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近代社会と部落問題

黒川みどり氏の講演録『つくりかえられる徴-近代社会と部落差別-』をもとに,近代社会における部落差別の特質と変容について整理してみたい。

(1)「解放令」前後
黒川氏が使用する「徴」という概念とは何か。黒川氏は,【「徴」は差別する側が自己を不問にして,「他者」に特徴を見いだし,差別のために作り出すもの】であるという。
つまり,差別をするための「根拠」「理由」を「徴」と表現している。それは,差別する側と差別される側との「ちがい」であり「線引き」「区別」でもある。

「徴」は差別する側が創出するものであり,差別される側に一切関係ないことは当然である。「徴」は,「同じである」ものに「ちがい」をつけたいと思う側が創り出すものであって,「ちがい」が明確な場合には「徴」を創り出す必要もない。つまり,「徴」の不合理性と不当性を明らかにすることは,「ちがい」がないことの証明であり,差別の根拠や理由を否定することになる。
人権の発達史あるいは差別克服の歴史とは,「徴」すなわち差別の根拠を否定し続ける歴史であると考えられる。それゆえ,黒川氏は「徴」は「つくりかえられる」ものであり,差別する側によって「つくりかえられて」きたというのである。差別の否定と克服がなされなければ,「徴」が「つくりかえられる」必要はないからである。

江戸時代,身分という「徴」はつくりかえられることはなかった。明治まで身分制制度が消滅しなかったからである。身分という「徴」に新たな差別の根拠が付加されたり強化されたりすることはあった。「徴」そのものを正当化するために新しい「徴」が付け加えられることもあった。差異を探し出したり,差異を価値付けたり,恣意的な意味を付与したりすることもあった。しかし,身分に代わる「徴」は必要がなかった。
差別は,差別する側の一方的な「基準」によって,差別される側に「ちがい」をラベリングすることである。それが「徴」である。

差別に対立する「反差別」は,「徴」の不当性と不合理性を明らかにすること,すなわち「差別の論理」を否定することである。差別の目的は「排除」であり,「排除」の正当性のために「根拠」を必要とし,その根拠を具現化したものが「徴」である。

江戸時代は,封建的身分制度の時代である。「身分」という「生まれながらの線引き」によって「賤民身分であるか否かという区別」がなされていた。しかし,「解放令」によって「身分という線引き」が廃止されたにもかかわらず,今日に至るまで社会の側がそういう区別,線引きをすることによって差別してきたのはなぜか。黒川氏は,その要因を次のように言う。

…一つには,封建的な身分差別からの連続面があるということ。…差別する側は何を基準にもって,部落差別をしているかというと,その人の祖先が江戸時代の賤民身分,多くは穢多身分ですけれども,穢多身分であったかどうかということによって,差別するわけですね。
…典型的には「穢れ」ということで示されますように,その江戸時代までの穢多身分を中心にまとわりついていた,いわゆる種姓観念,その穢れた存在である賤しいといった,そういう観念というものが一定程度引き継がれているということ,しかし,ではその封建的な身分差別の残滓,残存ということだけで,今の部落差別を説明できるかというと,それは決して必ずしもそうではないだろうと思うわけです。
…社会は非常に大きく変化してきたわけです。そのような社会が大きく変化する中で,部落差別のありようだけが変化せずに留まっているということは,おそらく常識的に考えてもあり得ないわけで,当然その部落問題をめぐる社会の眼差しや,その問題のありようというものも大きく変化してきたはずです。
…そのような変化の中で140年近く経過して部落差別がなお存在してきたということは,やはり社会の側が江戸時代までの身分差別というものが過去に存在している地域,あるいはそのこに居住している人々に対して,また差別のための新たな「徴」をつくってきた,与えてきたというふうに考えるのが自然だろうと思います。
…ある時期に差別のためにつくられた徴というものが,社会の変化の中で薄れたり,あるいは消えていくものもあるでしょうし,ずっと残り続ける徴もあるだろうと思います。

では,明治から現代に至るまで,どのように「徴」が変容してきたか,薄れたり消えたり,新たに創り出されたりしてきたか,黒川氏の説明によって見ていきたいと思う。

黒川氏は「解放令」を出すに至った経緯を次のように考える。

…四民平等の一環である。…「一君万民」天皇のもとにすべての民は平等であるという,一応近代国家が持っている普遍的な理念,建前に矛盾しないように,「一君万民」理念の創出がなされ,その一環として出されたということがまず一つです。
それから二つ目には「開明性」です。明治政府は欧米に負けない,欧米に肩を並べる開明的な政府,国家なんだということを,内外に誇示していく必要があったということです。
…条約改正を実現するためにも,新しくできた明治政府というのは開明的な政策を打ち出す国家なんだということをアピールしていく必要があった。
…封建的な古い身分制度,身分差別というものも廃止するんだと,そういう理念の一環として出されたということが二つ目です。

「解放令」が出たことによって,身分という「生まれながらの線引き」がなくなった。しかし,その差別を維持したい者にとっては,生まれながらの線引きがある方が安泰である。たとえば,江戸時代のように賤民身分がある時代は,賤民に生まれなかった者は生涯賤民となることはないからである。そこで,差別する側は,生まれながらの身分に代わる線引きを探し求めるようになる。呼称もその延長上にあると考えることができる。

