『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』(無らい県運動研究会)所収の徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」を参考に、小川正子と『小島の春』が果たした役割をまとめてみたい。
<ハンセン病問題に学ぶ>ことは、過去のできごとを<歴史>として学ぶことではない。その<歴史>の中に潜んでいる、決して繰り返してはならない「原因(要因)」と「意図(思惑)」を学ぶのである。過ぎ去ったことと振り返ることなく見過ごせば、同じことが再現されていることは多い。
上記の一文の「註」として、徳田氏は次のように書いている。
※ 市民団体による憲法劇「ドクター・サーブ」の中で、アフガニスタンのハンセン病患者の人々が人間以下の存在であるかのような悲惨な描写であり、崇高な使命感をもった医師による、救済の対象という印象を強く抱かせるもので、ハンセン病患者への差別・偏見を助長するものではないかとの物議がおこった。
差異を強調する方法の一つに、一方を極度に高めるために、他方を極端に低位に置く手法がある。「ドクターサーブ」だけでなく、このような手法はよく見られる。どこに主眼を置くかではあるが、安直な方法である。事実や実際よりも誇張して表現される場合が多い。これ一つにしても、過去から学ぶことの意義はある。小川や中村の「善意」を強調したい意図はわかるが、表現によって「悪意」に転じることもあるのだ。
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徳田氏は、『小島の春』の世界が、無らい県運動の成功に果たした役割を、次の2点に要約できるという。
光田の「隔離政策」の基本構想は、1915年に内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」で提言された「孤島隔離論」に認めることができる。
徳田氏は光田の考えを次の2点に要約する。
続けて徳田氏は、光田が「楽天地」構想を「大家族主義」へと深化させ、「隔離によって生じる家族との別離に代わっての大家族の提供という論理」による「救らい思想」を展開したと述べる。
ハンセン病を根絶する目的を達成するためには、ハンセン病患者を「絶対隔離」することで「癩菌」の蔓延(感染)を防ぎ、「癩菌」保有者であるハンセン病患者がすべて「死滅」(死亡)することを期して待つ。「絶対隔離」のために「強制収容」を行う。そのために法整備と警察権力の動員が必要であり、患者とその家族および地域社会の「理解」が必要であった。「理解」と「協力」のために、ハンセン病を「遺伝病」ではなく「伝染病」であり、強力な感染力をもつこと、療養所が「楽天地」であること、療養所に入所することが患者本人だけでなく家族や地域社会、国家にとって最善の方法であること等々を宣伝(啓発)する必要があった。
宣伝により、患者やその家族にとっては地域社会からの偏見や差別はさらに耐えがたいものとなり、逆に地域社会や住民にとっては「感染」の恐怖が増大することで即刻の「排除」を願うものとなった。「排除」「強制収容」を正当化する論理が「救らい思想」であり、「楽天地」である療養所であった。だからこそ「無らい県運動」が全国的に拡がり、各地の住民が「患者狩り」に主体的に参加することができたのだ。
実に巧妙な「手法」であり、何よりも住民自身は少しの良心の呵責はあったであろうが、「加害者」という意識はほとんどなかったであろう。むしろ「通報」することで「楽天地」での生活を患者に勧めることができたという「善意」の自己満足を得ていたようにさえ思える。
徳田氏は、国賠訴訟の熊本地裁判決(勝訴)で「日本のハンセン病隔離政策を憲法違反であると断罪し、無らい県運動がハンセン病に対する偏見と『患者』家族への差別の元凶となったことを厳しく批判したが、その運動の担い手としての社会の側の責任に触れることはなかった」ために、「その排除を導き正当化してきた社会(住民)の側の病根は温存されたままで経過することになった」という。そして、「熊本判決の翌年に熊本県黒川温泉で発生した宿泊拒否事件」が「無らい県運動を支えた住民意識が、今なお強固に残り続けていることを明らかにした」と、「無らい県運動」によって住民の中に形成された「排除の正当化」という意識が残存していることを指摘している。
この「病根」は、ハンセン病問題だけでなく部落問題など、今も日本社会の中に根深く残存している「差別意識」であり、「排除の正当化」である。