「義理みやげ」のくだらなさ。
今回の日刊かきあつめのテーマは「おみやげ」。おみやげを用意する機会っていろいろあるけれど、もっとも多いのは職場や知人へ配るために用意する義理としてのおみやげではないかと思う。
私自身、今年1年だけでもそれなりの数のおみやげを用意したけれど、大半が「義理」だった。義理チョコならぬ義理みやげ。
個人的に、これが世の中で最上位に食い込むレベルで不要なものだと思っている。不要なものだとは思っているのだけど、これがなかなかどうして用意しないわけにもいかない。
なんせ日本は気遣いの文化だから、要不要の問題でなく、「あなたのためを思って用意しました」の心遣いが貴ばれ、喜ばれるわけだ。だからみやげ選びのセンスもさることながら、「みやげを用意した」という事実そのものを良しとする風潮がある。裏を返せば、「用意しなかった」場合、それを悪しとする文化とも言える。
本当はみんな、ディズニーみやげでチョコをもらうくらいなら、そこらのデパ地下で買ったチョコをもらったほうが嬉しいはずだ。
でもそれじゃあまるで、「楽しんできた代わりにおいしい物を買ってきたのでこれで勘弁してください」と許しを乞うているようであまりに下品だから。だから、あくまでも「みやげ」という体で渡す必要がある。
この踏み絵や免罪符のごとき「義理みやげ」が最高にくだらないので、なんとかしてなくせないものかと考えてみた。
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そもそもおみやげとはなんなのか。
「みやげ」とは、昔々まだ誰もが当たり前にいろいろなところに行ける時代ではなかったころ、どこかへ行く人に「自分の代わりにこれを買ってきてくれないか」とお金を渡して買ってきてもらう物だったという。
諸説あるのでそれだけをルーツと言い切るべきではないと思うが、このスタイルのみやげ自体は今もたくさん残っている。
ディズニーへ行く人についでにグッズ購入を頼んだり、とあるライブへ行く人についでにライブTシャツやタオルを頼んだり、どこどこの国で話題の物を海外旅行のついでに頼んだり。
「義理みやげ」に対して、こっちを「本命みやげ」とでも呼ぼう。
この「本命みやげ」はめちゃくちゃ合理的だ。
旅費やら時間やらあらゆるコストが削減できるうえに、同じ趣味や興味を持っていることを確認しあうことができ、親しい間柄だからこそ成立するかなり高度なコミュニケーションと言える。
そんな間柄だからこそ、場合によっては直接頼まれていなかったとしても「あの人ならきっとこれを喜ぶだろう」と気を利かせることができるわけだ。
本命みやげは、とても素晴らしいものだと思う。一方で、義理みやげはそれに似ても似つかない。本命みやげが成立する間柄だからこそできることを、そんな間柄でもないのに形式上だけ真似してみても、そりゃあ無理ってものだ。
義理みやげが最高にくだらないのはまさにそこで、「その物の品質だけ見れば一流」だと思えるみやげが、今は溢れすぎているのだ。だから目利きはもはやいらない。行った場所で長い時間を過ごすよりも、みやげを渡す相手に思いを馳せるよりも、Webで長い時間かけてリサーチした方がよほど話題性のあるものが見つかる。
そして、特定の誰かに向けた本命みやげよりも、職場という不特定多数の人へ渡す義理みやげは、「話題性や人気の有無」が重視されがちだ。問題の本質はここにあって、「特定の誰かを思うかどうか」が義理と本命を切り分けている。
さらに肝心なことは、「義理みやげは印象に残らない」ということだ。
これを書くにあたって、妻と少しみやげについて話をした。その中で「あなたは今までもらったおみやげで何が一番印象に残っているの?」と聞かれ、思い出せるおみやげがあまりに少ないことに愕然とした。
量産型の義理みやげはことごとく忘れ去られ、かろうじて思い出せたのは、いずれも「私個人に対して贈られた物」だった。
ほんの数週間前に会社の誰かが買ってきたどこかの義理みやげはとっくに忘れているのに、10年以上前にある人がくれた本命みやげのボールペンは、色も形も書き味までも克明に覚えている。
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そうは言っても。
職場に一切みやげを用意しないのも、いまどき角が立つかもしれない。それならせめて、選ぶコストだけでもとことん省くべきだ。ブラックサンダーが義理チョコとして売り出して大ヒットしたように、「これは義理みやげですよ」とアピールするのもいっそ清々しい。
一瞬で風化してしまう義理みやげに迷うくらいなら、本当に渡したい誰かのために本命みやげを選ぶべきだし、それを渡す相手がパッと思い浮かばないなら、みやげなんて忘れてその瞬間を楽しむべきだ。
編集:アカ ヨシロウ
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