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サッカーが世界一嫌い

こんにちは、榎本です。
今回は私の人生の軸であり、土台でもあるサッカーについて少し綴ろうと思います。

※今回は人に見てもらう文章というよりは備忘録として過去をありのまま載せたモノです。ご了承ください。


・サッカーがとにかく嫌い。
・魔法が使えるなら即サッカーを消すぐらい嫌い。
・サッカーは世界一面白くない競技

これらが長年の口癖だった私が、なぜ20歳になった今でもサッカーを続けているのか。

そして、一体いつからサッカーを肯定的に捉えるようになったのでしょうか。

私の16年間のサッカー人生を振り返り、紐解いていきます。
とても長いので、お時間が無い方は「さいごに」だけでも十分だと思います。


はじめに

私は吹奏楽部の母とバイク好きの父の間に生まれた人間。祖母は書道の先生で祖父も医者という、スポーツとは無縁の家系でした。
しかしどうでしょうか。私は弱冠4歳でボールを蹴り始め、気づけば20歳の今もサッカーに関わっています。誰が見ても私の人生は間違いなくサッカー色に染っています。

ただ、私がサッカーに対して抱いてきた感情は、他のサッカー少年・少女とは違うものでした。

正直に言うと、私はサッカーが嫌い。本当に心から大嫌いで、頭の中はいつも「サッカーが嫌だ」という思いで一杯でした。
今だから分かるのですが、サッカーは私が一番向いていない競技です。他にも水泳やテニス、さらにはピアノも習っていましたが、そちらの方が私に合っていたと思います。

それでもサッカーを続けた理由は明確ではありません。中学2年生までは「なぜ自分はサッカーを続けているのか」すら分かっていませんでした。


幼稚園時代

幼稚園入園後、新体操、体操、サッカーの3つのクラブから選択肢を与えられた。母は身体能力を伸ばせる体操を推したが、私は「ボールを蹴ってみたい」という好奇心からサッカーを選んだ。クラブに所属すると楽しかったし、最終的に卒団する小学校6年生までそのクラブにいた。
特に何も考えずにボールを追っていたので、サッカーのことは好きでもなく嫌いでもなかったと思う。

小学校時代

転機が訪れたのは小学3年生の頃。
同じクラブの仲間に誘われ、小学校の少年団チームに加入した。そこで急遽キーパーを任され、そのままゴールキーパーとしての道を歩むことになる。
私以外は男子しかいないチームだったが、私は男子に混ざり試合で活躍し、女子ながら男子の県選抜にも選ばれた。男子相手に女子がキーパーをしていたという前代未聞の学年であった。

だが、この頃からサッカーが好きではなくなっていた。単純に動くことが嫌いだったため練習が面倒で家でゲームをしていたい気持ちの方が強く、練習量も最小限。技術も体力もチーム最下位だったが、男子相手に飛び込む度胸と「絶対に止める」というガッツだけでなんとか乗り切っていた。

恐らく思い通りにプレーが出来ないことに不満を覚えていたのだと思う。今思えば「練習しろや!」と喝を入れたくなるが、怠け者だった私は何もしなかった。当時のチームメイトとコーチ達に心から謝罪をしたい。

小6の頃には「中学ではサッカー以外の部活に入りたい」と考えていた私だが、女子サッカーチームからのオファーを受け、一度練習に参加してみると、本格的なキーパー練習の存在に感動し、勢いで入団してしまった。

中学校時代

ここからが地獄だった。
何も知らずに入ったチームは全国常連のクラブチーム。そして慣れない女子チーム、周囲の高いレベル、加えて私のコミュニケーション能力の低さ。
それらが重なり、入団直後から「辞めたい」という気持ちが強くなっていった。それから、母に「辞めたい」と泣きつく日々が半年以上続いた。

