌いな理由を考えることで救われるのは、その人を嫌い続けてきたこれまでの自分と、今後その人を嫌い続ける未来の自分だ。

嫌いな理由は、どこまで行っても変化がなく、そこには停滞だけがある。その停滞が必ずしも悪いわけではない。なぜなら、嫌いな理由を考えることによって、安らかな気持ちになったり、落ち着いた気持ちになったりすることもまた事実だから。

でも、そんなこと関係なく、嫌いな理由なんて探すまでもなく、あなたは安らいでいいのだ。

嫌いな理由を探す人は、正当な理由がなければ人を嫌ってはいけないと思っている節がある。そしてそういう人はたいてい、自己を肯定できていないのだ。嫌いな理由を探す人はどうやら「だから嫌っても当然でしょ?」という、万人が共感する嫌われて当然の理由を求めているのだけど、それは孤立を恐れているからかもしれない。

周囲と異なる意見を言うと孤立すると思っているから、同調してもらうために「嫌って当たり前の理由」を求めている。そうしないと自己を肯定できないから。自己を尊重されないから。そういう環境で、これまでずっと受け入れられてこなかったのだと思う。異分子として、出る杭として打たれてきてしまったのだ。だから恐れる。理解されないことを恐れる。共感されないことを恐れる。排他されることを恐れる。否定されることを恐れる。

でも実際は、そうやって共感されるための理由探しが、誰よりも自分を否定しているのだ。

人を嫌いになる理由をいろいろあげつらっても、本当は「嫌いな人がすることだから」それらが許せないだけだ。にもかかわらずそういった特徴を「嫌い」に当てはめてしまうと、自分や自分の好きな人がそれに当てはまる行動をしたときに減点しなければいけなくなる。そしてたいていの場合において、「嫌う理由」として挙げられる特徴は、人間ならば誰しも経験するような内容ばかりだ。

つまり嫌う理由の羅列は、他人への悪口の羅列は、自分を否定する材料の羅列でもある。


だから人を嫌いになるなと言うのではない。誰かを嫌うのに理由を求めるから、ひいては共感や納得を求めるから悪口になってしまう。そうではなく、あなたが嫌うならそれはそれでいいのだ。

人を嫌うのに、もっともな理由なんていらない。どんな聖人君子でも、いけすかないやつはいけすかないのだ。相性と言ってもいい。それを矯正する必要なんてないし、誰かと分かち合う必要もない。

ビールなら飲めるけどウイスキーは飲めないって人が、わざわざウイスキーが飲めない理由を考える必要なんてないのだ。キャベツは好きだけどピーマンは苦手って人が、いかにピーマンが憎らしい存在かを語る必要なんてないのだ。

あなたがそれを嫌うなら、私はそれを尊重するから。あなたがそれを嫌いな理由に共感することはできなくても、それを嫌いなあなたに共感することはできるから。

どうか、誰かを嫌いなままのあなたを誇ってほしい。

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