子をかわいいと思う気持ちが錯覚だったとしても
息子に教えられたことは、「子どもはかわいい」ということである。教えられたというより、思い知らされたと言うべきか。
息子が生まれるまで、「子ども好き」を公言する人が信じられなかった。そんな雑なことがあるか、と思っていた。「○○な子どもが好き」なら分かるが、「子ども全般が好き」だなんてあり得ないだろう、と。一口に子どもと言っても多種多様な個体がいるぞ、と。
でもいまは、正直わかる。わかってしまう。子どもはみなかわいいという意見に共感できる自分がいる。それくらい子どものかわいさは暴力的で、強制力があるものだと、日々思い知らされている。毎日寝不足でくたくたなのに、早く二人目がほしいとすら思う。
そんな自分の現状が、よくよく考えるとちょっと気持ち悪いなと感じるようになってきた。
子どもをかわいがる自分が気持ち悪いのではなくて、どこかこう、制御できていない感じが怖いのである。熱に浮かされているというか、酔っ払っているというか、自分の意志で選んでいる感じが希薄というか……。
この気持ちに怖さを感じるのは、きっと本能から来ているものだからだ。本能に突き動かされるままに子どもをかわいがる自分が、どこか自分のものではないようで、ちょっと引いてしまう。
息子が生まれる前はこうではなかった。私には中学生になる甥っ子がいる。彼が小さいころはよく遊んだが、このような感情を抱くことはなかった。そりゃあ、ある程度はかわいいと思う。相手をしたときに喜んでくれれば、素直にうれしい。でも、あまりなつかれるとうっとうしいし、ずっと一緒にいたいとはとても思わない。その程度だった。
ところがいまは、ずっと一緒にいたくなる。仕事や家事なんてそっちのけで遊んだり、絵本を読んだり、歌をうたったりしていたくなる。
自分の子だから一層かわいく感じているだけかもしれない。でもそれだけではない気がしている。なんというか、子育てをすればするほど子どもが好きになるのだ。
これは、社会心理学で言うところの「認知的不協和の解消」なのかもしれない。
認知的不協和とは、報酬に見合わない労働を強いられたときなどに、「なんで自分はこんな安い報酬でこんな大変なことをしているのだろう?」といった自己矛盾を抱える状態のこと。
そして人は、認知的不協和を抱くと、それを正当化することで解消しようとする。「報酬に見合わない労働をするのは、お金には代えられないやりがいがあるからだ」といった具合に。いわゆるブラック企業ややりがい搾取がなくならない理由の一端がここにある。人は、自分にとって都合の悪いことを、本能でカバーするのだ。
私自身の例で言えば、子育てが辛く苦しいもの(=報酬に見合わない労働)であるからこそ、子どもはかわいく尊いものだと錯覚することで、認知的不協和を解消しているのではないか。裏を返せば、子どもを好きになった分だけ、子育てが辛く苦しいものだと感じているのかもしれない。
仮に、子育てが「報酬に見合った労働」だったらどうだろう。たとえば、子どもの面倒を1日見たら1万円もらえるとする。そのとき私は、いまと同じように子どもをかわいいと思うだろうか。子育てを楽しめるだろうか。答えは、きっと否だ。子育てのゴールがお金になったとき、私はいまほど楽しめる自信がない。
それは、労働に見合った報酬によって認知的不協和が解消したことで、自己矛盾を正当化する必要がなくなったから、ではないか。そう考えてみると、やはり今の自分は認知的不協和にとらわれていて、それを解消するために積極的に子どもをかわいいと感じようとしているのかもしれない、と思えてくる。
つまり、いま私が息子をかわいいと思う気持ちは、本能が苦痛をカバーするために感じさせている錯覚かもしれないのだ。手のかかる子ほどかわいいと言うが、手のかかる時期は子をかわいいと感じる、と考えれば、つじつまが合う気もする。
そこまで考えて、だったら何なのだ、とも思う。
正直なところ、私が子どもをかわいいと思う気持ちのすべてが、認知的不協和を解消しようとする本能による産物であると、本気で考えているわけではない。
ただ、仮に本能が見せる錯覚だったとしても、それはそれでいいかなと思うのだ。それをよしとしてしまうくらいのポテンシャルを、子どもの愛くるしさは秘めている。
文・写真:市川円
編集:アカ ヨシロウ
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