後から知った話だが、母はこの時、当時の担任の先生に娘(私)を辞めさせた方がいいかを相談していたらしい。

そんな中、少しずつチームに慣れ、実力もついてきた矢先、中1で第5腰椎を疲労骨折。その後も膝の半月板損傷を両膝とも経験し、中学2年生のほとんどを怪我で棒に振った。そして迎えた中3、最後の大会で私は試合の出場権を後輩に譲ることになり、悔しい思いで終えた。

怪我明けぐらいからはサッカーに対しての意識が変わり、楽しさというよりかは勝ちたい。上手くなりたい。という執念でサッカーをしていて、いつの間にか更なる高みを目指していた。

約2年間を怪我人生活で終えた私だったが、その後、運良くスペイン短期留学や関東選抜の機会を得て、数十校からオファーをいただくことができた。


中学校3年間のほとんどをサッカーに費やしたため、勉強に注力することができていなかった。
そのため高校では「絶対に勉強を沢山してやる」という強い意志を持ち、推薦を使わずに進学する予定だった。

しかし数多くのオファーの中でも
・全国大会出場チーム
・キーパーの練習環境がとても良い
・GKユニフォームが好み


という理由で、私の運命を大きく変えた某スポーツ強豪高校への進学を決めた。そして、部活を第1優先にして活動をする、いわゆるスポーツ科に所属することを決意したのであった。
当時、宇宙飛行士になりたかった私は将来の夢を諦めるしかない現実に落ち込んでいたが、その反面、自分の手で全国大会出場を掴みたいという熱い思いで溢れていた。

高校時代

入学後は寮生活との両立で厳しいものだったが、「勝ちたい」「上手くなりたい」という執念でサッカーに向き合い、少しずつ実力を伸ばしていった。

珍しく怪我無しで迎えた高2の夏、右膝の後十字損傷。ここから順調なサッカーライフの歯車が狂い始めたのである。
この辺りから無理にプレーをする毎日が続き、中学校の頃の腰の怪我も影響してきていた。

その頃から「チームを勝たせる」という硬い意志の元、誰よりも最後までグランドに残り自主練習をし、男子の練習にも参加していた。必死にサッカーに食らいついていた毎日で大変だったが、いつの間にか楽しいと思えていた。小学校の頃は嫌で嫌でどうしようも無かったサッカーに対しての考えが大きく変わっていたのである。
ただ、決して上手いプレイヤーではなかったため、一緒に練習をしていた男子GK達には本当に申し訳なかったと思う。


ここで人生が大きく変わる出来事があった。高校生3年生の夏、また右膝の後十字靭帯を断裂させてしまった。3年間の集大成である選手権大会予選の直前、競技成績を使って早稲田大学に進学しようとしていた私には大きすぎる衝撃だった。

なぜこのタイミングで怪我をしたのだろうと苛まられる日々。
とても苦しかったが、どうしても全国大会の舞台に立ちたかった私は、大学サッカーを捨ててでも意地でプレーを続けることに決め、受験校を某体育系大学に変えたのであった。

思い通りプレーがいかない毎日、どんなに体が痛くても、受験勉強でコンディションが悪くても最後まで残って自主練習をしていた日々。
とても辛かったが、周囲の仲間や地元の友人からの応援で乗り切ることが出来た。
しかし、関東大会での出場を最後に、私自身の高校サッカーは終わりを告げた。

悔しくて痛くて辛くてしょうがなかった。試合に出たいのに出れない現実。歩くだけでも痛い膝。何もかもが嫌だったが最後までやりきった私を褒め讃えたい。(ただ今ではもっとやれたのではないかと思ってしまう。)

全国大会1回戦目で負けた際には、初めて人前で人生最大の号泣をし、私の珍しい泣き姿がTBSの特集に載ってしまうという私らしいオチであった。

正直もっと努力できたよな、と思うが、やり切った想いはあった。
大学では、今までできなかった勉強と様々なことへのチャレンジに胸をふくらませていた。

大学時代

高校時代に無理やりプレーをしていた反動でかなり体にガタがきていたが、「自分が納得できるプレーを90分間(1試合)できるまではやめない。」と覚悟を決めていたため、下手くそながらに頑張ろう。と意気込んでいた。

