光田健輔論(18) 建て前と本音(3)
近藤祐昭氏の『ハンセン病隔離政策は何だったのか』と題した論文について検証している。
断っておくことがある。近藤氏は部落問題を研究および活動の対象としているそうだが、私は彼の部落問題関係の書籍を読んではいない。また面識もない。たまたま、ネット上で近藤氏の書かれた本論文を目にして、その論旨と展開に疑問をもったので反論を書いているが、近藤氏個人への批判のつもりはない。他者の著書や論文などを<批判検証>と称して、その内容よりも著者の人間性や人格の非難に終始する者もいる。しかも曲解や歪曲によって自説の正当性を主張する。私にはそのようなつもりは一切ないことを言明しておきたい。
最近のハンセン病問題に関する研究の方向性に少なからず危機感を感じていることから、近藤氏の本論文を通して、私の危惧する問題について私見を述べておきたいと考えたからである。
近藤氏が本論文における光田健輔を擁護する根拠としている犀川一夫氏に関して整理しておきたい。
近藤氏が引用されている犀川氏の著書『門は開かれて』であるが、「あとがき」によれば、昭和63(1988)年に脱稿していることから、「らい予防法」廃止(1996年)以前の執筆であり、全国癩療養所患者協議会(その後、全国ハンセン病患者協議会に名称を変更、現在の全国ハンセン病療養所入所者協議会)を中心に「らい予防法」廃止の運動が活発化する以前に書かれている。
本書は、犀川氏の自伝であり、ハンセン病の専門医としての歩みを実直に振り返って書かれている。詳しい内容はいつの日にか紹介したいが、ここでは近藤氏が光田の人間性、患者に対する深い愛情を示していた(近藤氏の言う<本音>)根拠とする犀川氏の光田への「評価」を検証してみたい。
上記引用箇所は、近藤氏が引用している箇所の前段にあたる部分で、犀川氏の光田健輔に対する率直な人物評価である。同様のことは、犀川氏の『ハンセン病医療ひとすじ』にも、国賠訴訟における証言(『証人調書③犀川一夫証言』)にも書かれている。
犀川氏の光田への思慕の念と感謝の思いが伝わってくる。私も光田に対する患者の相反する感情を幾人からも聞いた。確かに光田健輔は両極端の感情を人に抱かせるだけの「大きな器」の人物であり、ハンセン病根絶への熱意と自負心は人一倍であったと思う。
光田への両極端の評価を大別すると、一方は、ハンセン病根絶にかける熱意、研究と治療への情熱に対する尊敬の念、患者に対する温情的な対応への敬服であり、他方は、光田の<絶対隔離>への固執による犠牲となった患者や光田の意に反したことで容赦ない苛烈な対処を受けた患者の怨嗟である。
人間はどれほど「温情豊か」であっても、「冷酷」なことができるのだという事実を、近藤氏はわかっていないように思う。近藤氏は、「時代社会の持つ大きな制約」に責任を転嫁して、その中で「矛盾葛藤を抱えてハンセン病隔離政策」を推進してきた光田健輔を擁護しようとする。それは、近藤氏の藤野豊氏に対する批判に表れている。
この部分を藤野氏の著書『「いのち」の近代史』より引用する。藤野氏は、まず犀川氏の著書『門は開かれて』と『ハンセン病医療ひとすじ』における光田健輔の人物評価(人間像)を引用し、その上で次のように述べている。
藤野氏は、犀川氏が光田健輔の愛弟子であり、光田に対して尊敬の念を強く持っていることを認めた上で、さらに犀川氏が隔離政策に対して反対の立場であることも知っている。つまり、犀川氏の光田健輔への感謝と思慕、実際に目にしてきた患者への温情的な対応から感じられた光田の人間像と、にもかかわらず<絶対隔離政策>に固執する光田の姿を「理解に苦しむ」「残念なことである」と言いながらも整理できていない犀川に「大きな矛盾」があると指摘したのであって、近藤氏の藤野氏への批判は当てはまらないと、むしろ犀川氏の一文から強引に光田擁護論を展開しているようにさえ思える。
