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【となりのトトロ】草壁父の行動がクズと蔑まれる3つの理由

駆け出しのライターとして出会ったメンバーたちが、毎回特定のテーマに沿って好きなように書いていく「日刊かきあつめ」です。
今回のテーマは「 #ジブリ 」です。

世の中には、「となりのトトロ」に登場する草壁家の父を、クズと非難する人がいるらしい。彼の職業を知りたくて「トトロ 父」と検索しようとしたら、「トトロ 父 クズ」という検索候補に出会ってしまった。

はじめはなぜなのかさっぱり分からなかったが、実際に検索して表示された記事を読み、その言い分にある程度合点がいった。クズと批判される理由にもいくつかあるようだが、なかでも私が気になったのが「幼い子どもから目を離すな」というものだ。

いわく、メイを自宅で見ていた際に、仕事に集中して子どもから長時間目を離しているのが信じられないのだという。メイが茂みを突き進んではじめてトトロと出会うシーンのことである。

確かに、家の周辺には一見して危険な場所が多く、作中での描写を見る限り外壁などが倒壊する恐れもありそうだった。敷地内とはいえ、あの場所で子どもから目を離すのはちょっと怖いかもしれない。

しかし、である。公式設定によるとメイは4歳だ。4歳の娘から目を離すことは、本当にクズと蔑まれるほどの所業なのだろうか。ちなみに作中ではメイの誕生月である5月をまたぐので、後半では5歳になっている可能性もある。

もちろん目を離す場所やタイミングにもよるとは思うが、少なくともトトロを観ていて「このお父さんはひどいやつだなあ」と思ったことはいままで一度もない。彼を批判する人としない人の間で、いかなる感覚の違いがあるのだろうか。

これを「過保護」の一言で済ませるのは簡単だけれど、学びがない。ということで今回は、草壁家の父がクズと非難される理由について自分なりに考えてみた。

草壁家の父がクズと非難される理由

ざっと思いつく限り、理由は3つある。

理由①:昭和と令和の違い

1つ目は時代による違いである。トトロは昭和20年代後半から30年代前半の日本を舞台にしたお話だ。当時は地域ぐるみでの子育てがまだ一般的で、都市部はどうかしらないが、少なくとも草壁父はそういう地域を選んで越してきたことが作中のやりとりからも察せられる。

この点に関して、30代の私は想像するしかないが、当時を経験した年代の人ならより実感を持って草壁父の行動を受け入れられるのではないだろうか。

実際、私の母は1949年(昭和24年)の生まれで、トトロの時代にメイと同年代だったことになる。そんな母の子育ては、それは見事な放任主義であった。4~5歳の頃には、私もメイと同じように1人で家の周りをうろちょろしていたが、自分の行動について口出しされたことはただの一度もない。

理由②:楽観主義と悲観主義の違い

2つ目は、楽観主義と悲観主義の違いだ。

一般的に、「もしものことがあったらどうするんだ」という悲観的な意見の方が正論であることが多いので、反論するには根拠をもって臨まないと話にならなかったりする。「もしも」を心配する人は1か0かで判断する傾向がある(=危険がゼロでなければ安心できない)ので、根拠があっても話にならないことは多い。

しかし、世の中には根拠なく世界を楽観的に捉えられる人もいる。草壁父がそうだし、我が家の父母もそうだった。そして、そういう人のことを心理学的に「自己肯定感が高い」とか「レジリエンス(心理的な柔軟性)が高い」などといったりする。

この感覚を持ち合わせていない人からすると、草壁父のような放任主義は、まるで子育てを放棄したネグレクトのようにすら映るだろう。しかし残念ながら、その育て方こそが自己肯定感を育む。放任主義は、子どもに対する信頼が根底になければ成り立たないからだ。

逆に言えば、「万一のことがあったらどうする」という考えを子どもに押し付けることは、「どうせ失敗する」「取り返しのつかないことを起こすに違いない」という否定的な決めつけを押し付けることであり、「お前なら大丈夫だ」と信頼して任せる姿勢からは程遠いため気を付けたい。

理由③:責任感や覚悟の違い

3つ目は、責任に対する認識や覚悟の違いだ。

なぜ子供から目を離せないのかといえば、そのすきに取り返しのつかないことが起きたら大変だからだ。それくらいの心配は、楽観主義の人だって同じように抱えている。いくら楽観的でも、根拠なく「この子は絶対に大丈夫」と確信して子どもから目を離すわけではない。ソースは私の父母だ。

取り返しのつかないことが起きるかもしれないという不安は、誰にだってある。それでも、いつかは見守れなくなる日が来るのだから、あとで困ることのないよう早いうちに勇気をもって目を離す。ただ面倒だから目を離すのか、勇気と信頼をもって目を離すのか。そこが育児放棄と放任主義の違いだろう。

そして、目を離すときに必要な心構えが「取り返しのつかないことが起きたら親がなんとかする」という姿勢だ。目を離したすきに、腕や足を失うかもしれない。二度と目を覚まさなくなるかもしれない。あるいは他人を傷つけ、人を殺めてしまうことだってあるかもしれない。それでも、なんとかする。それが親としての責任の取り方であり、覚悟なのだと思う。現実問題として責任を取れるかどうかでなく、取る気があるかどうかという姿勢の話である。

覚悟が足りていないと、そんな最悪の結果を受け入れられず、目を離せなくなるというわけだ。そう考えれば、草壁父に対する苛立ちは、ある種の嫉妬とも取れるのではないか。自分ができないことを平気な顔をしてやってのける様が、腹立たしいのかもしれない。

結び:そのとき本当に目が離せるかはわからない

以上、となりのトトロの草壁父が一部でクズと評されている理由について、あれこれ考えてみた。

私は「4歳にもなって親の目の届かないところで遊べないのはかわいそうだ」「だから積極的に目を離して遊ばせてやろう」と今は思っているけれど、しかし実際に子どもが4歳になったとき、本当に目が離せるのかはわからない。

どうしても難しいときは、また草壁父に手本を見せてもらおうと思う。

執筆:市川円
編集:真央

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