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部落史から部落問題を考える

部落史からみた部落問題について,以前とはやや別の視座から考えるようになってきた。現代の部落問題や人権問題,その課題と対応を考えたとき,従来のような「部落史的な根拠(理由)付け」では解決の展望が不明瞭であると思うようになった。部落問題をより広義の意味で捉え直す必要を感じている。
「部落史の見直し」以前に定説のようになっていた「近世政治起源説」を再度検証し直すと同時に,「部落史の見直し」そのものを検証することを通して,部落問題の本質とは何かをあらためて問い直すことで,人権問題としての部落問題を考えてみたい。

1 部落史観が転換されても,部落差別を解消することはできない。

今までの多くの部落史研究の目的は,現在の部落や部落民が差別されている要因(起因)・経緯を歴史的に明らかにするためであった。その一つが,江戸幕府の支配政策である身分制度と分断支配に根拠(起源)を求め,「士農工商・えた・ひにん」という上下のピラミッド構造として図化し,差別の実態から「部落差別」の不合理性と不当性を述べてきた。

つまり,支配システムにおいて被差別身分の必要性(「見せしめ」「優越感」「役目」「職業」)から部落はつくられたと説明してきた。しかし一方で,部落差別を否定する(差別の不合理さ・理不尽さに怒りをもたせる)ために,被差別民の貧困・悲惨な姿ばかりを誇張して描いてきた面がある。
その結果,江戸時代から被差別民はずっと貧しく苦しく悲惨な生活を余儀なくされてきた「かわいそうな人々」というマイナスイメージが固定概念となって人々の意識に浸透していったことは否定できない。

また,「被差別民」や「賤民」と規定された人々について,「差別」「賤」という概念を明確にせず(現代の価値観から判断した)「歴史概念」として定義してきた結果,必ずしも歴史的実態(実像)の多様さに対応した認識とはなっていない。「差別」「賤」の定義によって,彼らがはたして近代的・現代的な価値観での「被差別民」「賤民」であったかどうかについても検討する必要を感じている。
しかし,何よりも「差別」「賤」の定義が曖昧・不明確であるがゆえに,あまりにも独断的・一方的に使用されていることも問題と考えている。何でもかんでも「差別」「差別的」「差別者」と決めつけて,他者を批判・攻撃する手法に使っている風潮があり,その無責任な独善さが新たな人権問題を生み出していると思う。

部落を「穢多」と呼ぶ歴史観は,部落の外側から,「貧乏で,最低の身分」とのマイナスイメージで呼んでいることを示しています。これは言うならば,「差別する側の歴史観」です。差別をする側の歴史観を教えれば,差別を誘発することになります。「歴史の客観的事実」として,同和教育の中で教えてきたのですが,差別を拒否する歴史観たり得なかったのは明らかです。なぜなら差別する側から見た歴史を「歴史の客観的事実」として学んでも,差別を不当とする思想は生まれてこないからです。被差別側に立った歴史を学ぶことから,差別の不当性を学び,差別を許さない心情を育てることができるのです。同和教育の本質はここにあります。自分たちを「長吏」と呼んだ部落の側の歴史は,「穢多非人史観」とはまったく別のことを教えています。また,部落の歴史は,「くらい」とか「惨め」「貧しい」といったステレオタイプでは語りつくせない,もっと多様な面も持ち合わせています。
(和田献一『ちょっと待って!人権がある』)

「差別する側の歴史観」がまちがっているとしても,「被差別の側の歴史観」が必ずしも正しいとは思えない。また,【長吏に御座候を穢多と呼ぶは僻言に候】という被差別民がいる一方で,被差別民に対して「穢多」と呼んで賤視していた人々がいたのも「歴史の客観的事実」である。「穢多」と呼ばれることが,なぜ「僻言」なのかを考えてみたい。
 
「歴史の客観的事実」とは何か。その前提は,各時代によって価値観や社会観・人間観が異なることであり,現代の価値観や社会観・人間観,あるいは現代社会の様相から過去の時代を解釈すべきではないということだ。その時代にはその時代の価値観や人間観・社会観,社会の様相がある。それを前提とした上で,その時代を現代の視点から考察しなければならない。

「江戸時代の身分制社会を生きる人々」を考えるとき,現代の価値観や現代社会の様相から判断すべきではない。その身分に応じて生きている以上,現代の価値観から理不尽・不合理と思えることであっても,その身分の人々がどのように思いながら生きていたかは別の次元のことである。逆に,江戸時代の身分制社会を生きた人々の子孫が現代人であるとしても,江戸時代の価値観や社会観を現代につなげて自分を語ることもおかしなことである。時代の変遷は価値観や社会観・人間観,社会の様相の変化である。自分の祖先が「武士」であること(末裔)を現代において誇っても何の意味もない。

江戸時代に「武士」であっても,それ以前は何者であったのだろうか。また,何世代も前に遡れば,いろいろな「祖先」がいたであろう。江戸時代の「身分」に自分のrootsを求めて何になるというのだろうか。むしろ,「百姓」であろうと「穢多」「非人」であろうと,江戸時代の「身分」にこだわる価値観や社会観・人間観こそが問題なのである。そもそも「由緒」や「家柄」にこだわる考え方は「学歴」や「資格」にこだわる以上にnonsenseであり,江戸時代の「身分」にこだわる考えが部落差別を助長してきたのである。

人間を「学歴」や「職歴」「肩書き」「家柄」にこだわってしか判断できない愚かさが他者に対する傲慢さと卑屈さ,偏狭さを生み出している。
「学歴」に「劣等感」(Inferiority Complex)をもつ人間は常に他者の「学歴」(国立大学と私立大学,一流と三流)にこだわる。祖先の生き様を誇ることや大切にすることと,祖先の「身分」としての役目を誇ることは別である。いくら身分に付随する役目や仕事が立派であり誠実に励んでいたとしても,それはその人間の生き方であり,人間としてのあり方であって,その「身分」が立派なわけではない。

祖先の生き方やあり方を誇り,その姿に学ぶことは大切であるが,その姿をすべての同一身分の人間に適用させた拡大解釈は「画一的な歴史観」と同じである。「武士」に立派な人間もいれば下らない人間もいるように,「百姓」も「穢多」「非人」も同じである。「役目」が社会的に重要であり,その「役目」に忠実に職務を遂行していたから「立派」でも「差別されていない」のでもない。また,支配階級である武士身分の末端に位置するから「賤民」でないとしても,それは身分上の社会的立場であって,「賤民」とみなされていなかったという根拠にはならない。
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山水河原者善阿弥の孫である又四郎は,なぜ「某一心屠家に生まれしを悲しみとす」と相国寺和尚の周麟に語ったのであろうか。「渋染一揆」の嘆願書では,御触書の他の項目には触れておらず,「無紋藍染渋染」に対してのみ撤回の嘆願をしたのだろうか。それは,中世の京都にも,近世の岡山藩にも,その時代固有の価値観・社会観・人間観があるからだ。そして,差別観・賤視観もまた,その時代と社会を反映して,その時代の人々の意識や認識に影響をあたえているからだ。
 
あらためて「差別とは何か」を考える必要を感じている。「差別」の定義によって「歴史の客観的事実」に対する解釈も異なってくる。根拠も実態もちがってくる。まして時代によって異なる価値観・人間観は大きい。現代における「差別」と江戸時代あるいは明治時代における「差別」には相違と共通がある。

その時代における「差別」とはその時代の人々が認識していた「差別」であり,現代人が認識している「差別」ではない。各時代の社会制度や社会体制という社会構造に規定された社会意識(イデオロギー)としての「賤視観」「差別観」がその時代を生きる人々の個人意識に作用するのは必然であり,社会構造が変われば社会意識・個人意識も変わる。それゆえ,歴史を知識として学び解釈するのではなく「歴史から何を学ぶか」という視点が重要なのである。
 
「穢多非人史観」のまちがいは,現代の価値観で過去を捉えようとすることにある。またそれ以上に「暗く」「貧しい」と現代の価値観・社会観をもとに決めつけることが問題であり,「暗く」「貧しい」ことを「惨め」で「かわいそう」と見る我々現代人の認識と価値判断の基準が問題なのである。つまり,現代の価値観や人間観それ自体が問題なのである。