練習参加して同期と先輩の優しさに感動しつつ、自分の実力不足に頭を抱えていた。
しかし同時に、「これは伸び代しかない良い状態だ」と捉え方を変えることで、今後の大学サッカー生活が楽しみになっていた。



ここで人生最大の転機が訪れる。
母からの電話である。


母から「電話をしたい」と言われることは滅多に無いため、内心焦りながら話していたことを覚えている。



内容は学費を全て母が負担するというものだった。



私が中2の頃に一度倒れている経験がある母は、身体が強いとは言えなかったが、私のために身体を無理やり動かしてパートとして働いてくれていた。



頭は真っ白。何も考えられない。
ひとつだけ確かに覚えていることは
「ここで潮時なのかもしれないな」
と感じたことである。



その夜、寮の先輩に相談しながら、自分がサッカーを離れることを決め切る覚悟の準備をしていた。

あんなに嫌だったサッカーを離れられる。10数年間嫌いだったあのサッカーとお別れ。

自分にとっては嬉しいはずなのに、なんだかとても苦しくて、大号泣をしていた。
優しく迎え入れてくれた同期と先輩たちを裏切ってるような気がしてならなかった。そして、応援してくれてる地元、中学、高校の友達を捨てるような感覚だけがひたすらの残ってしまった。

人生最大の選択にかなり時間を有したが、
結論としては、大学サッカーは続けないことにした。


結論を下してから1週間は無気力状態で、全てに対してやる気が起きなかったが、裏切り者の私にもサッカー部の同期と先輩たちは優しく接してくれた。


そしてすぐに転機が訪れる。
しばらくしてから、バイトで学費を稼ぐ私に、
「ウチのチームでキーパーやってくれ」というLINEが一通きた。相棒Nからのお誘いだった。


私の中で世界一大好きである相棒N
(いずれこの相棒Nについても投稿をします)
からのお誘いを断るわけがなく、少し遅めの大学サッカー生活が始まった。

今までと比べて環境が良い訳でもない、レベルが高い訳でもない。それなのに心から楽しいと思えるサッカーをすることができている。
仲間にも恵まれ、完璧を求められないこの環境が私にはとても合っていたのである。この環境のおかげで更にサッカーのことを好きになれた。
今は大好きなサッカーを大好きな仲間たちとプレーしている。


さいごに

サッカーって実はとても簡単で、

ボールをゴールに入れるだけの競技 なんですよね。

それなのに世界中の多くの人が熱狂しています。
普通に考えたらおかしいですよね。面白さが理解できない気持ちも分かります。

ただ、それだけ奥が深く、ボール1つで誰とでも繋がれる素晴らしい競技でもあります。
私は見事に「サッカーに魅力されてしまった」というわけです。


サッカーは人生と少し似ている気がします。
どちらも1人ではゴールできません。

もちろん1人で練習をしたり、鍛錬を積むのも重要ですが、何より人の繋がりが結果を産むモノです。

今までの苦悩や成功、努力や失敗。全てが私の財産であり、これからの人生へのパスであると思います。

現に、サッカーを通じて日本中の方と交流ができています。
最近では、大学の寮の部屋員に勧められて始めた
ジェフユナイテッド市原・千葉の観戦に夢中です。

うんざりする程サッカーが嫌いだった過去も、怪我悩まされていた数年間も、サッカーを離れそうになった経験も、全てが繋がって今の私があります。


無駄だったことはひとつもありません。
今までの全ての環境に感謝しています。

とても長くはなりましたが、これらの経験を通して学んだことを活かし、多くの人に還元できるよう努めていきます。

私も誰かに人生のパスが出せるよう、日々精進したいと思います。
今後もこんなサッカーバカ榎本をよろしくお願いします。

以上、榎本でした

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