光田健輔論(3) 善意の思い込み
成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』に、次のような一文がある。
そのとおりである。ハンセン病問題に深く関わり、歴史の影に埋没していたハンセン病患者の声を拾い集め、彼らに関わった人たちの表裏の姿を探っていく中で、人間の「善意の危うさ(恐ろしさ)」、「無自覚の悪意」を思い知らされた。本人は「善意」で「思いやり」で行っていることが相手にとっては「悪意」にしか思えず、「思いやり」は自己満足でしかないことに、実は本人は気づいてさえいない。権威や権力をもつ立場にいる人間ほど、見えてはいないのだ。その例を成田氏は自らを恥じながら、それでも次のように書いている。
全くの同感である。しかし、当時の療養所園長は「草津送り」を命じることはあっても、やめることはなかった。それが彼らの「正義」であり、<善意>であった。
<善意>と思い込むほど恐ろしいものはない。病苦に悩み衣食住にも困って放浪する患者を救済して「やっている」(助けてやっている)のだという<善意>は、隔離されても自由がなくても少々のことは我慢しろ、という論理が成立すると思い込む。自分は<善意>でして「やっている」のだから感謝こそされても文句を言われる筋合いはない。高慢さ、傲慢さでさえ、救済という<善意>の名の下では消えてしまう。
「長島事件」直後、事件を知った識者や関係者が新聞や雑誌に論評を載せている。
童話作家であり関西MTL理事の塚田喜太郎は「『親の心、子知らず』これが、癩病院の騒ぎです」と、実態を知らずに、的外れの激しい非難を書いている。さらに全生病院の『山桜』や北部保養院の『甲田の森』にも執筆し、「非は患者にある」と断じて愛生園の患者に対する攻撃を続けた。
藤野豊氏の『「いのち」の近代史』よりの孫引きになるが、塚田喜太郎の文章を検証してみたい。
1924(大正13)年、東京YMCA会員と賀川豊彦が主宰する「イエスの友会」10数名が全生病院を訪問したことを機に、日本のキリスト者によるハンセン病に対する社会運動を興すことが求められ、1925年に欧米のキリスト者の運動にならい、癩の根絶を目的として創立されたのが「日本MTL」である。MLTは、Mission to Lepersの略で「救癩協会」というような意味である。光田の意向を汲んで、「救癩」よりも当時の「先進国」のなかでは比較的患者が多かった日本を救うことを目的に、患者の隔離政策を推進していく。
皇室と同様に宗教組織も光田健輔に利用された。日本MTL初代理事長小林正金も賀川豊彦も『新約聖書』におけるイエスとハンセン病患者の逸話を紹介しながら、キリスト者としてハンセン病患者の救済を使命に掲げながら、その意向は患者ではなく国家に向いていた。
賀川豊彦の問題作『貧民心理の研究』は差別と偏見の書として有名であるが、根底を流れる賀川の意識は上記の塚田喜太郎の考えに相通じている気がする。それは上位・優位な立場に自らがあるという自意識から社会的弱者に対する「見下し」「蔑む」感情である。彼らがキリスト教信仰から口にする「友となり、兄弟となって」は、上から目線の「なってやる」「してやる」という「施し」でしかなく、相手が少しでも反抗したり意に反したりすれば、「これだけしてやっている。救ってやっている」のにという反動によって、それを裏切りとさえ思い、烈火の如く怒る。
イエスと同じ行為と思っているだろうが、まったく反対である。イエスが最も戒めた「自らを神とする」態度である。上から目線の「憐れみ」や「同情」を受けて、ただ文句も言わず「感謝せよ」という関係を「友」とも「兄弟」とも言わない。
<善意>の思い込みが、自己満足でしかない「同情」を生み出す。それが偽善の「同情」であることは、対象者(患者)の反抗的な態度によって豹変する言動で明らかである。
私は宗教の恐ろしさを痛感している。信仰の名の下に自らの言動を<善意>と思い込み、自らを「絶対化」する。そして、反する者を「敵」として攻撃することを肯定する。宗教的対立から引き起こされてきた古来よりの戦争がそれを証明している。そして現在も同じである。
