人はなぜ「病気」を恐れるのか。釈迦も人生の苦痛を「四苦」(生老病死)と教えているように古今東西の宗教や哲学では「病」を問題としてきた。
「病気」を恐れる理由は、「死」と結びついている、あるいは身体の損傷(変形、機能不全など)と結びついているからである。また、「病気」に「治療法(薬)」があるかどうか、完治か不治かである。そして、「病気」が「感染」するかどうか、その強度が深く関係している。これが「病気」に対する判断基準である。
最近の「病気」では、エイズやコロナをみればわかるだろう。原因がわからず、感染力が強く、治療方法や治療薬がなかった結果、世界中がパニックに陥ってしまい、感染者への隔離が徹底された。人々は「感染する(うつる)」ことを極度に「恐れ」、病者(感染者)への忌避・排除、そして差別的な言動さえおこなった。
「病気」は個人の問題だけでなく、他者や社会そして国家の問題として捉える必要がある。それゆえ、「治療薬がないのだから」「感染力が強いのだから」<隔離>は当然であるという正当性が生まれる。病者よりも健常者を優先する論理が肯定される。病者は気の毒な、運の悪い「犠牲者」として<隔離>される。
私は少々捻くれているのかもしれないが、神谷美恵子の有名な言葉<私ではなく、なぜあなたが>を素直に受けとめることはできない。神谷美恵子については本論考の中で幾度か取り上げてきたので繰り返しになるため改めて述べないが、彼女の最大の罪は光田健輔への盲従であると考えている。患者の傍で苦悩や悲哀に耳を傾けた精神科医でありながら、体制の変革に尽力せず、光田への進言をしなかったことである。
徳永氏は、神谷が患者に寄り添い、患者の文化活動を支援することで、患者が心の平安や生きがいを見出したことを評価し、「隔離から解放へという運動につながらないと批判される分岐点でもあるが、人間の深いところにあるものについて、多くの人びとに伝えたことは、ハンセン病精神医学として大きな仕事だったろうと思う」と述べて、上記のような彼女への批判を疑問視する。だが、私はそれでも神谷の「限界」を批判する。政治的鈍感さと視野の狭さ、光田への盲信を、彼女の謙虚さではなく臆病さと思える。
私の好きな作家である高橋和巳は「知ったことに対する無関心は、悪ですらなく人間の物化である」と言った。アインシュタインは「この世は危険なところだ。悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら、何もしない人がいるためだ。」と言っている。神谷美恵子を「無関心」とは言わないが、隔離政策に対して彼女が「何もしなかった」ことは言い逃れできない。
藤野豊氏は、『ハンセン病と戦後民主主義』の序章「ハンセン病絶対隔離政策史への視点」と題して、戦前のハンセン病対策および世界の対策動向と日本との対比を簡潔にまとめている。戦後のハンセン病史を考察する前に、藤野氏の論考より抜粋・転載して「戦前の隔離政策」を概観しておきたい。
日本におけるハンセン病は、長い歴史のなかで、宗教的理由から「天刑病」「業病」という認識が人々に浸透し、また家族や親族からの発症が多く見られたため「遺伝病」として排除されてきた。特に仏教は、ハンセン病を「因果応報」による「業病」「天刑病」として教義をわかりやすく説明するために利用した。すなわち、悪業の報いとしての「業病」である、あるいは天罰による病気としての「天刑病」であると説いてきた。例えば、熊本の本妙寺にハンセン病患者が集まってきたのも、法華経を誹謗中傷したからハンセン病になったのだから、日蓮宗の寺であり加藤清正公の菩提寺でもある本妙寺に、逆に法華経にすがれば救われるという理由で集まったという僧侶もいる。中世から近世における「癩者」についてはあらためて考察してみたい。