「穢多」「非人」が如何なる存在であったのか,どのような生活をしていたのか,他身分の人々との関係はどのようなものであったのかを「歴史の客観的事実」から考察していくべきであり,特定の歴史観から判断すべきではない。つまり「歴史観」が固定概念として先入観になってはいけない。極端な言い方になるが,差別(賤視)された「穢多」「非人」もいれば,差別(賤視)されなかった「穢多」「非人」もいるだろう。ただ「身分」としての社会的立場(位置)はどうであったのか。
 
しかし他方,「歴史の客観的事実」を現代の視点から考察・判断することも重要である。いかなる「歴史の客観的事実」であろうとも,江戸時代の「身分制度」を現代の人権尊重の立場から肯定することはできない。身分によって人間が分けられ固定化され,身分に応じた「役負担」を強要・強制される支配体制や身分制社会を容認することはできない。

武士階級が「支配する」社会,人々が「身分に分けられた」社会,それが支配・管理・治安維持のためであったとしても,そのような社会は「人権が尊重された社会」ではない。自由と平等を基調とする現代社会は「身分制社会」の否定によって構築されてきたのである。職業(役目)が「身分」固有の権利という側面があったとしても,職業の自由選択が「身分」によって制約・規定されていたことは「自由」「平等」ではなかった。また「基本的人権」が制限されていたのも事実である。現代の憲法や法律に比して江戸時代の「法」や「しきたり」が「人権を尊重」していたとは思えない。
 
部落史が見直され,「歴史の客観的事実」の分析と考察によって多様な部落史像が描かれることで,部落に対する認識は転換される。しかし,部落史観の転換によって部落差別が解消されることは少ないだろう。

「穢多・非人」身分が武士階級の末端に位置し,治安維持という社会的に重要な役目を担っていたとしても,人々から「賤視」されていなかった根拠とはならないからだ。身分制社会そのものが「身分」によって人間を「差別」する社会である以上,差別の対象とされた人々は存在していた。それゆえ,江戸時代の身分制社会そのものを人権の視点から否定することによって部落差別は解消されるのである。

部落差別の解消は「穢多は賤民ではなかった」と証明する程度で解決するような単純な問題ではない。穢多が武士身分という社会的立場の末端であったとしても,人々が彼らを「賤民」とみなしていたことは事実である。
「身分」という社会的立場(地位)がどうであるかで「差別」を考えるのではなく,人々が「身分」として「特定の役目を担っていた人々」に対してどのように見ていたか,自分たちとの関係性をどのようにとらえていたかが「身分差別」を考える視点であり,現在の部落差別を考えていく視点である。
賤視(差別)される人々がどうであるかではなく,賤視する人々の意識と彼らが生きていた社会そのものが問題なのである。

前近代の「賤民」身分などに血筋・先祖・家柄等々の血縁的系譜を繋げる偏見を口実にして合理化される種々の身分的差別が部落差別である。だとするならば,その解決は,血筋・先祖・家柄などの血縁的系譜観念(偏見)による人間認識を払拭することでなければならないはずである。…血縁的系譜観念は,まさに幻想であり,それがあたかも意味があるかのように認識すること自体が偏見・差別なのである。部落問題の解決は,この偏見を取り除くことにある。
(角岡伸彦『はじめての部落問題』)

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論理・論法の矛盾について書いておきたい。歴史観は重要な視点であるが,歴史観にこだわる人の中にdogmaに陥ってしまう危険性がある。特定の歴史観から史実を解釈し決めつけてしまうことは,史料の曲解や深読み(意訳)してしまうことにもつながる。だが,それ以上に危険なことは,歴史観でその人間自身も固定化して見てしまうことである。
 
たとえば,Aという現代に生きる人間,Bという江戸時代の人間,Cという江戸時代の被差別身分の人間,Dという現代の被差別部落(出身者)を想定した場合,Aは,BがCを「賤民と見なしていた。同じ人間と見ていなかった」「差別していた」etc.と考えるとしたとき,A自身もBと同じ考え=差別観・賤視観をもっていることになるだろうか。
あるいは,AはBがCに対してもっている差別観・賤視観と同じものをDに対してもっていることになるだろうか。
もしそうであれば,人間の思考の多様性を否定することになる。人間はそれほど単純ではない。机上でしか考えていない人間の画一的な人間観である。頭の中だけでなく現実において多くの人間と付き合えば,人間は実に多様な考えや解釈をすることなど自明のことと了解できるはずである。その人間=Aが,Bと同じように考えているか=差別観をもってCやDを見ているかどうかなどわかるはずだ。一方的な論理をすべてに適用させて決めつける独断専行の解釈で人間を見ること自体が偏見である。
 
生徒に授業で説明しても,その理解や解釈は決して一様ではない。まして保護者や講演の聴衆に到っては千差万別である。確かに上記のように短絡的に理解する人もいる。
「近世政治起源説」が主流であった時代,教科書にも記述されていた時代においては,穢多・非人の「貧困・差別・悲惨」の画一的・短絡的な認識により現代の部落(出身者)に対する露骨な差別発言が起こっていた。事実,今も同様のことは起こっている場合もある。
だからこそ,歴史像の多様性や価値観の多義性,人権が拡大してきている歴史の発展などを説明しなければいけないのは当然である。AがBと同じようにDを見なさないように,またBの差別観・賤視観が時代の限界もあったにせよまちがっていることを,差別・偏見の払拭のために人権尊重の立場から価値観・人間観を啓発していくことが差別解消の方向である。
 
また逆に,BはCを賤民と見なしておらず賤視もしていなかったと,あるいはBはCを尊敬していたと力説しても,Aがそのように理解・認識してDに対する差別観・賤視観を改めるかどうかは別である。
また,Aがそのように理解・認識しなかったからAは差別観をもつ人間でありDに対して差別しているとはいえない。単にAの歴史観・歴史認識のちがいでしかない。

歴史観や歴史認識のまちがいを修正することは大切であるが,それだけで人間の認識は変わるとは思えない。歴史観と同時に人間観を変えることが重要である。そして,自分自身の他の人間に対する現実においての認識と言動を振り返り,変革していくことが現実社会から差別を解消し,人権尊重の社会を構築していく唯一の道と考える。いくら高尚な学説を唱えようとも,きれいごとを述べようとも,他者の人権を無視した不快感を与える言動を繰り返すことは本末転倒である。

2 <ホントはすごいんだ物語>で部落差別を解消することはできない。

以前に語られていた画一的な「貧困・悲惨・差別」の部落史像はまちがいであり,歴史の客観的事実から多様な部落史像が明らかにされている。多種多様な雑業に従事した豊かな経済力,人々の生活に不可欠な品々の生産,民衆の社会生活を維持するに不可欠な役目,法政上において必要な捕亡警吏・行刑などの役目,祭礼や年中行事に欠かせない重要な役割など,これら客観的な歴史事実が明らかにした部落史像は,百姓や町人と同じくその時代を生きる民衆の姿である。
しかし,その姿は,近世までの社会は身分制社会である以上,身分制度に制約・規定された「身分としての穢多・非人」の実相である。人間が「身分」に分けられ規定されている身分制社会において,個としての人間ではなく「身分としての人間」(身分集団の一員)として規定され,身分固有の役目を果たす人間として他身分(集団)の人間から見られるのは必定である。
 
歴史において被差別民の果たしてきた社会的に必要不可欠な「役割」や日本文化に影響をあたえた「芸能・文化」の功績をプラスイメージとして強調することでマイナスイメージを払拭させようとすることには無理がある。
部落差別そのものを問う視点が曖昧であったために「社会に役立つ仕事をしているのに,なぜ差別されたのか」という混乱をあたえてしまっている。

