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叔母の命日と「死」と「想像力」。
終戦記念日である。戦争中なわけではないが、溺愛されていた叔母の命日である。脳腫瘍で亡くなったんだけど、母方のばぁちゃん教祖だったから、割とそっち家系にはオカルトな話が結構あったりする。
叔母は何故かワシを溺愛していた。自分の子3人おったが、年齢がもう大きくなっていたからもあるのかもしれないけど、妙に可愛がり、入院中に病室の引き出しにワシの写真があるほどだった。何となくワシ、そっちの子じゃねぇのか?と思ったりもした、数秒だけ。
溺愛の結果か知らんが、一時退院してる時とか同時刻に別の場所で転んで同じ個所打ったりとかもあったし、そういや幼少期の一番古い記憶かなぁと思われる「祈祷師のとこで護摩焚かれてる」ってやつん時にも叔母いたわ。祈祷師に何を頼んでいたのかは未だに不明ではある。ワシのこともされていたが、まぁ大人になって「あーあの件でなのかな」というのはあった。
小2の時に亡くなってるので、身内含めて一番最初に「死」と対面したのも叔母だった。正直、「死」の概念は当時ないので、亡くなった時よくわからんかった。が、お棺に入ってる叔母と対面して、対面した瞬間にギャン泣きしたのは覚えてる。怖かったとかではなくて、「あ、死ってこういうことなんだ」と本能的に、直感的に感じてギャン泣きした。
基本、父方の墓参りには行かないんだけども、叔母のはよく行ってた。おかんがよく行ってたから連れられていたのもあったが、おかん亡き後でも姉貴と叔母の方の墓参りにはよく行っていた。父方の墓におかん入っていたが、何となくこっちにいるよね…で、いっとった。
まぁ今は行ってないけども。
ただまぁ不思議とさ、叔母が亡くなったすぐに一番上の従姉が産んだ子はこの日生まれだったんだよね。よくある話といえばそうなんだけど、生まれた時間と亡くなった時間も大差なかったのでオカルトや…生まれ変わりとか言う前にオカルトや…と思ったのを覚えていたりする。
おかんが亡くなるのはそれから10年ちとくらいなんだけども、合間で親戚も亡くなったりもしていたが、自分が「死」に対しての耐性というか、意識しっかりしてたのは叔母が亡くなった時のギャン泣きの影響だなと思う。創作テーマの「対象喪失」に対して考えたのは小学校の高学年くらいなんだけど、影響の一つなのは間違いない。
おかんはもう自分が小学生の頃から入退院を繰り返していたが、家のことやったりも自分がしてたけども、余命宣告されてたそうだが、娘らには教えてくれなかったので他界するまで知らんかったが、高校生の時に亡くなった時、いい意味でも悪い意味でも「強い」と言われた。別に身近じゃない人らには入退院の話言わんかったしね、言ってても、「死」とはみなさん無縁な年頃です。想像つかんかったらしい、それはそれでいいと思う。
だが実は「強い」と言っていたのは大人らだった。
泣いていればそれでいいのか?落ち込んでいればいいのか?悲しい顔をしていればそれで納得するのか?学校で大変そうな素振りをそもそもだしていればいいのか?弱弱しくいればよかったのか?
要するに一部の先生(それは実は担任だけ知らんかった)はワシの家の状態を知らんかったので、おかん他界後に驚いたっつう話なんだけども、何それ?だったわけ。しかもそれを他の生徒に言って、それを伝言ゲームで言われた時の苛立ちはなかった。まぁ他にも高校生の頃って伝言ゲームみたいなことされてまったく別のことで苛立つことはあったんだけど、まったくそれは関係ない話です。
そもそも別に表面上というか、まぁ何もない+何もなかった鉄仮面状態でいたんだけどもさ、それ聞いた時、決意を新たに鉄仮面したわ。卒業までの数か月やらかしたわ、ガチ鉄仮面を意地で。
結果、卒業後しばらく落ちることはしたんだけども、まぁなんかそのあたりで完全に創作テーマはかたまったし、さっさと浮上するんだけども。
確かに達観してたといえばそうなんで可愛くない生徒だったんだと思う、担任だけ知らんかったようなもんやし。ま、それもさぁ、想像力の欠如だなと思うんだよね、体験してないからわからないで済ませてはいけない。
いろんな意味で。