見出し画像

光田健輔論(41) 不治か完治か(1)

人はなぜ「病気」を恐れるのか。釈迦も人生の苦痛を「四苦」(生老病死)と教えているように古今東西の宗教や哲学では「病」を問題としてきた。

「病気」を恐れる理由は、「死」と結びついている、あるいは身体の損傷(変形、機能不全など)と結びついているからである。また、「病気」に「治療法(薬)」があるかどうか、完治か不治かである。そして、「病気」が「感染」するかどうか、その強度が深く関係している。これが「病気」に対する判断基準である。

最近の「病気」では、エイズやコロナをみればわかるだろう。原因がわからず、感染力が強く、治療方法や治療薬がなかった結果、世界中がパニックに陥ってしまい、感染者への隔離が徹底された。人々は「感染する(うつる)」ことを極度に「恐れ」、病者(感染者)への忌避・排除、そして差別的な言動さえおこなった。

「病気」は個人の問題だけでなく、他者や社会そして国家の問題として捉える必要がある。それゆえ、「治療薬がないのだから」「感染力が強いのだから」<隔離>は当然であるという正当性が生まれる。病者よりも健常者を優先する論理が肯定される。病者は気の毒な、運の悪い「犠牲者」として<隔離>される。

私は少々捻くれているのかもしれないが、神谷美恵子の有名な言葉<私ではなく、なぜあなたが>を素直に受けとめることはできない。神谷美恵子については本論考の中で幾度か取り上げてきたので繰り返しになるため改めて述べないが、彼女の最大の罪は光田健輔への盲従であると考えている。患者の傍で苦悩や悲哀に耳を傾けた精神科医でありながら、体制の変革に尽力せず、光田への進言をしなかったことである。

…ハンセン病者の入所時のPTSDへの一番の治療は、患者を故郷へ帰し、そこで有効な薬を与え、普通の病院や医院へ通院し、周辺住民が十分納得し、忌避を越えて共存することではあるが、神谷がそういう治療法を確立しなかった、体制の中での保守的なカウンセリングや投薬や精神分析しか行わなかったといって、彼女を批判することは適当でないと思われる。

徳永進「隔離の中の医療」『ハンセン病』

徳永氏は、神谷が患者に寄り添い、患者の文化活動を支援することで、患者が心の平安や生きがいを見出したことを評価し、「隔離から解放へという運動につながらないと批判される分岐点でもあるが、人間の深いところにあるものについて、多くの人びとに伝えたことは、ハンセン病精神医学として大きな仕事だったろうと思う」と述べて、上記のような彼女への批判を疑問視する。だが、私はそれでも神谷の「限界」を批判する。政治的鈍感さと視野の狭さ、光田への盲信を、彼女の謙虚さではなく臆病さと思える。

私の好きな作家である高橋和巳は「知ったことに対する無関心は、悪ですらなく人間の物化である」と言った。アインシュタインは「この世は危険なところだ。悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら、何もしない人がいるためだ。」と言っている。神谷美恵子を「無関心」とは言わないが、隔離政策に対して彼女が「何もしなかった」ことは言い逃れできない。


藤野豊氏は、『ハンセン病と戦後民主主義』の序章「ハンセン病絶対隔離政策史への視点」と題して、戦前のハンセン病対策および世界の対策動向と日本との対比を簡潔にまとめている。戦後のハンセン病史を考察する前に、藤野氏の論考より抜粋・転載して「戦前の隔離政策」を概観しておきたい。

…近世の日本においては、遺伝病とみなされていた。患者が出るとその家は「癩筋」とみなされ、家族・親戚が婚姻忌避の対象とされた。
「癩部落」という差別的呼称がある。ハンセン病患者が多いとされる集落はこのように呼ばれ、婚姻が忌避された。こうした現実がある以上、患者は家の一室に身を隠し民間療法に頼るか、家を出て家族とも縁を絶ち、放浪するかを余儀なくされた。神社・仏閣の門前で参拝者に物乞いする光景は近代以前から見られていた。
また、ハンセン病の発症には衛生環境・生活状態が大きく影響している。すなわち、食糧難・重労働・貧困などの社会的要因が患者の発生を左右する。したがって、患者は欧米の「文明国」には少なく、アジア・アフリカの植民地・「途上国」に多い。ハンセン病患者の多さは国家にとり「国辱」とみなされた。

