「重監房」設置の直接の要因は「長島事件」(1936年8月)である。
1931(昭和6)年、従前の「浮浪癩者」を対象とした「法律第11号 癩予防ニ関スル件」を大幅に改定して、在宅を含むすべてのハンセン病患者を収容し隔離することを目的とした「癩予防法」が制定された。この法律が「無らい県運動」が全国規模で展開される契機となった。
この法律制定の背景を田中氏の上記著書より引用しておく。
田中氏はその悲惨な実態を長島愛生園の入所者が記したレポート(1932年ごろ)から抄出して(『隔絶の里程』)例示している。
他の療養所自治会が編纂した記録集(年史)や入所者たちの著書、さらに国賠訴訟での証言などからも当時の療養所内の生活環境がいかに劣悪であったかは明らかである。そのような中で「長島事件」がおこったわけだが、この証言で明らかなのは、医官や職員の患者に対する「意識」である。彼らが患者をどのように見ていたか、患者をどのように認識していたかである。当時の世論や社会通念を反映しているわけだが、要するに自分たちとはちがう「人間」であり、「寄生虫」「国賊」という表現からわかるように「迷惑な存在」として見ていたのである。
以降の詳しい経緯は、長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』を読んでもらいたい。ここでは田中氏の記述から重要な部分と結論のみをまとめておく。
田中氏はこれを評価して次のように書いている。
宮坂氏も『ハンセン病 重監房の記録』に次のように書いている。
「長島事件」の原因は、定員の超過であり運営予算の大幅な不足である。その結果、療養所でありながら不十分な医療、強制的な患者作業の過酷さ、居住施設の不足、職員の横暴さなどが遠因となった。それは光田健輔が理想として思い描いた「大家族主義」の構想が崩壊するに十分な要因であったが、彼は要因を「不良患者」に求めた。
「長島事件」の要因を考えるとき、もし十分な医療施設や医薬品、医師と看護師、居住空間の確保、食糧(配食)の提供、それらをまかなうだけの予算や職員の保障があれば、起こっていなかったのではないかという思いがある。それは現在の療養所の実情である。少なくとも、私が初めて訪れた数十年前には医療施設・生活環境としては充実しているように感じたが、それは戦前からの患者の闘いの成果であるのだが…。
事実、心ない声も多く聞いてきた。何もしなくても三食食べられて、無料で治療も受けられて、衣食住が保障されているのは、我々の税金である。衣食住の心配もなく、好きなことをしてのんびり余生を送れるなんて…。昔は島から出られなかったけど、今はどこにでも行ける自由もある。恵まれた老後だ。…そんな声の主は療養所に行ったこともない人間ばかりではなかった。怒りを通り越して虚しさを感じてしまった。
では、あらためて「長島事件」に象徴される問題点は何であったのだろうか。
光田健輔が東京養育院時代から目にしてきたハンセン病患者の悲惨な姿を救いたいという憐憫の情、ハンセン病を根絶したいという医師としての使命感は賞賛と尊敬に値する。人並み外れた情熱により「救癩の父」と呼ばれる所以は確かであると思う。
しかし、それは宮坂氏が言うように、彼が生きた時代の影響を受けた、明治の家父長制を理想とした「大家族主義」であり、それが光田の<パターナリズム>に帰結であったこともまちがいないだろう。
光田の献身的な「働き」と情熱が強ければ強いほど、それに反対する考えや反抗する態度への容赦ない「弾圧」が正当化され、過激化していく。光田には、「これだけしてやっているのに…」という思いが強かったであろうから、自分に反抗する患者たちに対しては「憎悪」へと転化したのだろう。権威や権力をもつほどに独善性と独断性は増していった。
私は「長島事件」の元凶は、光田の思い描く理想像が「机上の空論」であり「砂上の楼閣」に過ぎなかったことであると考えている。すべて光田の脳内で夢想された「設計図」「構想図」でしかなく、他者の言葉に耳を貸すこともなかったであろう独善性と独断性が招いた悲劇と思う。
ハンセン病を感染力の強い恐ろしい病気と喧伝することで、その恐ろしい不治の病の根絶に立ち向かう医師としての自分を演出し、周囲からの賞賛と尊敬、権威という称号を得ることを望んだのではないだろうか。彼のコンプレックスが生み出した「立身出世」であり、登り詰めた地位と権威を守るために、患者に無理を強いたのではないだろうか。
また、国家や政府も光田という都合のよい医師を必要としていたのだ。
澤野雅樹氏の『癩者の生ー文明開化の条件として』の一文である。(彼の光田批判については参考となる指摘が多いが、別項で取り上げたい)
繰り返すが、「長島事件」は起こりうるべくして起こった悲劇である。今更ながら、その無計画としか思えない「癩の根絶計画」、特に収容人数と予算額、職員数、収容施設と治療施設、それらすべてが不足するような、さらに「無らい県運動」による収容患者の激増などがまったく予測されていない。準備不足も程がある。だが、それはハンセン病患者を「患者」と見なした場合であって、患者を「排除・排斥」「隠ぺい・隔離(隔絶)」の大正としての「収容者」と見なせば、詰め込むことも、食糧不足、医療放置も問題ではなかった。なぜなら「絶滅」が目的であるからだ。この認識が「寄生虫」「国賊」等々の患者観に表れている。
「長島事件」が光田健輔に与えた影響は大きい。彼自身の患者観も大きく変化しただろう。彼の独善性はさらに強固になり、患者を自分に忠実な者と反抗する者とに二分化する考えは決定的となったであろう。