『ハンセン病市民学会年報 2005』に、泉潤氏による『ハンセン病報道は真実を伝え得たか』(末利光)の書評「活きつづける光田イズム」が掲載されている。
私も末氏の同書を友人から教えてもらい一読したが、あまりの独断的かつ錯誤と曲解に終始した内容に辟易して途中で投げ出して、処分してしまった。今となってはほとんど記憶にない。
現在、光田健輔論と題して、光田を中心に日本のハンセン病史を検証しており、彼の周辺の人物にも筆を伸ばしている関係で、市民学会の年報も再読している中で、泉氏の書評を読み、小川正子を論じる上で、本意ではないが、末氏の同書も再読するため入手した。
泉氏の書評を読む中で気になった末氏の論理、小川正子や光田健輔の「擁護論」は、20数年を経ても未だに「活きつづけ」、新たな研究者による論文として登場している。本論考においても数人の論文を検証したが、小川や光田の人間性や「献身」を高く評価することで「絶対隔離政策」を肯定する論旨であるか、プロミンも発明されていない「不治の病」であったのだから仕方がないとする「時代的正当性」の論旨であるかである。
私が小川に対して疑問をもつのは、彼女ほどに聡明で誠実で純真な、一途に患者に寄り添おうとする献身の者が、なぜ患者の「実態」に目を瞑り、光田の命に従い続けたのかという点である。光田や国の「絶対隔離政策」の矛盾に気づく立場にいたはずである。
泉氏は、その機会の一つを「長島事件」に求める。重要な部分なので一部を省略して引用しておく。
定員超過が生み出した「長島事件」の背景について、『ハンセン病とキリスト教』(荒井英子)より、少し長くなるが引用する。
当然、このような園の実態や患者の生活苦を小川は知らないはずはない。自らが「楽天地」と宣伝して愛生園に送り込んだ患者がこのように苦しんでいることを彼女はどう思っていたのだろうか。それでも光田の命に従って、「楽天地」と嘘をついて患者を収容して回った彼女を「国策の推進者」と呼んではいけないのか。
私はここでも<目的のために、手段を正当化する>人間を見る。「祖国浄化」「民族浄化」の目的のために、ハンセン病患者を「強制収容」するという手段を正当化する小川は「国策の推進者」以外の何者でもない。
熊本市の本妙寺集落を強制収容した「本妙寺事件」に計画の段階から深く関わった光田健輔は愛生園の職員も派遣している。この職員に宛てた手紙の中で、小川は収容患者を敵役に模して「本妙寺討ち入り」と表現し、小川の養生していた別荘に見舞いに来た元同僚と一緒にハガキを送り「本妙寺のお掃除にお出かけの由、御苦労様」と患者をゴミ扱いしている。
荒井氏も書いているが、本妙寺集落の幹部たちは、栗生楽泉園に設置された重監房に送られているが、重監房が22名もの獄死者を出すほどの苛酷な牢獄であることを知っていたのだろうか。
泉氏が末氏に取材した際に一番聞きたかったという、結核のため愛生園を去った小川がハンセン病患者に対して説いた「病者の徳義」の矛盾を感じていたかどうかについて、実は私も同様のことを思っていた。末氏は小川の日記には「そうした記述はなかった」と返答したというが、非公開にしているため真偽の程は定かではない。
松岡弘之氏の論文『小川正子の晩景-近代日本のハンセン病隔離政策と臨床医-』は、泉氏の疑問に些かは答えを導いてくれるのではないかと思う。松岡氏は「本稿では作品ではなく、小川自身がその作品と行く末どのように捉えていたかという視点から、改めて小川正子という女医の果たした歴史的役割について検討を試みるものである」と述べ、史料として光田健輔に宛てた書簡を用いて、愛生園を離れた後の彼女について考察している。
幾分長く引用したが、愛生園を離れても復職できることを願いつつ患者のことを思う小川の優しさと真摯な献身は、まさしく「善意」であろう。と同時に、小川が光田への信頼と園の運営あるいは絶対隔離政策の間で揺れている心情も垣間見える。
松岡氏は、朝日新聞の記者である杉村武が小川を取材するに際して「『小島の春』を丹念に読めば、一般の読者が感激で読み流してしまうような端々に、小川が愛生園や救癩事業に不満を持っていることが分かる」と指摘したことを光田に書簡で知らせことから、次のように推察する。