…来日した欧米のキリスト教宣教師がハンセン病医療に着手している。…ハンセン病患者が、日本では大勢、路傍に打ち捨てられている光景に衝撃を受け、キリスト者の使命感に燃え、患者救済に取り組んだ。1880年代から90年代にかけて設立された神山復生病院(カトリックのテスト・ウィードが静岡県に設立)・回春病院(聖公会のハンナ・リデルが熊本県に設立)・琵琶崎待労院(カトリックのジャン・マリー・コールが熊本県に設立)・慰廃園(プロテスタント長老派のケート・ヤングマンと好善社が東京府に設立)はみなさうした施設であったが、国家はこうした病院に援助はしなかった。これらのキリスト教信仰に基づいた病院は、ハンセン病患者を隔離するのではなく、病院に収容して治療と宗教的救済を与えることを目的としていた。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

日本におけるハンセン病は、長い歴史のなかで、宗教的理由から「天刑病」「業病」という認識が人々に浸透し、また家族や親族からの発症が多く見られたため「遺伝病」として排除されてきた。特に仏教は、ハンセン病を「因果応報」による「業病」「天刑病」として教義をわかりやすく説明するために利用した。すなわち、悪業の報いとしての「業病」である、あるいは天罰による病気としての「天刑病」であると説いてきた。例えば、熊本の本妙寺にハンセン病患者が集まってきたのも、法華経を誹謗中傷したからハンセン病になったのだから、日蓮宗の寺であり加藤清正公の菩提寺でもある本妙寺に、逆に法華経にすがれば救われるという理由で集まったという僧侶もいる。中世から近世における「癩者」についてはあらためて考察してみたい。

「遺伝病」と「感染症(伝染病)」との決定的な違いは<感染するか、しないか>である。他者にとって、社会や国家にとって、この違いは大きい。「遺伝病」であるから<感染しない>ので、「物乞い」への「施し」も行うのである。容姿の変形や爛れ、膿など見た目への気持ち悪さ、貧困からの衣服の汚れや不潔さ等々の理由から、近付きがたさや排除はあっても、病気や境遇への「同情」や「憐れみ」からの救済や援助はあった。

…和泉(眞藏)氏は、「日本では千年以上にわたって何の予防対策もとらなかったのに、一度も流行したことがなかったという歴史的な事実」について言及されている。戦乱と自然災害が相次いだ戦国時代がピークで、相対的平和が到来した近世では患者数はしだいに減少傾向をたどっていたのではないか。

病変が全身に及び天刑を受けた異形の者として、地域共同体からも排除されてきた発病者は、このL型(らい菌に対する免疫応答性の個体差によって四つに大別される病状の一つで、細胞性免疫能が全くなく病変が全身化するらい腫型)が多かったと思われる。しかし、…中世の非人宿にしても、近世の物吉村にしても、決して絶対隔離ではなかった。民衆社会との一定の交流は認められていた。勧進のために人家の多い街に出歩く自由は認められていたのである。とすれば、菌がほとんどなく隔離収容が必要でないT型(細胞性免疫能が高く、局所病変にとどまる類結核型)も多かったのではないか。

沖浦和光「はじめにーいま、何が問われているのか」『ハンセン病』

私は「類型」の違いも関係すると思うが、ハンセン病に対する「天刑病」「業病」「遺伝病」という<感染しない>認識が、「予防対策」を必要とせず、勧進の許可を与えられ、「一定の交流」も認められていたのだと考える。

しかし、ハンセン病が感染症と確認されてから事態は激変する。すでに1873年にノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンが菌を発見していたが、1897年、ベルリンの第一回国際らい会議でハンセン病は感染症であることが確認された。ハンセン病は遺伝ではなく、感染するということが医学的に承認されたのである。このことが、ハンセン病患者への隔離政策の根拠とされ、事態は大きく変化した。

