「増長」と「ねたみ意識」
解放令反対一揆を考察するキーワードはいくつかある。その一つが「増長」である。上杉聰氏の新装版『部落を襲った一揆』の中でも,部落を襲撃する理由として繰り返し農民の口を衝いて出る言葉が「増長」である。
この「増長」について考えてみたい。
「増長」を辞書で引くと
①次第にはなはだしくなること。だんだんひどくなること。
②次第に高慢になること。つけあがること。
と説明がある。つまり,生意気・傲慢・高慢・横柄な態度や言動を指す言葉である。
「増長」は,以前と比較しての表現である。
では,被差別部落の何が,どのように,以前と比べて「増長」と思えるようになったのだろうか。
「増長」は,他と比較しての表現でもある。
では,被差別部落の何を,どのように,誰と比べて「増長」と思えるようになったのだろうか。
「増長」は,受け取る人間(の側・立場)の感覚や意識に左右される。つまり,自分自身との比較によっても生まれる感情である。被差別部落を自分と「比較する対象」と意識しなければ,それほどには生まれない感情である。
それは,被差別部落の立場や状況(身分,生活環境,経済状態など)に大きく左右される。被差別部落が自分と比べて,身分などの社会的地位や立場が全く相違(社会外)しているか,低位にあるか,生活環境が劣悪か,経済的に困窮しているか等々の場合,自尊心が傷つけられることはなく,むしろ優越感のゆえに余裕さえもって彼らを見下すだろう。
また,彼らが自分たちとはまったく「異なる社会集団」である場合,彼らが経済的に富裕であろうとも,比較する対象とはならないため意識する必要を感じない。
しかし,被差別部落が「同一社会」「同一身分」という同じ社会に位置づけられて「対等の存在」となったとき,比較の対象となる。そして,生活環境や経済状況が比較されるとき,劣等感や被害者意識を強烈に自覚させられることになる。
劣等感は,その格差に比例して嫌悪と憎悪を増幅させる。惨めさは,相手への「妬み」となり,攻撃性を正当化する。「増長」と受けとめる感覚の背景に,自らの惨めさと相手を妬む心が隠されている。惨めであると思い知らされるほどに,妬ましく思える。
このことは,部落問題の本質的要因というだけではなく,人間の生き方・在り方の問題として,現在もある。
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『自分以下を求める心』という素晴らしい道徳の教材がある。
あれは、小学校二年生のことです。私たちのクラスに、よくいじめられる女の子がいました。私も、他の人たちと一緒に、いじめては笑っていました。その頃の私の気持ちは、「自分以下の存在が欲しかった」のだと、今になって気づきます。あの時あの子が、もし自分だったらと思うと、今までいじめた人に対して,あやまらなくてはなりません。
自分をみがく努力もしないで,ただ自分以下が欲しいだけでいじめるのは,やっぱり差別ですね。いろいろな差別について,たくさんのことを勉強してきた私ですが,実際の生活ではそれをまるで生かしていませんでした。なんか今,考えてみると,「なぜあの時,あんなことをしたんだろう」と思ってしまいます。
思っているだけ,悪いと知っているだけでは,すぐポロッと言ってしまって相手を傷つけたり,がっかりさせたりしてしまいます。
どうして私はこうなんだろう。やっぱり,自分以下が欲しいという気持ちが心の底にあって,それが作用しているのでしょうか。
私は,自分以下がいらない人間になりたいです。そのために自分の生活にまじめにぶつからなくてはなりません。こう考えてくると,ひとのことを,とやかくいわない生き方は大切なことなんですね。立派な人の証明なんですね。身のまわりを見ても,努力しない人ほど,他人を傷つけたり,とやかく言ったりしています。まるで魅力のない生き方ですね。その中に私もいるかと思うと,恥ずかしくなります。
自分以下などいらない生き方をつかむことが差別やいじめをなくすことだと,だんだんわかってきました。
学校でやっている「自分新聞」や「生活の記録」,これなども,何枚も何冊も挑戦している人は,他人のことなどイヤミをいっている暇はないですからね。
私たちは,得意もあれば不得意もあります。すべてをかっこよくやることはできません。だのに,人の小さな欠点を探し出して,いじめたり,自分をすぐれていると思い違いしたりするのは,恥ずかしいことですね。ねっ先生,とっても恥ずかしいことですね。
私は今まで,人間として恥ずかしい生き方をしてきたのです。何べんも,何べんも,まちがったことをしました。
だから,他の人が私をいじめた時,そのまちがいがはっきりわからなかったのです。