社会に役立つ仕事を担うこと,社会に不可欠な重要な職務(役目・役割)を担っていることで人々から尊敬と賞賛を受けることと,差別されることは別なのである。

「穢多」「非人」身分が治安維持を目的とした捕亡・行刑・番人を「役目」として担っていたことを根拠に武士身分と同じく民衆を支配・監督する側であったから「賤民」ではなかったという論理は成立しない。なぜなら,身分制社会における身分に付随する「役」だからである。「賤視される身分(の人々)」が「担っている職務(役目・役割)」と考えるべきである。

つまり,どれだけ社会に役立ち,社会に必要不可欠の職務であっても,それが<ホントはすごいんだ>としても,それを担う身分が「賤視」「差別」の対象であったのも事実である。周囲の人々から「賤民」と見なされ認識され,そのように(差別=排除)扱われていたから「賤民」なのである。役目・役割の重要性や貢献度で個の人間を評価するのは近代社会であって,江戸時代にはない。個々の人間の職務(働き)に対する個人評価はあったかもしれないが,基本的には「身分」に対する評価・価値観・貴賤観である。
 
「渋染一揆」の原典史料である『禁服訟歎難訴記』に「元来身分賤者之義故(元々身分の賤しい者であるから)」(「嘆願書」の一節)と自らを言い表しているように,「穢多」という「身分」が「賤しい」のであって,自分たち個々の人間を「賤しい」とは述べていない。
しかし,自分たちの身分(穢多)を「賤しい」と見なしている(規定している)他身分の人々がおり,身分制社会の体制・構造があり,中世以来の習俗的差別観・制度的差別観があることは認めている。周囲(人間・社会集団)が彼らを「賤しい(穢多)身分の人々」と見ていることは否応なく承知しているのである。つまり,身分制社会においては「身分」に規定・束縛される(分相応に生活する)ことは当然のことだと了解しているのである。
 
繰り返すが,<ホントはすごいんだ>という確証を歴史的事実から列挙しても,それによって部落史像の認識・部落史観が変わるとしても,彼らが賤民・被差別民(身分)であったこと,賤視・差別の対象であったことは変わらない。
まして,社会的に必要不可欠な存在であり,社会に貢献する重要な役目(職務)を担っていた(<ホントはすごいんだ>)から,賤視も差別もされていなかったなど歴史事実を無視したnonsenseな暴論である。それがたとえ歴史事実であったとして,それを正しい歴史と認識して旧来の考えを改め,現在の部落差別を解消しようとする人間がどれほどいるだろうか。

人間はそれほど単純ではない。正しい歴史認識に立てば部落差別は解消できるなど世の中との交流範囲の狭い机上の空論でしかない。どんなに由緒正しい家柄であると自分で思おうとも,祖先が社会に役立つ重要な役割を果たしていたとしても,貧困や差別が明治以降であったとしても,周囲はそんなことに無頓着に「部落だろう」ということで差別する。「被差別部落」「賤民」というラベリングがまちがいであるとして歴史観を修正(正す)したとしても,それによって人々の差別観・賤視観が解消するとは思えない。過去ではなく現実におけるこの不合理で理不尽な関係性が部落問題に通底しているかぎり,差別の解消はない。

3 差別の根拠・理由を証明しても,部落差別を解消することはできない。

人権問題,特に部落問題を考えるとき,歴史観による偏見や先入観を改めることと価値観や人間観・世界観を改めることは同義ではない。まして過去の歴史認識や歴史観の誤謬を改めることで部落問題が解決するとは思えない。

まちがった歴史観によって「部落問題」がつくられたとしても,その歴史観を改めることで差別意識や社会意識が簡単に変容するとも思えない。人間の生き方・あり方と深く関わる人権問題という視点で考えるべきだと思う。たとえば,一方で部落差別解消を提言しながら,他方で他者の人権や人格を無視して見下したり蔑む言動を行ったりする人間がいる以上,歴史観が改変されることで部落に対する歴史認識は変わっても,人権問題としての部落問題は解消されることはない。

部落問題や部落差別は,現実社会を生きる人々の意識・認識の問題であると同時に,人間としての生き方・あり方の問題であって,決して机上の本の中にある知識の問題ではない。現実の社会関係・人間関係の問題である。知識を得ることや認識を改めることだけでは解決しない。人としての生き方やあり方,他者との関係性の問題であり,自らの問題として受けとめ,自らの意識と生き方を改革する以外に解消はあり得ない。
 
かつて<人の嫌がる仕事論>が展開された。死んだ牛や馬を片付けるということは人の嫌がる仕事であり,それを押しつけられたことによって部落差別が助長されたという説だが,これも一面的な理解でしかない。草場の権利,牛馬の無償取得の権利などの歴史的経緯を考えれば,被差別民の固有の権利であることがわかる。それらの仕事や役目を<人の嫌がる>と解釈したのは現代の価値観であり,周囲の視線である。
 
明治の初めに戸籍制度ができたことによって,日本人の名字は完全に固定化されたが,この時に大多数の人が適当に名字を付けたと思っている。だが,これは大きな誤解である。こうした誤解が生まれた最大の理由は,教科書に「民衆を支配する身分として,名字(姓)を名のることや,刀を差すこと(帯刀)などの特権が認められた」(大阪書籍)と記述されているからである。これは事実ではあるが,重要なことは「許された」という点である。武士のみが名字を名乗ることを許され,公式の場所や公文書上で名乗ることができたのであって,それ以外の人たちは許されていないため,公式の場所では名乗れないし,公文書にも掲載されることはない。つまり,現在の日本人の名字の大多数は江戸時代以前(平安時代後期から戦国時代)から存在していたのであり,その多くは各地の地名(戦国時代以前の地名)にルーツがある。

「名字帯刀の特権」から生まれた誤解は,武士身分の優位性よりも他身分への差別性の証左として理解されてきた。刀や鉄砲の所持も同じである。些細な誤解がまちがった歴史認識や歴史像を生み,その延長上に被差別身分に対する偏見や先入観が助長されていったである。

貴賤観と同じく,武士身分の身分的特権を強調することは,特権を持たぬ身分に対する低位と差別のイメージが強調されることになる。現代の歴史観・価値観で過去の時代を解釈してはいけないと提言してきたが,一部の歴史史料に描かれた史実をもとに,その時代全体・全国へと拡大解釈してはいけない。江戸時代は幕藩体制であり,幕府領と各藩領では支配のしくみも実態も同じではないからだ。このように既存の歴史観・歴史認識が必ずしも客観的事実としての歴史像を反映しているとは限らない。部落史像においても同じである。
 
「穢多非人史観」などのまちがった歴史観や歴史認識に立っていても,現実社会において部落民であろうがなかろうが差別など関係ない付き合いや生き方をしている人間は多くいる。見下すことも卑しむこともなく平等・対等な人間として,誰に対しても接する人間も多くいる。

逆に,部落史・部落問題に造詣が深くても,人間としての生き方やあり方,言動において人権を尊重した他者との関わりができていない人間もいる。部落史研究を部落差別解消のためと標榜しながら,自他を差別者と安易に決めつけたり,他者の人格を否定する誹謗中傷を平気で行ったりする人間もいる。部落差別は「部落」に対する歴史認識の誤謬ではない。

また「部落差別」を単体で解決できる問題と単純化してはいけない。「差別」は現実社会を生きる人間の日常生活の中にあり,他者との関わりにおいて現出するものである以上,他者との関係性や自らの生き方・あり方を問い直す自己変革の実践を伴わない同和教育や部落史・部落問題研究など机上の空論に過ぎない。
 
部落の多様な歴史像を多面的・多角的に考察するとともに,部落差別とは何かをあらためて問い直すことが必要である。各時代によって価値観も人間観も異なる。各時代の社会構造による制約と影響下にある社会意識も異なる。しかし,いつの時代においても「差別」は対人関係の場に表れる。差別する側と差別される側の関係性,賤視の関係は本質的には変わらない。
それゆえ,現実社会にある部落差別を解消するには,対人関係を再構築する必要がある。そのためには,あらゆる人間関係・社会関係の場において<人権尊重の理念>を具現化していくことが重要である。具体的には,「差別」の根拠となりうる偏見や先入観を自らの認識・考え方・他者へのまなざしから消去することである。

