「死体の塩漬け」
少しグロテスクな話になるかもしれないが、時代のちがいは制度や法のちがい、認識や価値観のちがいであることを理解してもらうために、あえて紹介する。と言うのも、歴史のできごと(史実)を判断する際に、ともすれば現代(現在)の価値観・感覚で捉えてしまいがちである。その結果、とんでもない勘違いや思い違いをして解釈してしまう。
最近読んだ2冊の本(藤野裕子『民衆暴力』、横山百合子『江戸東京の明治維新』については後日詳しく述べてみたい)はその点に留意して再認識しようとしていて興味深かった。
-----------------------------------
武藤庄右衛門召仕幾右衛門死躰焼疵有之,見分六ヶ敷相成,多久原村庄や・村役人両人しらへ有之,段々乃延引候由,扨又右死躰下目付・小城郡方立会にて塩漬に相成,佐嘉籠屋差下候段申来候事
(武藤庄右衛門の召仕幾右衛門の死体にやけど疵があるというので,見分が簡単にすまなくなり,多久原村の庄屋や村役人の調べがあって,だんだん長びいているということである。また,右の死体は下目付・小城郡方役の立会で塩漬にして,佐賀の牢屋まで運ぶように言ってきている)
この史料は,『佐賀部落解放研究所所報』(第22号 1992年2月)掲載の「古文書の中から」で引用・考察されている「多久家『日記』」の明和3年(1776年)6月8日の記述である。
以下,簡単に「解説」をまとめておく。
史実を簡単に言えば,武藤庄右衛門の女房を,召仕の幾右衛門が殺した。本人も自殺を図った。多久家側は,家中の武士に関係することであったからか,内済ですませたいという心づもりであったが,本藩から役人が出張ってくることになった。見分が終わり,許可が出るまでは死骸を引き取ることもかなわない。しかも,死体が焼けている。おかしいということで,幾右衛門の出身地である多久原村の庄屋や村役まで呼び出され,取り調べは長びいた。6月は,今の暦で7月になるから,死体をそのままにもできず, 塩漬にして保存することになった。
死骸にこのような処置をするのは珍しくなく,生首なども遠くまで運んだり,長く保存する必要がある時は,首桶に塩を詰めて腐敗を防いだ。こうした場合,実際の塩漬作業にあたるのは穢多身分の人々である。
本藩のとり扱いとなれば,佐賀から,穢多頭助左衛門の配下が派遣されて塩をあてたようである。どの地区でもそうした技術は持っており,現地の穢多身分の人々が代わりに作業することもあった。
やがて幾右衛門の塩漬は佐賀へ運ばれるが,持ちこまれたさきは佐賀城下の牢屋,助左衛門の居住する被差別部落である。この保管場所もきまったはなしで,小城鍋島家の例では,裁きの決着のつかない囚人の死骸を,3年間も小城の被差別部落に置いたままにしている。
幾右衛門の死骸は,その年の暮れに判決がくだり,磔に処されることになった。12月10日に嘉瀬の刑場で行われた。江戸時代,罪はあくまで罪で,骸になっても犯した罪はつぐなわなければならなかった。
事件に関連しての費用であるが,すべて犯人の一族の負担であった。今回の例では,幾右衛門の一族と多久原村で折半している。その額は銭450目(匁)であり,塩漬保存などで余計な費用がかかったと思われる。
この史料や解説などから,穢多身分が担わされていた役目は,行刑や死体の取り片付けなど一言で済まされない内容であったということがわかる。
死体の運搬と保存,行刑の準備と処刑実行,取り片付け等々は詳しい内容があまりにも(現代から見て)むごいものとの印象を強くするため,語られなかったと思われる。そんなことを「させられていた」という印象ばかりが強調されて,賤視観が強まるからだ。
しかし発想を換えてみれば,江戸時代と現代では刑法の内容や意味づけも異なり,何よりも倫理観や人間観(人権といってもいい)、価値観が違う以上,いくら「むごく」「残虐」に思えても,それが当時の社会である。その認識に立って,史実をどう捉えていくかだと思う。
穢多身分に「させた」を強調して,「させた」権力者(幕府・藩・武士)を「差別者」と捉えて批判するか,「させられた」穢多身分を「かわいそう」と捉えて憐れむか,であってはいけないと思う。誰かが「悪い」という発想ではなく,その時代の社会意識を的確に考察し,差別とは何であるかを考えていくべきだと思う。