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人は自然の一部である

先日、待望の著書、渋沢寿一さんの『人は自然の一部である』を手にすることができた。一夜で一気に読了し、今はじっくりと読み込んでいる。


…やはり「農業」と「農」は違うのだということです。「農」は、自分が植物を作りながら土に依存して、その場所で土を持続的に利用していくことによって生きていくこと。つまり、生き方を表している言葉であるのに対して、「農業」はあくまでも産業です。

渋沢さんと出会って10数年、折に触れて示唆に富んだ話を聞くことができ、いつしか<渋沢ファン>になってしまった。何より自然に対する見方や考え方が大きく変わった。
自然はそこあるものであり、人間はそれを利用するものとしか思っていなかった。「自然との共存」を頭では理解した気になりながら、まったくわかっていなかった。人間中心の傲慢さに気づきもしていなかった。
日生で<里海>に出会い、その発想の原点である<里山>に辿り着いた。導いてくれたのが渋沢さんであり、彼が理事長である<共存の森ネットワーク>の吉野奈保子さんである。

本書で渋沢さんは、まるで自伝のように自分を語っている。自らの原点、分岐点、発想の転換など、自らの半生を通して、日本人が本来受け継いできた<ものの見方や考え方>を鮮明に伝えてくれる。

私が人生で出会った自然の中で暮らす人々からは、「自然は人間の思いどおりにはならない」ということを痛いほど知らされました。しかし、その思いどおりにならない自然の中で、人は生きていかねばならなかったのです。人間がいかにもがいてもコントロールできない大自然という不条理を受け入れることが、そのまま生きるということだと知りました。その中で、少しでもより良い明日をつくろうと、人々は自然の営みである循環の仕組みを知り、どうしたら無駄なくその恩恵を受けられるかを考え格闘してきました。真摯に、ひたむきに生きるお年寄りたちからは、自然は人が手間をかけて丁寧に扱い、その煩わしさを受け入れながら共に生きていくものだということを教わりました。

今でこそ<里山>という言葉が環境保護や気候変動への対策、さらに人類の生き残る道などの代名詞として脚光を浴びているが、元々日本人が自然と共生してきた概念である。同様に、柳哲雄氏が提唱した<里海>もまた、<里山>から学んだ概念である。自然から奪い尽くすのではなく自然と共に生きるために、自然に働きかけながら守りながら生きていく、それが<里山>であり<里海>の考え方である。

高校時代、梅原猛の『哲学の復興』などデカルト哲学を中心とした西洋近代文明原理の批判に強く影響を受けて、一時期、梅原猛の著作を読み耽った。それから40数年、勤務先で<里海>と出会うまで、すっかり梅原猛の提唱(警鐘)を忘れてしまっていた。

机上に、当時読み漁った彼の論文などを集録した『梅原猛著作集7 哲学の復興』があるが、あらためて読み直して、気候変動による異常気象など環境破壊の「ツケ」が押し寄せてきている現在、自然が人間の身勝手な欲望への復讐を始めた現在を予見していたのだと痛感する。

人間と物質の存在しか信じないという原理に従って、近代文明はわれわれをとりまく自然を、われらの意志のままに改造しはじめたのである。正に、近代化という名で起こっている世界の運命は、この、人間の意志に従う自然の改造に他ならない。そこで、人間以外の動植物は、生きながらすでに一つの死せるものとして扱われる。

…われわれは人間以外のあらゆる生きとし生けるものを単なる物質と考え、その生きとし生けるものを絶滅し、それを人間の意志によって作られた機械に置き換えたのである。

公害の問題が起こってくるのは、そういう近代文明の果てにおいてである。つまり人間の自然征服が、ほぼ完全に完成されたときにはじめて、自然の人間への復讐がはじまったのである。そのとき自然は、召使の如く従順となるかどうか。たしかに召使の如く、自然は従順となったが、この召使として人間がつかった自然が、今や大いなる病にかかり、正に死のうとしているのである。長年人間によって搾取され、酷使された自然は、今や、瀕死の重体となった。しかもその召使の死は、人類そのものの死を意味するのである。

1960~70年代、梅原たちは「警鐘」を鳴らし続けていた。その声に耳を傾けた人間も少なからずいたが、物質文明の豊かさと科学技術の進歩の中、いつしか忘れられていった。私もその一人であったことを恥じている。

渋沢さんの本書、第1章「森と人との関わり」の冒頭、次のような、アメリカ人の活動家の言葉が紹介されている。1997年、エクアドルの震災復興に向けた各国NGOによる環境街づくり会議の席上での発言とある。

西洋は、街の中心に教会を置いて周辺に人が住み、外側を城壁で囲んできました。そこで生まれた思想は、城壁の外側にある自然は、神が人間に与えてくれたものとして利用していいのだというものです。これから人類が本気で環境問題に取り組むには、城壁の内と外とを区別してきた西洋文明の思想ではなく、森を村の中心に置き、人間は自然の一部だという日本の「鎮守の杜」の考え方に学ぶ必要があるのではないでしょうか。

本書を紹介することが目的ではない。渋沢さんの実体験から得た至言の数々をわずかの抜粋で伝えられるはずもない。それでも私は多くの方に読んでもらいたい。これからを生きるために、この地球を子孫のために守るために、何をまちがえているのか、何に気づき、何をすべきかを知ってほしい。