自らの祖先につなげて江戸時代の身分にこだわる愚かさに気づき,人間が人間を賤視・差別することの不合理さや理不尽さに気づくべきである。現実の部落問題を自らと関係ある問題として捉え,自らの人権意識を日常生活において振り返ることが重要である。この意味においても,部落問題を人権問題として捉えることは重要であり,今後の方向性として正しいと考えている。

4 経済的格差を是正しても,部落差別を解消することはできない。

同和対策事業以前の被差別部落と一般地域との経済的・生活環境的格差は大きかった。就労状況・進学状況の格差も大きかった。部落は貧困・低位・劣悪な生活環境の中で,周囲から「差別」を受けていた。その原因が部落に対する差別であったことは確かである。しかし,部落だけが貧困・低位・劣悪な生活環境であったわけではない。部落の人々だけが不就労の状況にあり,部落の子どもだけが貧困のため学校に行けなかったわけではない。貧困・低位・劣悪な環境は部落だけに限定された問題ではなかったのである。このことを忘れて,部落問題を経済格差の是正や生活環境の改善,進学率の向上という目に見える対策に偏りすぎてきたように感じる。

33年間の特別法による同和対策事業・同和教育の成果として,生活環境や就労・進学の状況は大きく改善され,部落内外の格差はほぼ是正されたと見ていいだろう。しかし,これらの課題の解決は,果たして部落問題への対策として捉えていいのだろうか。
部落であろうがなかろうが,教科書の無償化,道路や上下水道など社会資本の充実,奨学金制度,失業対策などは国や地方自治体が取り組むべき当然の課題であった,それを部落解放運動などが国や地方自治体に働きかけて国策として実現した,と考えるべきではないか。
つまり,貧困や生活環境の問題は,憲法が保障すべき権利であって,部落だけに適用されるものではない。また,低学力や進路保障の問題も部落の子どもに限定された取組ではなく,経済的・社会的な課題をもったすべての子どもに対する取組でなければならない。

だが,33年間の同和対策事業は部落を特別扱いしてきたため「同和利権」などの弊害を生み,格差の是正を「特別扱いの成果」と捉える見方が新たな部落問題を生み出している。部落解放運動を「もの(金)取り運動」と非難する声に対して「ねたみ差別」と糾弾してきたが,歴史的経緯や背景からは正論であっても,この論理では人々の理解を得ることは難しいと考える。
 
全国にある隣保館・教養館・人権センターなど同和地区に建てられた施設のなかに,あまりの立派さに言葉を失う建物もある。最新のパソコンが何十台と設置されていたり,ピアノの個人レッスン室が数部屋あったり,図書館のような蔵書があったり,エアコンなどの空調設備が全室に完備されていたり…外観にしても企業のビルに匹敵する。

ここまでの施設や設備が部落解放や同和教育に必要なのだろうか。専属職員の人件費や運営費などの予算確保を考えるとき,税金投入の必要性に疑問を感じる。その一方で,古びた民家のような隣保館もたくさんある。修理や修繕の予算さえほとんどなく,傾きかけた部屋で集会や学習会をおこなっている。解放運動に熱心であるかどうか,行政に対して強く要求しているかどうか,行政の理解があるかどうか…というような違いでこうした現状を片付けていいとは思えない。また,未だ旧態依然の同和教育や解放教育に固執し,部落差別の克服を格差の是正と捉えている教育者や活動家も少なくない。
 
部落問題を部落と部落外の「比較論・格差論」で捉える時期は過ぎたと考えている。経済的な困窮によって生活環境が低位であったり,子どもが低学力であったりする状況は決して部落だけではない。経済的格差による大学進学率を部落差別に結びつけて「教育不平等」と論じたり,親の責任放棄によって引き起こされる家庭崩壊や本人の意志に左右される非行問題までも部落差別に結びつけて論じる古典的な同和教育から脱却する時期にきていると思う。

勉強できる家庭環境でないことは,はたして部落差別に要因があると言えるだろうか。昭和50年代以前は,家庭の経済的状況による部落の児童生徒の長欠・不就学はあったし,進学率の格差もあった。しかし,現在においてはそれはあり得ない。むしろ,本人の努力や周囲の意識の問題が大きいと考える。勉強できる状況,進学できる制度があるにもかかわらず,本人がしないだけだと思う。

親や周辺地域の教育力,本人の努力の問題を,たとえ間接的には要因であったとしても部落問題と結びつけて未だに「特別扱い」の優遇措置を求めるのはおかしい。部落問題が部落と部落外の「偏見や先入観による垣根」であり「排除の関係」である以上,このような優遇措置を部落解放運動が求め続ければ,ますます部落は「特別視」されるだろう。
部落問題の本質である「排除・忌避・賤視」を解決するためには,これ以上部落だけの優遇措置は逆効果にしかならない。格差是正を要求するならば,部落に対する優遇措置を求めるのではなく,国民・住民すべてに対する改善措置と優遇対策を求めていくべきである。

5 部落差別の解消は「人間(として)の戦い」である。

高橋和巳『わが解体』の冒頭に,京都大学の教授選考に関係した部落差別問題の一文が引用されている。引用は桑原武夫がこの当時に文学部教授であった父親からの聞き書きとして「人間の戦い」と題する小論に書きとめたものからである。次に原文から引用箇所を書き出してみる。

かつて京都大学に米田庄太郎博士という社会学者があった。この人は長らく不遇だったが,さいごに教授になられるとき,問題が起こった。教授会で反対が多かったのである。私は学問の名によって率直にいうが,同博士の学問は必ずしも一流ではなかった。粗末なところもあった。そういう方面からの反対ならば,やむを得なかったともいえるが,反対論の有力なものは学問的なものではなかった。博士が部落出身だということが,反対の理由なのであった。(中略)H教授のごときは「米田を教授にするというが,自分は教授会で××などと席をならべることは真平ごめんだ」といった。そして結局,米田氏は一おう教授にするが,発令と同時に辞表を出してもらい,一年後には必ずやめさせるということになった。
(桑原武夫『桑原武夫全集5時のながれ』所収「人間の戦い」)

この一文に続き,桑原氏は当時の教授会の学問レベル(「当時の日本をリードしていた」)やH教授の学問的業績(「明治以後日本の生んだ十人の偉大な歴史家」)などを紹介しながら,学問の専門性と人間としての良識・生き方,あるいは時代や社会の制約について述べている。
この一文が書かれたのが1950年であることから,部落史・部落問題に関する研究も不十分であり,要因を封建遺制に求めているのも仕方のないことかもしれない。しかし,それでも桑原氏の最後の一文は核心をついた一言と思う。

…みずからの封建制をすてる努力をともなわずして,他人の封建制のみをなくすることはできない

この京都大学教授会における部落差別問題をあらためて考えてみたい。
高橋和巳の考証によれば,米田氏の教授昇進は大正9年(1920)であるから,教授会はその前年(大正8年)に開かれたと考えられる。米田氏が講師として社会学の講座を開講したのが明治40年(1907)である。当時の教授の年齢層を考えるならば,明治10~20年代にかけて部落との出会い(風聞も含めて)があったと思われる。また,彼らに賤視観の影響をあたえたであろう方々は江戸時代後期から明治までを生きた人々である。

H教授の発言にある「××」という伏字は「穢多」であると想像できるが,当時の部落に対する社会意識は『破壊』や『橋のない川』に描かれた世界そのままであったことがわかる。これらのことからも,明治初期の国家的政策によって被差別部落がつくられたなどあり得ない。わずか数年で人々の意識が変わるはずもなく,まして教化などできるはずもない。江戸時代の穢多・非人に対する差別観・賤視観が深化・拡大化されたと考えるべきである。
また,桑原氏がH教授について「ただ先生は,ある藩の家老の家の出であって,それを誇りにするような古いところが,その学問の立派さにもかかわらず,つよく残っていたのである」と発言の背景を分析しているが,H教授だけでなく封建的な身分意識が人々の中になおも強く影響していたことがわかる。
 
