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泰然自若の精神で

今回のお題は「新年の目標を四文字熟語で」である。

わたしの2022年の目標は「泰然自若」だ。意味は、何事にも動じず落ち着いた様子のこと。どうしてそんな目標をもつのかというと、きっと来年は落ち着いていられないからである。

来年の1月7日は、第一子の出産予定日なのだ。予定日を目前に控えたわたしは、何を考えているだろう。あるいは予定が前倒しになり、この文章を公開するころにはすでに子どもが生まれているやもしれない。

この文章を書いている12月18日のわたしは、まだ少し余裕がある。少しというか、ずいぶん余裕がある。こんなに余裕ぶっこいていいのだろうかと不安になるほどだ。もうちょっとあわただしくするべきなのかもしれない。

気持ちを切り替えるために、何か書いておきたい。しかし、父親はこれくらいでいいのかもしれない、とも思う。それというのも、妻が子を宿してからおよそ250日のあいだで、実感したことがあるのだ。

それは、父親が母親の気持ちになることはできない、ということである。

当たり前と言えば当たり前だ。そもそも人は、だれかの気持ちに本当の意味でなることなどできないのだから。しかし頭のどこかで、努力すればもう少し寄り添えると思っていた。でも実際は、寄り添うことすら難しい。

妻が子を宿してからこれまでのあいだ、いろいろな不安と向き合う彼女を見てきた。妊活をはじめて最初の数か月は、そもそも妊娠できるかどうかという不安。妊娠できてからは、流産することなく安定するかという不安。安定期に入ってからは、親子関係に不和を抱える自分(妻)のような人間が親になっていいのかという不安。そして出産が近づいてきた今は、無事に出産できるのかという不安。

彼女がかかえる不安のなかには、わたしが同じ立場で悩めるものもあったが、「子を宿す母親だからこその悩み」も多かった。

それらの不安を妻から聞くとき、わたしは親身になろうとする一方で、「親身になろうとしているということは、わたしにとって究極、他人事であるのだな」と、嫌というほど思い知らされるのだ。でもそれも仕方ないだろう。だって、体に自分以外の生命を宿すという経験を、わたしはしていない。

妊娠中期に入ったころ、自治体の主催する両親学級に参加した。そこで、妊婦がどのくらいの重量を抱えているのか、全身に重りを装着して体験する機会を得た。重量もさることながら、大きなお腹が邪魔で、寝転がった体勢から身じろぎするのも大変なことは理解できた。しかしあの重りは生き物ではないから、丁寧に扱わなければ壊れてしまう、という本能的な恐怖を感じない。それに、たった数分間で200日を超えるギャップが埋まるわけもなかった。

ついでに言えば、妊婦健診や出産の立ち合いが原則禁止されていたのも大きかった。だから、妻の通う産院にわたしは一度も立ち入っていない。ここまでくると、いよいよ出産が別世界での出来事に思えてくる。

ただ、この250日あまりで、父親にできることは確かにある、とも実感した。

飯を作ったり、洗い物をしたり、ごみ捨てをしたり、掃除をしたり、洗濯をしたり、ペットの世話をしたり、産院まで送迎したり、妊娠や出産に関する情報を収集したり、マッサージしたり、話を聞いたり。

日々の生活のなかで、当たり前にできることはある。別に同じ気持ちになる必要はないのだ。同じ気持ちにならなくとも、支える方法はいくらでもある。同じ気持ちになれないからといって、役に立たないわけではない。子どもが生まれてからも、それは変わらないだろう。

だから、妻の気持ちになろうとして無理にあわてることはない。いまの調子で、余裕ぶっていればそれでいいのだ、きっと。そんなわけで来年は、何事にもいま以上に泰然自若の精神で落ち着いて向き合うことを心がけたいと思う。

文:市川円
編集:真央

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