しかし私にはそのようには思えない。戦前の日本の時代社会の持つ大きな制約の中で、多様な矛盾葛藤を抱えてハンセン病隔離政策は生み出されていったし、また矛盾葛藤を抱えながらその運用はされていった。そうした隔離政策の見落としてはいけない一面を犀川氏は述べているように私には思える。
「思う」のは勝手であるが、批判するのであればもう少し調べてから述べるべきである。藤野氏は犀川氏を十分に評価している。近藤氏が引用する藤野氏の一文の間に、次のように犀川氏を評している。
藤野氏が「理解できない」と言っているのは、犀川氏の光田健輔への人物評価である。近藤氏は犀川氏の評価を「時代社会の大きな制約の中で」「患者を愛しながらも」隔離政策を推進せざるを得なかった光田の「矛盾する多様な面」として仕方がなかったのだと擁護しているように思える。
繰り返すが、どれほど人間的に立派と思われる人間でも、感情的あるいは自己正当化において他者に対して人権無視の残虐な行為をなすことができるのだ。光田の自伝的回想録や論文、座談会において<人権>を無視する記述や発言は多い。私も光田は「患者の人権など眼中になかった」と断言できる。
近藤氏は、光田の人物評価と彼が行ってきた行為とを混同している。まるで、こんなにも患者のことを愛している光田健輔が患者の人権を侵害するようなことはしないだろう。隔離政策は<建て前>として行うしか国を動かせなかったのだ、「時代社会の大きな制約」があったので仕方がなかったのだ、と思える。それは明らかな詭弁である。「時代社会の大きな制約」の責任にして光田健輔の責任を回避する論法で、同様に「部落問題」も片付けるのだろうか。
犀川氏の大きな転換期は、プロミンの出現である。
犀川氏は、1953年にインドのラクノー市で開催された国際らい会議に出席した。
犀川氏はこの会議出席と、その後にインド各地の療養所を訪ね、先駆的な医療を視察し、国際的に著名な医学者に話を聞き、外来治療の必要性を痛感する。
犀川氏の報告を興味深く聞きながら、それでも光田は退官するまで犀川氏の「外来治療」の提言に何も答えなかったという。犀川氏は引退を心に期していたゆえに、「新しい計画や事業は、後任の園長に任すとの決意を固めて」いたからだろうと推察している。だが、公認の高島重孝園長にも受け入れられず、犀川氏は愛生園を辞任した。退官の挨拶に光田を訪ねた犀川氏に、「やはり在宅治療のため、海外に出掛けるか。私も頑固だが、君も頑固だね」と送り出してくれたと、『ハンセン病医療ひとすじ』に書いている。
最後に、近藤氏が「付記」に書いていることに言及しておく。
私は逆に近藤氏に問いたい。藤野氏や德田氏を批判しているが、彼らが根拠としている光田の「人権無視」を否定できる根拠を示してほしい。犀川氏の人物評価を根拠にした、あるいは軽快退園を認めていた、さらに<建て前>と<本音>の使い分けなどは根拠とはなり得ないと私は思う。
光田の「人権無視」や「非人道的」な対応(「断種・堕胎」「胎児標本」「解剖承諾書」「特別病室」など)は枚挙に遑が無いが、一例を挙げておく。近藤氏が藤野豊氏を批判した一文(「患者の人権など眼中になかった」『「いのち」の近代史』P73~74)を含めた箇所である。
長く引用したが、当然、近藤氏はこのか所を読まれているはずである。それでも「根拠」には不足だというのだろうか。
藤野氏は、相反する光田健輔への評価に対して、次のように述べる。
感情論からの光田讃辞で終わればそれもあるだろうが、さらに光田の行った<絶対隔離>政策に関係する「断種・堕胎」「特別病室」なども含めて「時代社会」の制約があったので仕方がないなどの擁護や弁護をすることで、国家による人権蹂躙の黙殺まで正当化することは決して許すことはできない。