桑原氏の「人間の戦い」が掲載された雑誌『部落』(部落問題研究所)の第43号に,木村京太郎氏の米田庄太郎氏に関する一文がある。補足として少し引用しておく。

この米田博士にして,部落出身者として悩みは深かった。明治19年4月県立郡山中学校に入学した米田少年が,何故翌年私立英話学校に転校せねばならなかったのであろうか。…28年9月から34年12月まで満6ヶ年余の海外遊学中の彼を鞭打ったものは,部落出身者でも尚学者たりうるとの高い理想と誇りであって,その為のひたむきな努力がつづけられたのである。

同志社に招かれ,更に京都帝国大学の講壇に立った米田先生の得意は察するに余りあるものがあったであろう。しかしながら,明治40年より大正9年まで満13ヵ年間,社会学の講義が続けられ,その教え子たちは博士となり教授となっても,米田氏は尚単なる嘱託講師としての地位には変わりはなかった。学徒の中から「米田先生に何故学位を与えないのか,教授に任命しないのか」との声が起こり,弟子の中から「米田先生を凌いで学位も教授も受けるに忍びない」の声があったとかで,最後に教授となられたのであるが,…。
それがためか,在任5年にして,大正14年3月52歳で依願退職の辞令をうけ,その後も昭和17年3月職を解かれるまで,尚経済学部,法学部及び農学部の嘱託講師として,18年間不遇の地位に甘んじつつ講義を続けられたのであった。

晩年,私の友人N君が博士を訪れ水平運動について所感を伺ったとき,「私も今少し若ければ」との斗志をほのめかされたとのことであったが,…
(木村京太郎「米田庄太郎博士を偲ぶ」)

桑原氏が父親から聞いたというH教授の「自分は教授会で××などと席をならべることは真平ごめんだ」という発言,また米田氏に対する冷遇は,差別の本質とは何かを明らかにしている。
 
「差別」を様式から考えるならば「見下す(蔑む)」「人間外(社会外)」「低身分」「七分の一の命」「ケガレ」となり,様態からは「囲い込み(隔離)」「忌避(排除・排斥)」「視線(蔑視・賤視)」となる。これらの根源にある意識は「自分と同じではない(ちがい)」であり,「同じとみなされたくない」である。すなわち,「差別」とは「心的現象の問題」と考えることができる。

貧困という経済力や学歴・学力,社会的地位の問題でないことは,米田庄太郎氏や野中広務氏に対する差別問題(麻生太郎氏が「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」という旨の差別的発言をしていた。魚住昭『野中広務 差別と権力』)を取り上げるまでもない。

6 関係性から「部落差別」を考える。

次の史料は,奈良県立同和問題関係史料センターの吉田栄治郎さんが講演のレジュメで紹介されたものであるが,米田氏が生きた大正期の部落民に対する一般民衆の賤視観・差別意識をよく表している。

○『部落実態調査』(大正2年)「部落ニ対スル自他ノ感想」
生駒郡-別ニ変ワリタルコトナシ,只嘉永・弘化年生ノ老人ニ於テ穢多ト観念アルモ,当時ノ青年ニ至リテハ部落・普通民別殆トナシ,普通ノ如ク交際シ居リ,然レ共縁組等ニ至リテハ近隣近在ヨリスルモノ一人モナシ

○『風俗調査』(大正4年)「一般人ノ部落ニ対スル感情并部落民ノ一般人ニ対スル感情及向上ノ精神状況」
生駒郡-該部落民ハ身ハ穢レ居ラザルモ火ノミ穢レ居レリトテ,部落内ニ於テ食事ヲナスヲ何人ト雖モ之レヲ嫌フ,出稼ギスル職人ト雖モ多クハ弁当ヲ持参スルヲ常トス

「嘉永」は1848~53年,「弘化」は1844~47年である。大正2年は1913年だから,「嘉永・弘化」生まれの老人は,この当時60歳~70歳という年代だが,彼らには「穢多ト観念」があるという。江戸時代の「穢多」に対する「観念」が未だに強く残っているということだろう。「当時の青年」には「部落・普通民」の別はなく,普通に「交際」しているという。しかし「縁組」(結婚)には至っていない。
また,何人も部落民と食事を共にしない。その理由は火を通して(媒介にして)「ケガレ」が移るからであるという。このことは,部落差別の本質が「排除」であり,その根拠が「ケガレ意識」であることの証左である。つまり,江戸時代に比べて日常生活での交流・交際は拡がっているが,ケガレに関わる食事や結婚における「排除・排斥」の差別観念はそのままであった。
 
この史料と同時期を舞台にした『橋のない川』にも,食事や湯飲み,学校,公衆浴場など日常生活の場で部落の人々が「排除・排斥」される賤視と差別の様相と,その根拠として「穢多は夜になると蛇のように手足が冷たくなる」など部落に対する偏見や先入観,誤謬が描かれている。『橋のない川』に描かれている賤視・差別の実態が明らかにしているのは,部落と部落外の人々との関係性である。貧困・低位な生活実態は差別の結果であって根拠や理由ではないにもかかわらず,差別の根拠や理由であるかのように揶揄の表現として利用された。誰もが部落が貧しく低位な生活をしているから差別しているとは思っていない。「小森のさつまいも」「小森の火事はよう燃える」「小森みたいなもんは」「エッタの中学生」…等々の揶揄の言葉が何を意味しているか。それは<ちがい>である。<同じではない>という「排除・排斥」の意識である。<ちがう>から貧しいのであり,豊かであっても<ちがう>から差別するのである。「穢多」身分が治安維持に重要な役割を果たしていても,自分たちとは<ちがう>存在なのである。
 
次の史料は,明治14年に福岡県・大分県・熊本県の部落の人々が県境を越えて集まって結成した組織である「復権同盟」に関するものである。復権同盟は近代の部落解放の歴史の中で,部落問題の解決を課題として部落民自らが団結を図って結成された先駆的な組織である。

「御届」
新平民ナル私共儀,往古ヨリ世ニ穢多ト称セラレ,人界外ニ擯斥セラレ,四民ト雑居スル能ハス,同等ノ交際ヲ為ス能ハス,事ヲ共ニスル能ハス,四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エサル所ノ事ヲノミ為スヲ以テ恒職トシ,人畜ノ間ニ占居罷在候イシカ,辱クモ王政復古・開明進歩ノ秋ニ遭遇シ,初テ四民同等ノ権利ヲ復スルノ自由ヲ与エラレタリト雖モ,如何セン,旧染卑屈ノ陋習,俄ニ脱去スル能ハス,依然トシテ禽位獣等ニ安居罷在候ハ,実ニ慚愧憾慨ノ至リニ奉存候。因テ今般別紙復権同盟結合規則ニ依リ,広ク同志ヲ募リ,以テ一大事業ヲ創立シ,上ハ以テ国益万分ノ一ヲ補イ,下ハ以テ国民ノ国民タル所ノ実権ヲ伸ハシ,遂ニ我国内ニ於テ,穢多ノ蹤跡絶テ無之ニ至ラシメント奉存候ニ付,別紙相添,此段御届奉申上候也。
 明治十四年十一月廿八日
(発起人は略)

