NO MORE映画泥棒に映画監督が不快感 の話を読んで ― 映画泥棒は創造性のリトマス試験紙な可能性
『『NO MORE映画泥棒』に映画監督が不快感「どうにもならないのかアレは」 金子修介監督の問題提起に…賛否うずまく』
私個人は、強制的に同じものを見せられる苦痛があってあれが嫌いなのですが、人それぞれではあるようです。
あとお金を払っているのに、泥棒扱いされているようなところも嫌ですね。
それは、電車で通勤するたびに「痴漢は犯罪です」「痴漢をやめましょう」と電車の中で各駅聞かされ続けても同じように嫌になると思います。
あと
過去に書いたことの再掲載となりますが、
によると
とあるので
映画泥棒のCMが嫌いな人は「開放性が高い人」で、
それで
「繰り返し聴く(観る)ことですぐ好きでなくなる傾向があり」
となる可能性が高くあります。
ここで言う「開放性」とは、心理学のビッグファイブの「開放性」です。
ここでビッグファイブの「開放性」の説明を入れます。
「開放性」についての説明(ウィキペディア「ビッグファイブ (心理学)」より)
「開放性」は、「創造性」「芸術的興味」に関連するそうなので、
「創造性」「芸術的興味」のある人は、総じて「繰り返しに耐えられない」傾向のある人だと見ることができます。
繰り返しに耐えられないからこそ、創造に向かうという話です。
なので、「創造性」「芸術的興味」があるであろう映画監督が不快感を示すことはありうる話だと思いました。
「逆に開放性が低い人は繰り返し聴くことでより好きになる傾向があった」ということは、創造性が低く保守傾向のある人は、映画泥棒の繰り返しCMを好意的にとらえているということになります。
悪く言えば、映画泥棒のCMを気にしないと言っている人は、己の創造性の無さを公言しているとも言えそうです。
蛇足1
「創造性」が価値を持ち始めた感じが最近するのは、
今のところAIがこれを苦手としているからだと思われます。
この価値がいつまで続くかは分からないところだとも思っています(AI次第で価値が容易く変わりそう)。
蛇足2
はてコメ には以下のようなものがありました。
日本は一度始まったものは、なかなか止められない社会なので(止める判断ができない。前例踏襲。変化を起こせない。継続に安定を見い出す)、
これもまた止める理由が出てもなかなか止められないだろうな。なんて思っています。