私は直接に小川の書簡を目にしていないので何とも言えないが、松岡氏の考察を読むかぎり、『小島の春』が出版され映画化され、関係者の評価によって「一人歩き」し始め、自らのイメージが勝手に作り上げられていくことに不安と不満を抱いていく様子が感じられる。
その反面で、光田宛の書簡で「世の中といふものは妙なもの、私がしゃべりくたびれたら本が出て、本がしゃべりくたびれたら映画になってくれて、まづまづこれで事業としての癩宣伝の効果といひますか、役に立つことヽおもひます。ただ原作者が大変立派な人間だといふ点は大変困るのです」と述べているように、光田の望む「癩事業の宣伝」を果たしていることに安堵している。
私の目的は小川正子を論評することではないので、これ以上の考察はしないが、小川の晩年に際しての光田との関係について、松岡氏の分析を参考に考えてみたい。
松岡氏は、映画を鑑賞した愛生園の患者の感想をもとに、それを読んだであろう小川の心境を次のように推察している。
松岡氏は、晩景の小川正子について、次のように推論して「むすび」としている。
松岡氏は、小川が「深刻な矛盾」に気づいたが解決を見いだせないままに「生命が時間切れを迎えたというほうが相応しい」と結論づけている。私は時間が延びたとしても、健康を取り戻したとしても、たぶん解決は見いだせなかっただろう、否、解決はできなかったと思う。なぜなら、光田健輔に逆らうことはできなかったと思うからだ。たとえ小川が光田に対して意見を述べたとしても、やはり光田はそれを受け流すか、理詰めで説諭することだろう。それほどに光田は頑迷な人間であると私は思う。
小川と長島事件についての考察では、木村巧氏の論文『楽土/ディストピアの言説空間-小川正子「小島の春」におけるハンセン病の言語表象』を紹介しておきたい。この論文で、木村氏は「小島の春」の(本文の)章構成と、時間順(執筆順)の章構成を対比させて、次のように推論する。
あらためて『小島の春』を読み返すと、確かに違和感を禁じ得ない。章と章のつながりだけでなく、「淋しき父母」に読み取れる長島愛生園を<楽土・ユートピア>と強調して語る言葉に、どこか芝居がかった白々しさを感じてしまう。
『小島の春』の原稿は同僚の内田守に託され、長崎出版から私家版として刊行された。元々は西日本各地での検診・収容活動の経過を光田の指示で記録したものを、園誌『愛生』に連載したのが元である。光田や内田の思慮が働いたのか、小川の忖度だったのか。
可能な限り、それぞれの論者が考察した<小川正子と『小島の春』への検証>を読み込んで見えてきたものは、光田と同じ<両義性>と、自らの献身的行為を患者への<善意>と信じて疑わない<頑迷固陋>である。
この徳田氏の指摘は、末利光氏にそのまま当てはまる。つまり、光田健輔の影響と呪縛を受けた小川正子や林文雄ら、そして現在に至るまで続く「光田イズム」を継承する者たち、彼らに共通する自己満足と自己正当化の論理である。
末氏がハンセン病市民学会からの公開質問に対して回答した中に添付された「解答資料」がある。「長島愛生園 真宗同朋会のみなさま」と題した末氏の一文と同様の記事である。手書きの添え書きには「私のハンセン病に対する差別・偏見をなくす啓蒙活動の一端」とある。内容は、遠路長島から小川正子の墓参に訪れたハンセン病回復者の方々を歓迎した顛末を、自らが細かく配慮して準備したことを自画自賛のように書き、それに対するハンセン病回復者の方々の感謝の言葉を並べて悦に入っている。特に強調しているのが、「黒川温泉事件」の二の舞にならないように気配りをホテル関係者やバス会社に入念に確認するくだりである。読む私には、来訪したハンセン病回復者の方々への異常なほどに気を使う姿勢や謙遜した態度を「思いやり」や「優しさ」と勘違いしているようで、滑稽にさえ思えた。
やはり末氏は、「黒川温泉事件」の本質をまったく理解していない。末氏の「差別・偏見をなくす啓発活動」は、小川正子の「癩の宣伝活動」と同質のものである。つまり、あくまでも「救癩側」からの活動であり、視線も立場も「救癩者」からのまなざしである。
末氏の文中に次の一文がある。
果たして、末氏は自らが記した、この一文の意味をわかっているのだろうか。