「緒言」
旧穢多ナル我曹モ,亦我皇国ノ人民也。焉ソ他ノ四民ト,其ノ等位ヲ異ニスルノ理アランヤ。然ルヲ,如何ナル故ニヤ,未タ其濫觴ヲ審ニセスト雖モ,世ニ人外視セラレテ,而テ別ニ異界ヲナシ,世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業ニノミ従事スルヲ以テ,我曹ノ当務トセシ事,年已ニ久矣。明治皇恩隆渥ノ余,遂ニ我曹ヲシテ国民平等ノ籍ニ編入シ,国民当然ノ権利ヲ得ルノ自由ヲ与エラレタリ。我曹ノ幸徳,何ヲ以テカ之ニ加ンヤ。夫世ニ実有テ而テ名無キモノ無シト雖モ,名有テ而テ実無キモノ有リ。我曹既ニ穢多ノ醜称ヲ脱シ得タリト雖トモ,之ニ代ルニ新民ノ名称ヲ以テシテ,而テ他ノ人民ト区別セラレ,他ノ人民ノ我曹ヲ蔑視凌辱スル事,昔時ニ異ルナキハ,夫レ何ニ由リテ然ルカ。是他ナシ。名ハ既ニ穢多ノ汚界ヲ脱シタリト雖モ,其実未タ之ヲ去ル事能ハス,依然トシテ汚穢ノ業ニ而已従事シ,自ラ卑屈ニ安ンスレハナリ。嗚呼我曹此ノ如ク既ニ復権ノ自由ヲ得テ,而テ之ヲ復スル能ハス,自ラ人外ノ異界ニ屈居スルハ,豈慷慨悲歎ノ至リニアラスヤ。然リト雖モ,世ニ久シク人外視セラレタル我曹人民ヲ以テ,俄ニ国民当然ノ実権ヲ復有セント欲スル,固ヨリ容易ノ事ニアラス。非常ノ奮激以テ旧来ノ汚業ヲ抛チ,更ニ一大美事ヲ創立シテ,国民ノ国民タル所ノ実効ヲ奏スルニアラサレバ能ハサル也。夫塵モ積レハ大山ト為リ,針モ合スレハ巨棒ト為ル。我曹ノ人民,素ヨリ至貧至弱ナリト雖モ,衆力ヲ合テ一団タラシムルニ至テハ,富商豪農モ亦何ソ恐ルヽニ足ンヤ。是レ我曹ノ復権会社ヲ創設セント欲シテ,而テ先ツ復権同盟結合規則ヲ制定シ,以テ同志ヲ募ラント欲スル由縁也。庶幾ハ我曹同等ノ諸君,速ニ同盟シテ,以テ共ニ復権ノ実効ヲ奏セン事ヲ。
(発起人・規則本文は略)

「復権同盟」関係史料
■自由新聞 明治十五年十月十日(『部落解放教育資料集成』第一巻より)
○旧幕時代の制度にて別に天賦の差別なきも穢多の称呼を受けてより年来人間社会の度外に置かれ其慣習のしからしむるや左のみ不自由を訴ざりしが幸ひに維新明治の今日に遭遇して其名称を廃せられ始めて平民籍に編入し社会の同権利を得たるものゝ未だに世人の旧慣を脱せずて唯ゝ何んとなく之れと縁組を成ざるのみか其交際をも快よしと思ハざるを痛嘆して今度九州一般の新平民が集合なし何か世の利益を図らんと金二十八万円を募りて備へ置き之を農商の難渋人へ貸与へんと既に其事の整ひしかバ過日其中の二三名が大坂府下なる渡辺村へ来談せしに同村も異議に及バず別に二万円の補助金を差出すことに成りしと今日にして此挙ある実に称すべきなり

この史料の重要性は,部落民が部落外の人々(一般民衆)からどのような扱い(差別)を受けているか,自分たちの社会的立場がどのようなものであるかを部落民自らが明らかにしていることである。江戸時代の多くの史料は,幕府や藩が出した被差別民への差別的な法令,庄屋・名主の書き記した公文書や日記などであり,被差別民自らの手によって書き残されたものは少なく,被差別民の声を知る手がかりは,裁判記録や御用記録,報告書の類にわずかに残る程度である。この意味で,明治14年という自由民権運動の世情を背景に,部落問題の解決を願って自らの思いを語った「復権同盟」は貴重な史料である。

史料を読み解く際に重要なことは,時代背景と内容の解釈である。現代の価値観や認識基準で判断すべきではない。「復権同盟」を書いたのは明治14年の部落民であり,当時の一般民衆の意識に対しての思いを述べたものであって,現代人が部落民に対してそのように思っているわけではない。
過去の差別的な表現や内容を考察・分析のために史料から引用したことをもって現代人や引用者が差別的な認識(差別的部落観)をもっているかのように曲解するのは論理のすり替えである。
 
特定の個人自身あるいは個人の考察について書く場合,真意・事実を確かめることもせず,「~ではないかと」「~と思われます」「~かもしれません」「~ではないでしょうか」というように不確定な推量表現で主観的な憶測を正当化するのは論理の飛躍でしかない。

特定の個人の価値観や認識に言及する場合にはその根拠としての事実確認と責任が伴うのは当然である。さらに,たとえば「A」という事象について「~と思われる」と推量・憶測で述べたことが,次に「B」について述べる場合には「A]は確証・事実となり,「B]を論証するための判断基準へとすり替えられている。そして,「C]を論じるときには「A」も「B」も事実と化している。つまり,「作業仮説」を次の結論を見いだすための「事実」にすり替えてしまっているのである。このような独断・独善の論法によって,「作業仮説」を「事実」と決めつけ,自分の考えを正当化する論法は誤謬の再生産を生むだけである。
 
石瀧豊美氏の「復権同盟」関する考察(『解死人の風景』等)をもとにして,部落と部落外の人々の関係性を明らかにしてみたい。
 
「御届」とは設置届であり,明治14年11月28日に福岡県令渡辺国武宛に提出されたものであり,「緒言」には結社の目的が述べられている。この両方の冒頭に書かれているのは,自分たちがおかれてきた社会的立場である。

「人界外ニ擯斥セラレ,四民ト雑居スル能ハス,同等ノ交際ヲ為ス能ハス,事ヲ共ニスル能ハス」「人畜ノ間ニ占居罷在候」(御届)
「世ニ人外視セラレテ,而テ別ニ異界ヲナシ」(緒言)
「我曹既ニ穢多ノ醜称ヲ脱シ得タリト雖トモ,之ニ代ルニ新民ノ名称ヲ以テシテ,而テ他ノ人民ト区別セラレ,他ノ人民ノ我曹ヲ蔑視凌辱スル事,昔時ニ異ルナキハ,夫レ何ニ由リテ然ルカ」(緒言)

これらが意味するものは,一般民衆からの「排除・排斥」である。
自分たちが「人界外」「人外視」「異界」に置かれ,「雑居」や「交際」を許されなかったとは,部落民自らが望んだものではなく,幕府や藩から命じられ,一般民衆から為された「不当なる扱い」によるものであり,自分たちはこのような「不当な扱い」を受けてきたとの言明である。これらが江戸時代の「役目」に関係しての処置であったとしても,決してそれを望んでも好んでもいないことや,「解放令」によって「平民」と同等となって以後も旧態依然の扱い(区別・蔑視凌辱)と苦痛を受けていることを述べている。
 
同時期の愛媛県松山の学区取締役であった内藤鳴雪氏の自叙伝に,

「久しき間の習慣は彼等を全く人間以下の畜生同様と見て居た」
「児童を学校へ出す事を厭がる父母は,穢多と一緒に習わせるは御免蒙るといって,いよいよ命には従はぬ」
「役人でさへ,旧穢多の茶が飲めぬのだから,一般の人民が嫌ふのに不思議はない」

などと当時の露骨な差別意識の実態が書きとめられている。また。明治16年(1883年)に,先の復権同盟と同様の「夜学会」が高知県で結成されている。その会則の前文を史料として載せておく。

…然し我等に於いては幕府専制の時に当てや穢多と称せされ大に圧制を受け其れが為充分なる学問も致さず,只草履を作る事や或は牛馬の皮を剥ぐ事而巳,然に嚮に幕府倒れ明治政府となる稍通常人間の交際を為し少しく学事に勉強いたし候処此度未だ完全なる社会ならざるを感じ従来新平民と称せられて通常人民に圧制受け為に大に智識を開発するの妨害となり且つは交際狭く其れが為めに近村旦那様に御依頼申し則此平等会を設くる所以なり,…
(四国部落史研究協議会『しこく部落史』第9号)

解放令以後,たかが10年で民衆の意識や認識が変わるはずもない。たとえ明治政府が近代国家建設のために自らの正当性を主張する必要から江戸時代の歴史を改竄したとしても民衆の意識や認識までも変えることは不可能である。江戸時代の「身分観念」と「差別(賤視)の関係性」はそのまま一般民衆の中に残っていたのである。このことは,部落民の中にも残っていた。差別の原因・要因は自分たちにあるという認識である。