「遺伝病」と「感染症(伝染病)」との決定的な違いは<感染するか、しないか>である。他者にとって、社会や国家にとって、この違いは大きい。「遺伝病」であるから<感染しない>ので、「物乞い」への「施し」も行うのである。容姿の変形や爛れ、膿など見た目への気持ち悪さ、貧困からの衣服の汚れや不潔さ等々の理由から、近付きがたさや排除はあっても、病気や境遇への「同情」や「憐れみ」からの救済や援助はあった。
私は「類型」の違いも関係すると思うが、ハンセン病に対する「天刑病」「業病」「遺伝病」という<感染しない>認識が、「予防対策」を必要とせず、勧進の許可を与えられ、「一定の交流」も認められていたのだと考える。
こうした時代背景から1899年以降、帝国議会において根本正や山根正次などの議員からハンセン病患者を取り締まる法律案が提出される。しかし当時の内務省は、ハンセン病は急性感染症ではないと反論し、否決された。このことは、衛生行政を管轄していた内務省当局が「感染が発症に直結する急性感染症と、感染が必ずしも発症とはならないハンセン病は同等に扱えないという認識」であったことを明らかにしている。
では、なぜ政府はハンセン病患者への「絶対隔離」に方針を転換したのだろうか。その契機となったのは、1905年11月、熊本でハンセン病療養施設「回春病院」を経営するハンナ・リデルの上京であった。彼女の目的は回春病院への支援を日本の政財界に訴えることであった。リデルの訴えを受けて渋沢栄一が開いた会合に出席したのが、衆議院議員山根正次そして東京市養育院医官光田健輔であった。その席上、2人は隔離政策の必要性を強く訴え、渋沢の後押しもあり、出席していた内務省衛生局長窪田静太郎ら政府を動かしたのである。
光田健輔は東京市養育院に収容される「行旅病者(行き倒れ病者)」の中にハンセン病患者が多いことから、「伝染恐るべし」との認識を強く持ち、院内に「回春病室」を開設して患者を隔離するとともに、感染施設の必要を訴えてきた。以後、光田は渋沢の知己を利用し、内務省に自らの主張を浸透させていく。
「退所規定がない」ことは何を意味するのか。治療による完治が目的ではなく、不治なのだから死ぬまで隔離すること、つまりハンセン病患者そのものの絶滅によるハンセン病の根絶が目的であり、さらに外国人から見えない場所に隠蔽することが目的であった。
では、光田健輔が執拗に求めた「懲戒検束権」も、入所者を「逃亡」させない、反発や反抗をさせないための「脅し」であることが明白である。
それだけではない。光田によって開始された「断種」「堕胎」も各療養所において「ハンセン病患者は子どもをつくらないことが療養所の不文律」のように実施されていく。同じく、「解剖」もまたルーティンのようにおこなわれていった。
藤野氏の論考をもとに、戦前のハンセン病政策について概観してみたが、あらためて光田健輔の「主導」を強く感じる。
光田健輔が、ハンセン病が「伝染病」であることや「隔離施設」が必要であることを訴え、渋沢を動かして政府官僚に働きかけた結果、多くのハンセン病患者が救われたことは紛れもない事実である。この功績は大きい。
療養所を開設したことによって、多くの浮浪するしかなかったハンセン病患者が路頭に迷うこともなく、たとえ貧しい食事であっても物乞いに頼らなくてもよく、大人数が雑居する集合住宅であろうと雨露をしのぐことができ、不十分でも治療を受けることができ、苛酷な強制労働であっても慰労金をもらうことができた療養所の生活に、たとえ自由と引き換えであっても、家族との悲しい惜別があっても、それでも感謝を抱く患者は多かった。
光田を批判する私にしても、その事実を否定することはできない。だが、それでも時代的制約、あるいは功績による免責と安易に納得することはできない。なぜなら、戦後に画期的な治療薬としてプロミンが登場し、ハンセン病が「不治」ではなく「完治」する病気となったにもかかわらず、それを受け容れることができず、自らの主張に固執し、「絶対隔離」をさらに強化しようとしたことが引き起こした多くの人権侵害を、死ぬまで認めなかった光田の頑迷さを私は許すことができない。