生徒の作文をそのまま教材にしたものだが,この教材と出会って以来,私は人権学習・部落問題学習の教材として様々にアレンジしながら授業を行ってきた。
その当時の指導案に「主題設定の理由」として書いた拙文を載せておく。
【人間は,人のこと,遠くのことに対しては美しくいられる。美しい言葉を語ることもできる。でも,近くのこと,自分自身の問題になると,あれほど美しい言葉を語った人が見事に差別者になっていく】
1 本資料に描かれた思いは,誰の心の中にも潜んでいる。辛いとき,人はもっと辛い思いをしている人をさがす。苦しいとき,人はもっと苦しみのどん底にいる人を思い,自分を慰めていく。自分は,その人たちより,まだましなんだと思う。そして,自分を守るために,自分を慰めるために,その人たちをより見下げ,虐げ,差別していく。
2 この思いは,本校の生徒たちの日常にも如実に現れている。テストがもどってきたときその点数が悪くても,自分より点数の悪い生徒を見つけ,ほっとする。また,生徒がよく口にする言葉に「ぼくだけではない」「私よりあの人の方が…」がある。
さらには,級友の失言やまちがいに対しても,嘲笑的な冗談が発せられることがある。また,一方で生徒の多くは,道徳や学級活動の中で,「差別はいけません」「友人や仲間を大切にしよう」と語っていく。
このことは,差別や偏見に対して道徳的・道義的には「いけない」という認識を持ちながらも,その認識があくまでも常識的・知識的な理解でしかなく,自分自身の問題や課題であるという意識にまで高まっておらず,他人ごと,あるいは建前という捉え方でしかないことを露呈している。換言すれば,生徒の日常生活においての行動が他者志向的であり,価値観においても相対的にしか育っていない現実を示している。
この格差こそが,「いじめ」に代表される様々な問題の背景であり,生徒の人間関係の希薄さや歪みを生み出していると考える。
3 人間は,生きていく中で,自分より劣った存在を見つけては安心していく。人間は差別することがよくないと知っていても,その心の中には「自分以下を求める心」を持って生きている。自分以下を求めないと生きられない,そんな愚かさに気がつかずに生活している。
そこには,苦しいことや,嫌なこと,辛いこと,悲しいことから逃れたいという思いがある。しかし,嫌なことや辛いことを,人と比べて慰め,諦める生き方では,人間は自らの差別意識に気がつかないばかりか,知らず知らずに差別者となっていく。
本資料は,人を差別するということは,自分自身を差別していることになることを教えている。
4 この資料を学習する中で,生徒一人一人に,自らの日常生活を点検することを通して,「自分以下を求める心」が自分の他の人に対する見方や自分の生き方の中にないか,自分の心を見つめさせたい。
「自分以下を求める心」とはどんな心か,そしてその心が差別とどう関わっているのかを考え,さらにその心に気づかないことが差別を残してきたことにつながっていることを考えさせたい。
また,「自分以下がいらない生き方」を考えさせることで,人間として素晴らしい生き方とは,自分たちの心にある「自分以下を求める心」(差別意識)と闘い続け,今の自分以上をめざし,自分の力でまちがいを正しながら生きていくこと,自分を大切にするように仲間を大切にすることであると気づかせたい。
以上の理由から,本主題を設定した。
誰の心の中にもある一方の人間心理について鋭く気づかせてくれる。自分には劣等感などない,自分には卑下することなど何もない,と否定しても心の奥底には「自分以下を求める心」は隠れている。
「学歴」「職歴」「収入」「社会的地位」「容姿」など,他者との比較の中に「自分以下を求める心」は存在する。いかなる理由をこじつけようとも,それらは惨めな劣等感を隠蔽するための方便でしかない。
「自分以下を求める心」が「ねたみ意識」と結びつき,その反動で「自分はこんなにもできるのだ」と人からの評価をより強く求め,自己満足を得るために執拗に他者を攻撃する。
この歪んだ心理は,解放令反対一揆において部落を「増長」しているからと,執念深く「詫び状」を要求し,それを拒んだ部落民を残虐に殺した農民と同じである。
「増長」と思う心は「自分以下を求める心」であり,自らを「被害者」と思う心は「ねたみ意識」であり,異常な攻撃性を正当化するための欺瞞である。
部落差別の解消には,社会的・制度的な変革も必要である。知識・認識の誤謬を改めることも必要である。だが,それ以上に必要な改革は,人間の自己変革である。
自らの意識の中にある「自分以下を求める心」や「ねたみ意識」「攻撃性」などを変革することである。