「復権同盟」は,差別される要因を自らが為してきた「汚穢ノ業」に求めた。このことは全国各地で「賤業拒否」の申し合わせがなされたことと関係が深い。すなわち,部落民として差別されるのは江戸時代におこなっていた「賤業」が原因であり,解放令によって「平民」と同様になったのだから,「平民」のしない「賤業」をしなければ,自分たちは差別されなくなる,と考えたのである。
この点について,石瀧氏は,一般民衆だけでなく,部落民も江戸時代の常識的な身分観念にもとづいて「解放令」を解釈した結果であり,「職業の自由」という観念はまだなかったと考察している。この時期の民衆は江戸時代の「身分観念」にとらわれており,差別する側である一般民衆の差別観・賤視観を問題とするまでに到っていない。

7 差別・賤視の関係性を克服するためには

次の史料は,前出の史料と同じく奈良県立同和問題関係史料センターの吉田栄治郎さんが講演のレジュメで紹介されたものである。

○奈良県水平社第1回委員会決議の理由(大正11年9月11日)
現代社会が保有する諸種の封建時代的要素のうちで幾多の最も悲惨なる生活事案を現出するものは実に吾等三百万人に対する賤視観念である。…吾等の生活改善と云ひ風俗矯正と云ひ皆な枝葉の問題であり,余件的手段であるに過ぎぬ,そして根本問題は賤視と卑下の感情の矯正を必須の条件とする事に依ってのみ解決されるものである。…今や自覚せんとしつつある吾等に比して世人が余りに頑迷だからだからである。かくの如く彼等が今尚ほ不合理なる因襲に囚はれて賤視観念を抱懐するものとすれば,より解放されるべきは寧ろ自覚せざる彼等ではあるまいか

水平社の意義は,部落差別の要因を部落外の人々の部落民に対する「不合理なる因襲に囚はれ」た「賤視観念」であり,部落解放とは部落民が差別から解放されることではなく部落外の人々がもっている差別意識から解放されることだと言い切っていることにある。

水平社が差別観の大転回を果たすまでは,先の史料でみたように,差別される側に原因や要因があると考えられてきた。水平社以後,糾弾闘争を通して,部落に対するあからさまな差別は減少していくとともに,部落民の社会的自覚と社会進出は高まっていった。「部落民に差別される謂われはない」という論理に基づいて部落外に意識変革を求める部落解放運動は,水平社から戦後の部落解放同盟を中心とする運動団体に引き継がれ,国策樹立を目指した政治闘争によって法的措置を勝ち取り,33年間の同和対策事業が行われてきた。その間に,部落史・部落問題学習が同和教育として学校現場や社会啓発として行われてきた。その結果,部落問題の実態的格差はほぼ解消され,ほとんどの人々は部落差別の不当性を認識するまでに到った。だが,部落差別は残存し続けている。
 
その理由は「二項対立関係」と「賤視観念」と考えている。
「賤視観念」とは,非科学的根拠による部落民に対する一方的な「違和感」である。実態のない「観念」が,実態として「蔑視・賤視・排除・排斥・忌避」という言動を引き起こすのが部落差別である。

非科学的根拠の一つである「ケガレ観」を解明し,その根拠の「愚かさ」と「無意味さ」を人権の立場で証明していく実践が今後の教育・社会啓発の課題である。部落史・部落問題学習の課題は,被差別民の歴史的背景と多様な実態を明らかにするとともに,各時代における社会構造(社会関係)と人権保障(人権確立)の限界を解明することで,将来に向けて人権拡大の歴史的展望を構築することである。
 
現在において「部落民」として賤視・差別されている以上,過去の歴史が改竄されていようが,賤民でなかろうが,歴史観がまちがっていようが,それらは歴史認識・歴史知識の問題でしかなく,それだけで部落差別が解決するなど机上の計算でしかない。いくら<ホントはすごいだ物語>を語ろうとも,歴史認識や歴史観のまちがいを証明しようとも,「それでも,彼らは部落だろう。現実に差別されているんだろう」「昔がどうであったかなんて関係ない。部落の人間と付き合うなって言われているから」等々の現実問題を克服できるとは思えない。

また,被差別民の善人さ・勤勉さを強調し,そうでない者を例外とする歴史観が客観性をもつとは思えない。武士であろうが百姓・町人であろうが,穢多であろうが非人であろうが,遊女であろうが博徒であろうが,善人もいれば悪人もいる。江戸時代は身分制社会であるから,「身分」としての人間と「個」としての人間を混同してはいけない。職務に忠実で親切な者もいれば,博打三昧の者もいたであろう。愚かな武士もいれば,愚かな穢多・非人も,愚かな町人・百姓もいたであろう。すべての民衆を特定の歴史観・価値観で考察し断定することの方が愚かである。

つまり,「個」として見るのではなく「身分」として見るべきである。そして,問うべきは,穢多身分・非人身分の実態像がどうであったかではなく,彼らを周囲の人々がどのように見ていたか,どのように扱っていたかである。<差別の関係性>を歴史的に考察することが重要なのである。
 
従来の部落史・部落問題に関する考察は,部落-部落外,差別-被差別の「二項対立関係」に偏りすぎていたように思う。
 
同和教育や部落解放運動の負の遺産を総括する必要性を感じている。それは,「差別する者」を「悪」と断じることで「差別された者」を「善」とする単純な思考が生みだした弊害や誤謬である。

「足を踏んだ者には,踏まれた者の痛みはわからない」「自分も知らず知らずのうちに差別者の側にいた」等々の単純二分法によって「弱者」や「被差別者」を絶対化・聖化してしまった結果,同和利権やエセ同和が蔓延ったことである。「足を踏んだ者には,踏まれた者の痛みはわからない」という論法は「被差別者」を自己正当化・聖化に陥れさせてしまうとともに,部落外の人間の口を閉じさせてしまう。

「わからない」のは「痛み」であって,「踏まれた者」が絶対に正しいとは言えない。また「わからない」人間が「差別者」とは限らない。これも善-悪の単純二分法でしか「差別」を考えられない人間の貧困な思考の産物である。「痛み」と「差別」を混同してとらえるべきではない。「差別」によって「痛み」が生じたのであって,「痛み」が「わからない」から「差別」もわからないとか,「被差別者の痛み」がわからないから「被差別の立場」もわからないとかは論理の飛躍であり詭弁でしかない。

「踏まれた者(被差別者)」が踏まれた(差別された)当事者であるから「痛み(差別)」がわかるのは当然であるという短絡的な理由で,被差別者が「差別」のことをよくわかっているとは言えない。これも論理の飛躍であり,自己正当化であり,傲慢さとしか思えない。

この論理の延長にあるのは「痛み比べ」でしかない。よりひどい差別を受けた者,より深く痛んだ者が「正しい」あるいは「権威ある者」「差別をわかっている者」となってしまうことはおかしい。「被差別者の感性」を「人権意識」の基準と思い込むこともおかしい。「差別を受けているから差別のことがよくわかる」というのは傲慢さでしかない。
さらに「差別を受けてきたから人間的に思いやりの心が育ち,人に優しくなれる」という思考は机上の空論でしかない。それほど人間の生き方やあり方は単純ではない。

…ここにもあそこにも差異や落差が目立ち,些細なことを嗅ぎ出しては,あれをどうする,こっちはどうしてくれると大袈裟に騒ぎ立てる。問題は必ずしももとからあったものではなく,そのように,むしろ私たちの近代的な意識の浸透によって「配慮」され「作られる」のである。

…それは,理念だけを見ていると,まさに理念だけの美しい議論のように見えるが,実際にはカテゴライズされた「弱者」は,そのことだけで「聖化」され,聖化されることによって,ある特権意識の城のなかに囲い込まれる。ときにはそれは,単なるエゴイズムの隠れ蓑となり,「社会的弱者」を演技することのうまみを人々に教えるだけのものとなる。
(小浜逸郎『「弱者」とはだれか』)

