見出し画像

ローラーブレードで走り回った思い出は、すこし苦い。

駆け出しのライターとして出会ったメンバーたちが、毎回特定のテーマに沿って好きなように書いていく「日刊かきあつめ」です。

今回のテーマは「#昔流行ったこれ知ってる?」です。

子どものころ、ローラーブレードを買ってもらった。小学5年生か、6年生のときだったと思う。前輪と後輪が2つずつあるローラースケートではなく、アイススケートの刃みたいに縦一列にタイヤが並んでいるやつだ。テレビCMを見たのか、近所の子が履くのを見たのか、きっかけは覚えていない。全体がツヤのある黒いプラスチックで覆われていて、留め具だけ紫のデザイン。私が気に入ってそれを選んだのか、親が選んだのか、はたまたそれしか店頭に置いていなかったのか、その辺りのことはやっぱり思い出せない。思い出せないが、そのちょっと毒々しい色合いが気に入っていた。

ローラーブレードにもいろいろあるみたいだが、私が使っていたものは靴を履いてから装着するのではなく、靴として履くタイプ。足首が曲がらないスキーブーツのようなつくりで、慣れないうちは歩くのもおぼつかない。でも、近所の子どもたちと手を取り合って遊んでいるうち、あっという間に歩けるようになって、気付けば勢いよく滑れるようになっていた。我が家の前の道路はアスファルトが劣化していて、度重なる舗装や破損によるがたつきが目立つ。それらを、硬い樹脂製のタイヤ越しに全身で感じた。

私は運動が苦手で、同級生が休み時間にドッジボールやサッカーに興じる中、もっぱら図書室に引きこもっていた。球技は運動できる人が最初からそれなりにうまくて、上手な人がもっと練習するから、自分みたいな運動音痴はとても太刀打ちできない。追いかけっこくらいならまだいいけれど、活躍できないことが分かり切っているスポーツをやる気にはなれなかった。

運動は、やらなくなるとどんどんできなくなる。年に一度のマラソン大会で、1年生のときは学年で20番目くらいだったのに、5年生になると200番目くらいになった。そんな自分でも、ローラーブレードを履くと周りのみんなと同じように走れる。それどころか、ちょっとコツをつかめばもっとずっと速く走れるようになった。私は夢中になって家の周りを走った。はじめのうちは近所の子と一緒だったけれど、やがて一人になった。それでも走った。彼らにとっては一過性のブームのひとつに過ぎなくても、私にとっては替えの利かない体験だったからだ。

私の通っていた小学校では、高学年になるとクラブ活動というものがあった。野球クラブとかサッカークラブといった運動系のものもあれば、英語クラブやコンピュータクラブなんて文科系のものもある。生徒は任意のクラブに入って、月に数回集まって他学年と入り混じって活動を行う。私はローラーブレードができるクラブに入った。名前は確か、車輪クラブだったと思う。しかし、同じ学年で車輪クラブに入る人はいなかった。ローラーブレードで走ることは変わらず楽しかったけれど、人目に触れるのが無性に恥ずかしく感じるようになったのはこの頃からだ。

決定的だったのは、卒業アルバムの写真撮影。個人写真や行事写真のほかに、クラブの活動を掲載するページがある。各クラブの6年生が並んで集合写真を撮る中、私は顧問の先生と2人でフレームに収まった。写真を撮ったとき、そしてそれをアルバムで改めて見たとき、恥ずかしさが最高潮に達した。当時はよくわからなかったが、いまなら恥ずかしさの正体が説明できる。

ローラーブレードをいつまでもやっていたことを恥じているのではない。ローラーブレードを履いて、先生と2人で写真を撮る自分がみじめになったのでもない。ただ単に、かっこよくなかったのだ。

運動ができない自分は、ローラーブレードを履いたときの自分がかっこいいと信じていた。ところが、写真で見る姿は想像とかけ離れていた。運動不足とお菓子の食べ過ぎでお腹はたるみ、手足はぶよぶよ。普段はかけているメガネをローラーブレードのときは外していたから、コンプレックスである長いまつ毛が目立つのも気色悪かった。

人の目なんて気にせず自分の世界で楽しめていればよかったのだけれど、それができるなら最初から他のスポーツを楽しめている。私は人目を気にするからこそローラーブレードをやっていたのに、写真で客観視するまで現実に気づいていなかったのだ。

具体的に悪いことが起きたわけではない。思春期によくある心の変遷のひとつだろう。わかってはいる。それでもいまだに、思い出すとすこしだけ苦い。

文:市川円
編集:otaki


ジャンルも切り口もなんでもアリ、10名以上のライターが平日(ほぼ)毎日更新しているマガジンはこちら。


いいなと思ったら応援しよう!