塚田喜太郎は同じ理念をもつ光田健輔率いる長島愛生園当局に対して患者が反抗したことが許せなかったのである。患者は「敵」となったのである。光田の<善意>も塚田の<善意>も同じ上から目線の偽善でしかない。自己満足・自己正当化の偽善を<善意>と思い込んでいるだけである。
もちろん時代の制約もあるだろう。道徳観も家族観も現在とは大きくかけ離れている。天皇制国家体制における家族主義や前近代の儒教的倫理観の影響も大きいだろう。社会的弱者に対する意識、同情や融和の考えにも、それらは大きく影響しているだろう。だからといって、仕方がなかったで済ますべきではない。同じ悲劇が繰り返されないために、賀川や光田を生み出さないように検証する必要がある。
光田は、専門的な医師としての知見、国家への使命と貢献、誰もが目を背けるハンセン病患者を率先して救済する無私の精神、国家や社会のための奉仕などの姿を見せることで、多くの知己と信頼を得て、彼らの支持を受けて権威と権力を手にしていった。換言すれば、光田は、誰もが気の毒と思い、憐れみと同情を向けるハンセン病患者を巧妙に利用して<光田帝国(光田イズム)>を築き上げたのだ。
<善意>ほど始末におけないものはない。<善意>から発動された行為であるから、当人はその行為が相手にとって最良であると思い込む。相手が望んでいること、相手が喜ぶことと思い込んでいる。意思疎通があればよいが、一方的な<善意>の「施し」であれば、必ずしもそうはならないだろう。<善意>の「お仕着せ」もあるのだ。
<善意>の「施し」も、間接的なものであれば、余計に迷惑なこともある。塚田や賀川のMTLも、その他の関係団体も、彼らの<善意>は光田健輔や愛生園当局あるいは他の療養所などハンセン病に関わる人々に向けられたものであって、直接に患者に対してではない。
光田は患者を出汁にして自らの名声と支持者を得ていたとさえ思えてしまう。また、当時のハンセン病に関わる外部の人々、支援する人々も、救癩という美名に自己陶酔しているだけではなかったか。非情に偏った見方かもしれないが、塚田の言葉などからはそうとしか思えない。
成田氏は光田のハンセン病患者への共感の乏しさが伺える患者の証言を紹介している。転載しておく。
成田氏は、光田が隔離される女の子を前に涙した逸話について、「流した涙は、思いやりではなく単なる同情の類だったろう」と書いている。一方で、長島愛生園の元看護師に聞いた話として、次のような逸話も書いている。
また、成田氏は光田門下であり長島愛生園で光田の薫陶を受けた内田守が書いた光田の評伝『光田健輔』からの引用を例に次のように結論を下している。
光田自身の回想録(『愛生園日記』『回春病室』)や光田についての思い出(『救癩の父 光田健輔の思い出』など)を読むと、患者に寄り添う慈愛に満ちた姿が語られているが、果たしてどちらが光田の本当の姿であったのか。私はどちらも光田健輔だったと思う。宮坂道夫氏が分析するように、パターナリズムを生きようとした姿であった。ただ、その振り幅が大きすぎたのだと私は考えている。
私は光田の人格や人間性を否定するものではない。彼のハンセン病患者を救済したいという思いや日本からハンセン病を根絶したいという使命感、さらにはハンセン病対策事業を推進した貢献を否定するものでもない。ただ、成田氏が言うように「光田の絶対隔離への執念は偏執的だった」という面こそを問題にしたい。なぜなら、それこそが二度と同じ過ちを繰り返さないために必要な考察だからである。
神谷美恵子の「癩者に」という詩に、「何故私たちでなくてあなたが?/あなたは代って下さったのだ」という一節がある。キリスト教徒であり、精神科医として長く愛生園に勤務し、献身的に患者に寄り添った神谷の純真さが生み出した言葉であろう。神谷の著書には似たような言葉が多く書かれている。
神谷もまた光田を尊敬し、彼の傍で彼を献身的に支えた一人である。彼女の業績と思想については広く知られているところであり、私は言及するつもりはない。ただ、彼女もまた<善意>の人であり、<善意>の思い込みが強かった人であるがゆえに、光田を盲信してしまったと思う。もし、神谷が絶対隔離政策の矛盾に気づき(否、気づいていたはずである)、患者の苦悩を心の癒やしだけでなく、環境や状況の改善に求めていたならば、せめて彼女が声を上げることができていたならば、そう思ってしまう。