1941(昭和16)年、アメリカで「プロミン」が開発された。当初は結核の治療薬として作られたプロミンだったが、結核には効果がなく、ハンセン病には大きな効果が発揮され特効薬として認められた。1947(昭和21)年1月に長島愛生園において輸入プロミンを用いての治験が開始され、次いで栗生楽泉園でも始められた。4月には東大教授石館守三によってプロミンの合成が成功し、10月には吉富製薬が製造研究に乗り出して翌年には製品化した。日本でもプロミンによる画期的な効果が発表され、ハンセン病が「完治する病」となった。
プロミンの治験の経緯と効果に関しては、成田稔氏『日本の癩対策から何を学ぶか』に詳しい。これを読むと、治験当初はプロミンの効果が完全ではなかったが、それまでの大風子油などの治療薬よりは格段の治療効果であり、さらにプロミンをベースに研究が進み、DDSなど新たな治療薬も開発されていったことで、ハンセン病医療が「完治」に向けて大きく前進したことは確かである。しかし、プロミンに対する光田の見解は否定的であった。
光田は治験の効果を認めながら、なお「十年以上経過を見なければ真の効果は判定することができないであろう」と慎重である。さらに、次のようにも述べている。
小笠原登を排斥した光田の言葉とは思えない。この一文を読むかぎり、光田はハンセン病医療に尽力する医学者として実に真っ当な意見を述べている。だが、この一文の次に光田の本音が明らかになる。
光田にとっては、患者が治癒することと感染源である患者を隔離し絶滅させることは「相反」することでも「矛盾」することでもなく、「相補」することであった。それは「ライ菌」への恐れであり、光田は「ライ菌」を絶滅させることが至上命題だったのである。
この「最後の危機」と題した一文からも、光田が「プロミン」に対して懐疑的であることがよくわかる。光田は「ライ菌」の死滅を信じてはおらず、再発と感染の危険性から絶対隔離の考えを固持している。
光田は、この一文に続けて、ハワイのモロカイ療養所やフィリピンでの「放免制」によって再発したり感染が拡がっていることを例証として書いている。また、彼が出席した第三回国際らい会議(ストラスブルグ)において「治療の効果によって隔離をやめるのは未だよくない」と提言したことを書いている。この会議では「冷酷厳重で人道を無視するような隔離を避け、治療設備を完備させる」ことが決議されている。にもかかわらず、光田は絶対隔離に固執し続け、各療養所に「監禁所(監房)」を設置し、栗生楽泉園に「特別病室(重監房)」を造らせたのである。
1950(昭和25)年10月に『回春病室』は出版されている。「自序」によれば、藤本浩一が光田の「生涯の記録」が記述されたとあることから、光田の書いてきた随筆などの散文をもとに藤本がまとめたのであろう。上記の一文の中に「昨年(1949年)」とあることから、引用した一文は1949~1950年のものと考えられる。
光田は、1950年2月の第7回衆議院厚生委員会、翌1951年11月の第12回参議院厚生委員会において参考人説明として証言している。特に参議院厚生委員会での証言は「三園長証言」として物議を巻き起こしている。これに関しては別項にて論述するが、光田にとっても厚生省にとっても、そして療養所内外に暮らすハンセン病患者にとっても、1950年からの数年間は激動の時期となった。
プロミンの絶大な効果は患者に希望の光となり、1948(昭和23)年、多摩全生園では自治会が中心となり「プロミン獲得促進委員会」が結成され、GHQ・大蔵省・厚生省、国会議員らにプロミン獲得の請願書を提出した。しかし、厚生省が大蔵省に要求した1949年度のプロミン治療費の予算6000万円は6分の1の1000万円に削減された。これに対して患者5人がハンストに入り、さらに患者代表は共産党代議士伊藤憲一の助力で吉田茂内閣の大蔵大臣池田勇人に直接陳情をした結果、患者側の要求に応じたプロミン治療費5000万円が認められた。そして、1949(昭和24)年からプロミン治療は本格化していった。
光田らが絶対隔離政策を維持するために暗に企てたと思えることが、プロミンの治療は療養所でなければ受けられないとしたことである。成田稔氏は次のように書いている。
成田氏は『「らい予防法」四十四年の道のり』の中で「三園長の思い出」を書いている。光田が退官した後の1957年10月頃、愛生園に犀川一夫を訪ねた時、一度だけ光田と話したことがあると言う。光田は退官後も愛生園に部屋を持って「居座っていた」。
「新進の形成外科医を自負していた頃だから、言われて大いに傷ついたが、この病気は治らんとは光田の本音だったかもしれない」と、成田は『日本の癩対策から何を学ぶか』で書いている。私もそう思う。光田にとってハンセン病が「完治」する病になれば、自らが築き上げてきた絶対隔離の牙城は崩れ去る。それゆえ、光田はプロミンもDDSも認めたくはないのである。