国会図書館に所蔵されている国会議事録より,いわゆる「三園長証言」を見ることができる。
「癩予防法」改正問題が浮上した昭和26(1951)年11月8日の参議院厚生委員会において,林芳信(全生園園長),光田健輔(愛生園園長),宮崎松次(恵楓園園長),小林六道(国立予防研究所所長),久野寧(名古屋大学教授)の5人のハンセン病の学者・専門家が諮問され,特に国立療養所の三園長は,この病気が極めて弱い発症力しか持たないことやプロミンの登場によりハンセン病が治る時代となっていたにもかかわらず,隔離の強化と患者への懲戒規定の強化を主張して法改正を強く求めた。これが「三園長証言」である。
今,あらためて「三園長証言」を読み返してみると,この証言が歴史的に重要な分岐点であったことがよくわかる。是非とも一読してもらいたいと思い,ここに全文をPDFで掲載しておく。
「三園長証言」は、最初に3人の園長による「意見」が述べられ、その後に「質疑応答」である。その内容を、犀川一夫は『ハンセン病医療ひとすじ』で、次の4点に要約している。
私は、犀川の要約を参考にしながら「患者の分布状況と強制収容」「治療と療養所の問題(絶対隔離)」に関する3人の説明と意見を抜き出し、彼らのハンセン病観、患者観を明らかにしておきたい。
まず、「患者の分布状況」について、林は次のように述べている。
林の示した「患者数」に光田も宮崎もほぼ賛同している。問題なのは、なお「未収容」の患者を「周囲に伝染の危険を及ぼす」と決めつけ、全患者を「収容」することに固執していることである。
次に、林は「収容」に関して、次のように述べている。
この林の意見は、当時においては、最も妥当である。彼の心中には「山梨県一家9人心中事件」が強くあったのかもしれない。
これに対して、光田にはそういった患者や世間に対する「配慮」は一切なく、ただすべての患者を強引にでも収容するための方策を訴えている。
光田が言う、「元は警察権力の下にあった」のに、今は「保健所の職員に任せてある」から「収容がむずかしい」とはどういうことか。これについて、藤野は次のように説明する。
宮崎松記も、警察から衛生警察事務が移管されたことについて、「質疑応答」の中で、次のように述べている。
宮崎は、強権を発動して「強制隔離」を遂行できる「人の意思に反して収容する法の裏付け」を求めている。つまり、従来のように「強制隔離」を認めた「癩予防法」の改正を要求しているのだ。宮崎は、光田と同様に、患者を<治療の対象>ではなく、<感染源>であり<隔離すべき対象>としか見ていない。それは、次の証言でも明らかである。
これが宮崎の患者観である。患者を「古畳」に隠れた「塵」のように表現できる人権感覚は、<感染源>から社会を防衛するという<大義>によって正当化される。それゆえ、出席した国会議員は誰も問題視しない。これが<権威>や<専門家>のもつ独善性である。
「質疑応答」の中でも、「強制収容」に関して、光田と宮崎は次のように答えている。
光田も林も、戦前と同様、<予防>=<絶対隔離>の考えに固執している。そのために「強制収容」を可能にする強権的な法律に「癩予防法」を改正してほしいと要求しているのである。国会議員は、この<予防>という「目的」、国民をハンセン病の感染から守るという<大義>により「強制収容」は正当化され、患者の犠牲も仕方がないと納得したのである。だから、「癩予防法」の改悪は国会を通過したのである。光田らの「詭弁」によって正常な判断ができなかったのである。