<特別病室事件>再考(11)
「特別病室(重監房)」や栗生楽泉園の患者虐待の残酷さに眼を奪われていたが、確かに戦国期から江戸時代、そして戦前までの社会を概観すれば、暴力による民衆支配から、「躾け」と称する体罰に至るまで、暴力による他者支配の論理(方法)は人々の意識に根深く影響は浸透していた。暴力は支配や圧服の「手段」として肯定されてきた。
暴力が否定された現代において「特別病室」事件は異常な光景に映る。だが、それは「時代的正当性」で片付けられるだろうか。では、ロシアによるウクライナ侵攻やガザにおけるハマスとイスラエルの戦争、世界中に頻発している内戦などで起こっている、敵と見なされた住民に対する「拷問」や「強姦」「掠奪」「殺害」等々はどうであろうか。強者が弱者に対する無慈悲な仕打ちはどうであろうか。
我々は、昔に起こったことや遠い国で起こっていることを無関心な眼で見ている。自分には関係ないという思いが頭のどこかにある。他人事の感情が日常生活の中で当たり前となっている。自分の身に降りかかることはないと平安な日々によって思い込んでいる。しかし、ここ最近頻発している「闇バイト」による強盗事件はどうであろうか。指示役はまるでプーチンであり加島であり、実行役は“手兵(世話役)”であり兵士である。普通の青年が「目的」(金)のために凶暴化していく。
決して遠い国のことでも、昔のことでもない。誰の中にも「残虐な悪魔」が潜んでいるのだ。相手を「関係の無い人」「敵」と見なせば、目的のためにはいかなる「手段」も正当化されてしまうのだ。
沢田五郎さんの『とがなくてしす』に感銘を受けた一文がある。弱者の本心を知った思いがした。
これが光田健輔や厚生省官僚が創り上げてきた「絶対隔離政策」の真実である。どれほど詭弁を弄しても自己正当化を図ろうとも、これが患者の本心である。患者にこのような思いを抱かせての「救癩の父」であり「文化勲章」である。患者を「殺意」で抑圧し、「犠牲」を強いていただけである。
営繕主任の渡辺は青森・松丘保養園に、分館長の太田信男は東京療養所に転出させられ、矢嶋は当園に矢嶋以外に外科医がいなかったことから辛うじて追放を免れたと『風雪の紋』に書かれている。園長古見嘉一は、休職後依願免官となり、1950(昭和25)年に邑久光明園に一医師として就任して34年に死亡するまで働いている。
なお、古見の後は技官の玉村が園長に就任していたが、1949(昭和24)年3月再び厚生省に戻った。その後に矢嶋良一が昇進して園長に就任している。後任には小林茂信が外科担当医官として着任している。
では、「特別病室」はどうなったか。沢田五郎さんによると、鈴木義夫が獄死した1946年以降は長期による収監者はなかった。そして1953年には建物は完全に倒壊していた。(『とがなくてしす』)。『風雪の紋』によれば、1953(昭和28)年に、矢嶋ら施設当局によって、まるで証拠湮滅を図るかように「特別病室」は取り壊されている。
ただし、沢田さんによると、「倒壊は自然倒壊だった」という。「お粗末な造りで、鉄筋もほとんど入っておらず、木骨だった」らしい。三井報恩会の寄付の一部で、草津の業者によって建てられたというが、相当に手抜き工事であったと思われる。
「三園長証言」の前、1950年2月15日、第七回通常国会衆議院厚生委員会に、光田健輔、林芳信とともに矢嶋良一も出席して、らい療養所の現状について証言している。
矢嶋はこれ(光田の発言「憲法発布以来、懲戒検束も取り消されて制裁はほとんどできない状態、無防備の職員にとっては危険」)を補足して、殺人事件(「一・一六事件」)の被害者三人の入所を認めなければよかったが、空床があったので断れなかった上に、懲戒検束もないので監禁できなかった。らい刑務所は必要と訴えた。
「一・一六事件」とは、栗生楽泉園で起こった殺人事件であるが、その要因は三名の新規入所者がヤクザ擬いの乱暴者で他の患者に多大な迷惑をかけていたため、また在日朝鮮・韓国人の親睦団体(協親会)の内部対立もあり、堪り兼ねた患者たちが自衛のため、逆に三名と彼らに与する数人を襲撃して殺害した事件である。
確かに「一・一六事件」の背景(要因)などを考えれば、光田や矢嶋が「懲戒検束」「らい刑務所」を求めることも当然だろう。では、何が問題なのか。
それはハンセン病患者を一般の人々と同等に司法当局による「裁判」がなかったことである。当時は、警察では、犯罪者の逮捕をおこなう中で、それがハンセン病患者とわかれば、取調も起訴もせず、直ちに療養所に送致した。療養所では、犯罪者であろうと患者であれば受け入れるしかなかった。それが「癩予防法」であった。
光田健輔の「絶対隔離政策」ではすべてのハンセン病患者を療養所に入れて隔離する。そのため中に犯罪者も粗暴な者も入ってくる。そのために、園長に懲戒検束権を与え、療養所に監禁所、栗生楽泉園に「特別病室」を設置したのである。
この短絡的発想の元凶は、光田による「ハンセン病は感染力の強い、恐ろしい伝染病」という間違った知識の喧伝であり、それを修正しなかったことである。この喧伝によって人々は「無らい県運動」に積極的に参加し、浮浪患者のみならず在宅患者も収容することができた。だが反面で、それにより警察も裁判所も引き受けることを放棄した。まさに「諸刃の剣」であった。
なぜ「裁判」という人権救済の砦をハンセン病患者に適用しなかったのか。このことからも「絶対隔離」=「ハンセン病患者の絶滅」が見えてくる。だから監禁所よりも残酷な「特別病室」を設置したのである。「殺してもかまわない」方針、むしろ「排除」することで園長として運営しやすい状況をつくることが目的であった。
だが、その裁判でさえ通常の裁判とはことなり、明らかに「冤罪」と思える事件で、一人のハンセン病患者が死刑に処された。「藤本事件」である。これについても後に検証してみたい。
「不良職員問題」は上記のような処分で終り、誰一人「刑事罰」を受けることなく幕を閉じた。では、それ以外の「不正問題」などはどうなったのだろうか。
私は「人権闘争」の過程を追いながら、かつて部落問題において「全国水平社」が結成され、戦後に「部落解放同盟」に継承された流れを想起する。社会から排除・排斥され、差別と偏見に苦しめられてきた部落民が自らの存在に誇りをもち、社会(差別する者)に対して毅然とした態度で闘いを挑んでいった。社会的弱者が権力をもつ者からの抑圧を跳ね返した。
我々が学ぶべきは、社会を変革するために何が必要であるか。差別や偏見を解消するには連帯と行動であり、抑圧に屈しない姿勢である。