…それまでの居留地制度が廃止され、「内地雑居」が実現、欧米人の日本国内での居住・旅行が自由となった。これも隔離政策の重要な根拠となる。

…「内地雑居」により、日本を訪れた欧米人の目にも大勢のハンセン病患者の存在が見られてしまう。まさに、これでは、日本は「文明国」から脱落する。ハンセン病患者を欧米人の目に映らないよう、社会から隠す必要が生じた。

…欧米にはほとんどいなくなったハンセン病患者が大勢放浪し、物乞いする光景は「国辱」以外のなにものでもない。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

こうした時代背景から1899年以降、帝国議会において根本正や山根正次などの議員からハンセン病患者を取り締まる法律案が提出される。しかし当時の内務省は、ハンセン病は急性感染症ではないと反論し、否決された。このことは、衛生行政を管轄していた内務省当局が「感染が発症に直結する急性感染症と、感染が必ずしも発症とはならないハンセン病は同等に扱えないという認識」であったことを明らかにしている。

では、なぜ政府はハンセン病患者への「絶対隔離」に方針を転換したのだろうか。その契機となったのは、1905年11月、熊本でハンセン病療養施設「回春病院」を経営するハンナ・リデルの上京であった。彼女の目的は回春病院への支援を日本の政財界に訴えることであった。リデルの訴えを受けて渋沢栄一が開いた会合に出席したのが、衆議院議員山根正次そして東京市養育院医官光田健輔であった。その席上、2人は隔離政策の必要性を強く訴え、渋沢の後押しもあり、出席していた内務省衛生局長窪田静太郎ら政府を動かしたのである。

光田医学士は其専攻に係る癩病の歴史、各国に於る過去現在の状況及び癩病の遺伝質なるより寧ろ伝染質にして我邦中三万有余の患者が自由に放任せらるゝは益々国人中に伝染するの危険ある事、及近世ノルウェイ、露国、布哇等に於て隔離主義を取りて或は病院を設け或は癩病者永住地を特定したるの結果年と共に著るしく癩病患者の数を減ずるに至れるを数字を以て證明し、山根代議士は隔離法の行はれざる為の危険多きも殊に貧困なる癩病患者の或は路傍に物を乞ひ或は木賃宿に寄宿する等より伝染すべき恐れの最も大なるを云ひ、窪田局長は癩病予防法に付き政府に於ても目下調査中に属し必ず時機を見て適当の法案を提出せんとするを告げ、終に島田三郎氏は大隈伯、渋沢男に於て各新聞社、事業家及び医学界を代表すべき若干名の委員を選み更に其委員の集会を催ほしてリッデル嬢の事業に対し募金を為し賛成を表すべき方法を講究すべきを提議し満場一致を以て之に同意。

『東京日日新聞』1905年11月7日

光田健輔は東京市養育院に収容される「行旅病者(行き倒れ病者)」の中にハンセン病患者が多いことから、「伝染恐るべし」との認識を強く持ち、院内に「回春病室」を開設して患者を隔離するとともに、感染施設の必要を訴えてきた。以後、光田は渋沢の知己を利用し、内務省に自らの主張を浸透させていく。

1906年には、第22回帝国議会に山根正次が議員立法案として「癩予防法案」を提出している。山根は、放浪するハンセン病患者は菌をばら撒く元凶であるとして、強くその隔離を求めた。結局、この時は衆議院で法案が可決されたものの、貴族院で審議未了となったが、翌1907年、第23回帝国議会で山根らの法案とほぼ同様の政府案として「癩予防ニ関スル法律案」が提出され、法律「癩予防ニ関スル件」として成立した。この法律は主として放浪するハンセン病患者を隔離の対象とし、この法律に基づいて全国を五区に分け、それぞれに連合道府県立のハンセン病療養所、事実上の隔離収容所が設置された。…これらの施設の完成を待ち、1909年から隔離が開始された。法文には隔離規定はあるものの、退所規定はない。当時、ハンセン病に対しては大風子油の投与が唯一の治療法であったが、これは根本的な治療ではなく、ハンセン病は不治とされていた。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