第2章「幸せとは」に「SDGsの光と影」と題した小項目がある。

…今、みなさんはワンコイン(500円)程度で天丼を食べることができます。…コールドチェーンの発達によって地球の裏側から冷凍されたエビが日本に届くようになったからです。そしてそのお金によって、現地のエクアドルでは教育や医療を受けられるようになり、安全な井戸水を得ることができ、そして日本人もワンコインで天丼を食べることができるようになりました。しかしここで「それで本当に良かったのか」ということを考えてほしいのです。

昨今の企業は「私たちはSDGsに貢献しています」ということを会社案内に書くようになっています。このSDGsへの貢献度は、投資信託に組み込んでもらえるか否かに関わり、企業の資金調達に影響するのです。今、どの企業も「SDGs、SDGs」と言い、胸にバッジを付けている人たちは「SDGsに貢献しています」と言います。果たして、本当にそうなのでしょうか。

SDGsの1番目の目標は「貧困の根絶」です。エクアドルの人たちからエビを購入して、日本に輸出している商社はたぶん、「私たちはSDGsに貢献しています」と言うでしょう。私たちがエビを買ったおかげでエクアドルの人たちは、わずかですがお金を得ることができました。目標の3番目の「すべての人に健康と福祉を」では、みんなが病院に行くこともできるようになり、4番目の「質の高い教育をみんなに」では、どこまでが質の高い教育かは別にしても、少なくとも小学校に行けなかった子どもたちが学校に通えるようになりました。6番目の「安全な水と衛生的な環境」では、井戸を掘ることもできました。そして若干ですが、経済成長をしました。エクアドルと日本というまったくかけ離れた國の不平等は、日本人がエビを買うことによって少しは改善されたと思います。

しかし、その後ろ側で森は破壊されました。マングローブ林は伐られていき、温暖化が助長されました。そして台風や高潮などが来て、それまでマングローブ林が守ってくれていた海岸線や住居、周辺の自然環境は破壊されました。引き込んだ海水の中には、小さい魚もエビもプランクトンもいます。この中でエビだけ大きくしようとすれば、エビの保護に抗生物質などの薬品散布や特定の飼育方法が行われ、エビがたくさん捕れる代わりに多の生き物の生物量は減少してしまいますから、海洋生物の多様性は失われました。このように汽水域の海洋環境も、大きな影響を受けたのです。何より問題だったことは、現金が入ったことで、お父さんたちは昼間からお酒を飲んで博打をするようになり、ケンカが絶えなくなって、殺人さえも発生するようになったことです。そしてお母さんたちの負担は増え、終いにはコミュニティが崩壊していくということを、私は多くの村々で見てきました。

…私たちはワンコインの天丼を食べることに罪悪感はないでしょう。しかし、なんの罪悪感ももたずに食べている天丼が、実は地球の裏側では、マングローブの伐採で生態系の破壊を起こし、貨幣経済が急激に入ったために村のコミュニティを消滅させているのです。
仮に、起きたことすべての悪者をエビの商社やバイヤーなどの業者にするとしましょう。そうして「こうした連中が、地球の環境をめちゃめちゃにしたのだ」と思えば済むのでしょうか。実際にはそれぞれにみんなが良かれと思ってやったことです。それが、知らず知らずのうちに地球環境を破壊していったというのが現実なのです。人間の都合だけを考え、自然の都合を考えなかった結果です。環境問題は、基本的にはここに帰結するのだと思います。国連は、SDGsの17目標すべてが重要だと言い、経済と社会と環境の調和をどうつくっていくのかということを、最初に掲げています。つまり、何が良い、何が悪いという問題ではなくて、どこで私たちは折り合いをつけていくのかということです。

何もこれは天丼だけの話ではありません。ハンバーガーのあのパテを作るためには、大量の牛が熱帯雨林の伐採跡地に非常に劣悪な環境下で飼われていて、このエビと同じようにグローバリゼーションの中で集められ、みんなが安いハンバーガーを食べることができています。アイスクリームや多くの食品に含まれる植物性油脂も、オランウータンの棲む森が伐られ、そこに植えられたオイルパームから作られています。…回りまわって最後に、アマゾンやボルネオの原生林が、人間が利用する牧野のために伐られているということが現実に起きています。

確かに最近の社会科の教科書では、SDGsや環境問題に紙面が多く割かれている。しかし、それは「知識」としての紹介でしかない。「課題」の提起でしかない。授業もまた「解説」に終始する。遠い他所の国のできごとであって、知識は無関心で終わる。悪者探しで消えていく。

渋沢さんは「環境問題は心の問題」であると言い切る。

いろいろな環境活動をしたところで、また「SDGsに貢献している」と言ったところで、免罪符をもらっているような気持になってはいないでしょうか。グローバリズムのおかげで、私たちの暮らしは地球の裏側にまでつながるようになりました。満足を知らない人間の欲望が、今日の文明の進歩をもたらした一方で、その結果、この自然が破壊し尽くされた世界を生み出していることに目を向けない限り、地球と共存した経済のあり方というのは決して見つけられないのではないでしょうか。そういった意味で、環境問題の本質は心の問題であると思えてなりません。

渋沢さんは、2012年に国連持続可能な開発会議「リオ+20」でウルグアイのホセ・ムヒカ大統領(当時)が行ったスピーチの一節を引く。

貧しい人とは少ししか持っていない人のことではなく、際限なく欲しがる人、いくらあっても満足しない人のことである(アイマラ族のことわざ)


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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。