「差別」は「許すか許さないか」という二極論で考えるべきものではない。なぜなら「差別」は抽象的な概念でしかなく,現実社会では,部落差別とか障害者差別のように特定の対象に対する具体的な差別として表出されるからである。
また,単に「差別」と表現する場合,その価値基準・判断基準は曖昧なものである。何をもって「差別」と断言するか。その基準は対象によって異なるのは必定である。にもかかわらず,「差別」という概念で包括し,生き方やあり方までも規定することは教条主義であり,まさに「理念だけの美しい議論」に過ぎない。
 
「差別」という概念が曖昧である以上,「許す許さない」の基準もまた曖昧である。その判断の尺度はどこにあるのだろうか。
「差別しているかしていないか」の判断の尺度はどこにあり,誰の判断が基準であり,誰が判断するのだろうか。

厳密に「差別を許さない生き方」などできるはずもない。日々の生活において,どれほどの厳格さをもって「差別かどうか」を凝視しながら対人関係の中を生きていくことができるだろうか。それこそが「犯人捜し」「証拠探し」による自己の絶対化という欺瞞を隠蔽することでしかない。
 
「被差別者」や「マイノリティ」が絶対的な「弱者」であるとは思わない。あくまでも相対的な立場に過ぎない。まして「被差別者」でなければ「差別者」の側に括られるなどありえない。「被差別者-差別者」という二元論的立論の規定が日常生活において常になされるなど現代社会ではありえない。そんなことを意識せずに生きている時間の方がはるかに多いはずだ。
もしこの考えで生きるならば,あらゆる生活意識のなかで価値観の多様な相を俎上に載せて検討しなければならなくなり,過敏な検閲意識や神経質な配慮に息苦しさを感じなければならなくなる。
 
「差別を許さない生き方」が「素敵な人生」に結びつくという短絡的な発想では「差別」の多様性や多元性・多面性など理解できず,自己満足の域を出ないだろう。なぜなら,「差別をする方が悪い」という発想と同じく,被差別者を「聖化」「絶対化」「正当化」する発想が根底にあるからだ。

「差別を許す許さない」でしか考えられないことは,「差別」を「善悪」でしか判断できない貧弱な価値観と同一である。「差別を容認する」ことと「差別する」ことは必ずしも同義ではない。何でもかんでも「差別」というカテゴリでしか分析も考察も対応もできない狭量さこそが問題である。人間の心理も思考もそんなに単純ではない。まして「差別性」とは何かを明確に自己の裡に定義できない人間が安易に使うべき言葉ではない。

「被差別者意識」に「卑屈」になるべきではないと同様に,「聖化」「絶対化」すべきではない。同じく「加差別者意識」を煽るべきでもない。なぜなら,現実社会において絶対的弱者は存在しない。すべて相対的弱者でしかないからである。人権意識とは,閉鎖的な差別意識に対しても,弱者や被差別者を聖化する理念にも汲みしない「バランス感覚」と考えている。絶対的な価値観ではなく,相対的な価値観が「差別」解消への指標のひとつと考えている。
 
「二項対立関係」から「共生関係」への転換を図るべきである。
得体の知れない「賤視観念」を克服する方法もまた「共生関係」の構築だと考えている。つまり,部落-部落外,被差別-差別の関係を生み出してきた「排除・排斥・賤視」に対して,「交流・交際・対話・協調・共闘」に基づく「共生関係」を築いていくことで,「賤視観念」のおかしさや愚かさに気づいていく関係が生まれるのである。

本やネットの中ではなく,現実の日常世界において多くの人間と関わり,語り合い,共に何かを為していくことが人権文化・共生社会を創り出すことであり,部落差別を解消していく方向性であると確信している。「知識」だけでは,人は変わらない。「対話」のない「糾弾」は,人を遠ざける。「共生」の意志のない「批判」は,敵意と憎悪しか生まない。独りよがりの「感性」は,人権意識を歪める。人間を変えるのは,人間である。

8 「差別」の起源に意味はあるのか

従来の部落史の認識は,いわゆる「近世政治起源説」(近世政治権力創出論)であった。
江戸時代初期,徳川幕府や諸大名は権力を維持し安定・強化させるために「士農工商」という身分制度を創り出し,重い年貢や運上・冥加金等の納入に苦しむ「農工商」たちの不満をそらすため「穢多・非人」という最下層の被差別身分(賤民)を置いて分断支配を行なった。

「穢多・非人」については,田畑を持つことを認めず,河原や低湿地など悪条件の土地に強制的に住まわせるとともに,入会権や水利権など生活に必要な権利を持つことを認めなかった。さらに,当時の人々に忌避されていた「死牛馬の処理」「行刑」等の業務を強要したため「穢多・非人」は苛酷な差別を受け,低位・悲惨・貧困な生活を余儀なくさせられた。

この「近世政治起源説」は学校教科書にも採用・記述され,部落に対する歴史理解として教えられてきた。この結果,被差別部落に対する理解と認識は画一化し,マイナスイメージが固定化した。
 
「近世政治起源説」の悪しき影響の一つは「政治権力による創出」である。江戸幕府が政治支配のために意図的に「被差別身分」(賤民)を創り出し,差別を強要したという考えである。そのため,江戸幕府が「悪い」のであって,民衆は「差別させられた」(欺された)のだから責任はない,などの言い訳による無関係・無関心(他人事)の考えが広まった。
「悪者(犯人)捜し」は無責任・無関係の証明であった。「穢多・非人」は江戸幕府によって「賤民」にさせられ,民衆は江戸幕府によって彼らを差別することを強要されたのであって,「気の毒で,かわいそう」だけど,現在の自分には関係ないことだという理由づけとなった。しかし,「差別された人々」「賤民であった」ことだけは生き続けて,人々の意識に深く残ってしまった。
 
では,江戸時代には差別された身分・賤民が存在しなかったとするならば,はたして「部落差別」は解消されるだろうか。いつから誰が彼ら(被差別部落)を差別・賤視するようになったのか。近代,明治以後に明治政府・明治国家によってであると唱える人もいる。中世に起源を求め,民衆の中の賤視観を根拠と考える人もいる。

だが,いくら「起源」を明らかにしようと,現実において「部落差別」が現存することは否定できない。つまり,起源が近世であろうと近代であろうと,差別の主体が政治であろうと民衆であろうと,差別している人々によって差別されている人々がいることは事実なのである。「近世政治起源説」が「近代政治起源説」に代わっただけのことだ。

被差別部落を「低位・悲惨・貧困」にし,人々によって差別される存在となったのが近世ではなく近代となり,江戸幕府が明治政府になっただけのことである。意図や根拠,歴史的背景・経緯のちがいはあっても,差別の実態は同じである。どちらにせよ,人々は「差別されてきた人々」として彼らを認識している。
 
「穢多・非人」に由緒正しい歴史的起源があり,江戸時代・明治時代に対する歴史観・歴史認識がまちがっていると証明したとしても,少なくとも「水平社」の時代には明らかに民衆から差別・賤視されていた歴史的事実はある。その理由や根拠がまちがいであり,江戸幕府・明治政府により差別を強要されただけであると証明しても,「差別された」という事実,差別・賤視の対象であったという事実は消えない。それゆえに,いくら江戸幕府・明治政府の責任を論じ,被差別部落に対する歴史認識を変革しても,部落差別はなくならない。
 
部落差別の起源や根拠を問うことが「差別の否定」につながらなければ意味はない。政治体制の責任を問うことよりも,「ケガレ観」自体を否定しなければ意味はない。被差別部落にとって自分たちの祖先が「賤民」ではなかった,差別されていなかったという考えが自らの存在理由にかかわる重大な意味をもつことはわかる。「賤民の子孫」という烙印は耐え難い苦悩である。しかし,「賤民とされた」(賤視の対象)と「賤民」(賤視)それ自体の是非と問題性を問うことは別である。被差別部落が「賤民」でなかったとしても,そのことは他の人々が「賤民」とされ,賤視の対象とされたことを否定することにはならない。人権の視点は「賤民」(賤視)を否定することにある。
 
部落史を研究し学習する意味は,部落差別の根拠・形成過程を明らかにするだけではなく,人権の視点から考察することで「差別」「賤視」を否定する社会を構築する展望を得ることである。
 

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。