「退所規定がない」ことは何を意味するのか。治療による完治が目的ではなく、不治なのだから死ぬまで隔離すること、つまりハンセン病患者そのものの絶滅によるハンセン病の根絶が目的であり、さらに外国人から見えない場所に隠蔽することが目的であった。

では、光田健輔が執拗に求めた「懲戒検束権」も、入所者を「逃亡」させない、反発や反抗をさせないための「脅し」であることが明白である。

隔離自体が監禁である。その隔離施設のなかにさらに監禁所をつくる。二重の監禁である。さらに患者に対し処罰として減食をおこなうなど、およそ医療機関の発想ではない。しかも、問題なのは、所長の判断で処罰ができることである。所長は、この懲戒検束規定を恣意的に行使し、自由に入所者を処罰できた。まさに、所長は入所者に対して絶対的な権力をもって君臨したのである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

それだけではない。光田によって開始された「断種」「堕胎」も各療養所において「ハンセン病患者は子どもをつくらないことが療養所の不文律」のように実施されていく。同じく、「解剖」もまたルーティンのようにおこなわれていった。

1920年代になると、優生思想に基づく「民族浄化」という言葉がハンセン病対策に登場する。1916年に内務省が設置され、光田健輔も委員であった保健衛生調査会では、1920年に「根本的癩予防策要項」を決定、内務省に対し、それまでの放浪するハンセン病患者の隔離から全患者の隔離への政策の転換を求めた。この方針に基づき、1930年に岡山県に初めての国立隔離施設長島愛生園が開設され、光田健輔が初代園長となる。

…1931年、第59回帝国議会で法律「癩予防ニ関スル件」は「改正」され、「癩予防法」となり、すべてのハンセン病患者への生涯隔離=絶対隔離が開始される。
同じく、1931年には、内務相のもとに財団法人癩予防協会が設立されている。絶対隔離の方針を国民に浸透させることがその目的であるが、この組織の基金には大正天皇の妻貞明皇后節子の「下賜金」も組みこまれている。「皇恩」を全面に出すことにより、隔離の円滑な推進が図られた。

さて、この新たな「癩予防法」のもと、1936年には、内務省がハンセン病の「二十年根絶計画」を決定、20年間で日本からハンセン病患者を根絶すると豪語した。この計画を実践するため、光田健輔らが煽動して「無癩県運動」が展開される。各道府県を競争させる形で、自宅で療養している患者を探し出し、隔離施設に送りこんでいった。…
以後、絶対隔離は進み、1940年には当面の目標であった一万人隔離が達成された。1941年には、それまでの効率の隔離施設がすべて国立に移管され、一層、隔離が強化されていく。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

藤野氏の論考をもとに、戦前のハンセン病政策について概観してみたが、あらためて光田健輔の「主導」を強く感じる。

光田健輔が、ハンセン病が「伝染病」であることや「隔離施設」が必要であることを訴え、渋沢を動かして政府官僚に働きかけた結果、多くのハンセン病患者が救われたことは紛れもない事実である。この功績は大きい。
療養所を開設したことによって、多くの浮浪するしかなかったハンセン病患者が路頭に迷うこともなく、たとえ貧しい食事であっても物乞いに頼らなくてもよく、大人数が雑居する集合住宅であろうと雨露をしのぐことができ、不十分でも治療を受けることができ、苛酷な強制労働であっても慰労金をもらうことができた療養所の生活に、たとえ自由と引き換えであっても、家族との悲しい惜別があっても、それでも感謝を抱く患者は多かった。

光田を批判する私にしても、その事実を否定することはできない。だが、それでも時代的制約、あるいは功績による免責と安易に納得することはできない。なぜなら、戦後に画期的な治療薬としてプロミンが登場し、ハンセン病が「不治」ではなく「完治」する病気となったにもかかわらず、それを受け容れることができず、自らの主張に固執し、「絶対隔離」をさらに強化しようとしたことが引き起こした多くの人権侵害を、死ぬまで認めなかった光田の頑迷さを私は許すことができない。

いいなと思ったら応援しよう!

藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。