「解放令」というのは賤民に対する呼称を一切廃止したわけですね。一切区別しないわけですから,呼称も必要がないわけです。しかし,差別したい側は,かつて穢多だったという集団を差別したい,ということはその集団に属する人を区別するわけですから,何らかの言葉で呼ばないと区別できないですよね。そのために差別する側が勝手につくりだした言葉が「新平民」なんですね。
他にどんな言葉が乱立したかというと,「旧穢多」とか「元穢多」とか,または新たに平民になったので「新平民」とか,勝手に略して「新平」とか言ったわけです。

明治政府が「新平民」という呼称を生み出したのではなく,四民平等によって(先に)平民となった「江戸時代の賤民身分」以外の者によって,解放令によって(後から)平民となった者に対して,その違いと区別のために作られた「徴」としての呼称である。
その前提となったものは,江戸時代の身分意識である。明治時代となり四民平等となっても,江戸時代の身分社会を生きてきた者にとっては,すぐに新しい社会観や人間観となることはできない。明治になっても人々の感覚や社会通念は江戸時代のままであり,特に身分意識はすぐに変わるものではない。それゆえ,「解放令」によって穢多身分など賤民身分の人々が自分たちと同じ「平民」となったことは,同じ「身分」になったように受けとめたのである。

「ちがう」身分の者が「同じ」平民になった。このことを受け入れることができないから,同じ平民でも「ちがう」のだということを明確にするために「新平民」という呼称を作り出したのである。「ちがう」と思っている者(差別する側)にとって,身分という「徴」がなくなったから,「ちがい」(差別)の根拠として新しい「徴」が必要になったのである。
「ちがい」を必要としない者=差別しない者にとって「徴」は無用なのである。
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当時の一般民衆及び社会の部落民に対する認識が「徴」になっていく。

どんな理由でもって被差別部落の人々を排除するかというと,あの人達は血筋が違うからというふうなことをしばしば言います。あるいは被差別部落の人と結婚すると一族の血が穢れるとか,あるいは家柄が違うとかいうふうな言い方。…でもやっぱりあの人達は「なにかしら違う」,答えに窮した時に出てくるのがそういう表現であったりするわけです。
これは何かというと,露骨に人種が違うとか民族が違うとかは言わない。それは違わないんだと頭ではわかっているけども,血筋,穢れ,何かしら違う,ここに合意されているのは,生まれながらにして自分達とは何かしら違う集団なんだという。生まれながらの線引きの延長上にあるのではないかと思うのです。血筋,家柄も本人の努力では変えられません。生まれながらの徴でもって排除しようとする…部落問題の底流に生き続けているのではないか…

取るに足らぬ些細なことであろうが,曖昧な根拠,非科学的なことであろうと,それが「徴」となる。差別するための「ちがい」となるのであれば「徴」は何でもよいのである。迷信であろうと妄信であろうとデマであろうと…。
たとえば,夜になると蛇のように身体が冷たくなる(『橋のない川』)とか,皮膚の色や容貌がちがう(『破戒』)とかのような生物学的なちがいから,藤井乾介や鳥居龍蔵の主張のような人類学的なちがい,さらには貧困,病気など生活習慣や環境に起因する二次的な問題までもが「徴」となっていく。

「同じ」になりたくないから「ちがい」を明らかにさせる必要がある。「ちがい」が曖昧になればなるほど,より明確な「ちがい」の「徴」を探そうとし,その「徴」を強固にするために排除・排斥をおこなって「線引き」を明らかにしようとする。
解放令反対一揆はその顕著な例である。なぜ民衆は,そこまで排除・差別をし続けたのだろうか。この答えが「今なぜ部落差別があるのか」という答えにもつながる。
黒川氏は,次のように述べている。

…そういう(明治維新による社会変化)の中で自分達の生活は一向によくならないのに,被差別部落の人達だけが「解放令」が出されたことによって,身分を浮上させていい目をしているというふうに,民衆の目には映りました。しかも「解放令」が出たことによって,もう生まれながらによる身分の線引きはなくなったわけです。そして,部落の人達の中にも経済力を蓄えて,部落外の人達と同等にまで肩を並べんとする人達もいるわけです。身分というものがなくなってしまえば,あとはもっぱら自分達の経済力なり努力なり能力といったものによって序列がつけられてしまうわけで,そうであるが故に,これまで絶対的に下にいたはずの賤民身分の人達が自分達と肩を並べる,そして自分達をも乗り越えていくかもしれないという恐怖感が,この時期そういう排除・差別となって強い形で表現されたのでした。

(2)部落改善運動から水平社

極端なデフレ政策により農産物価格が暴落して,わずかな土地しか持たない農民は,土地を手放して小作人に転落していきました。そういう土地を余裕のある地主が集積して,大きな地主として成長していって,いわゆる寄生地主制というものがだんだんと出来あがっていく,そのきっかけになったのが松方デフレです。小作人は小作料を支払えなくなって,農村にはいられなくなって,都市へ出て行く,そして下層労働者になっていって,この頃から都市スラムというものがだんだん拡大していくという状況が出来あがっていきました。
そういう中で,もともと経済的基盤の不安定であった。農村にあっても土地を持っていない,農業をしていない人々の多い被差別部落ですね,藁細工で履物をつくったりと非常に不安定な仕事に従事している場合が少なくない,そういう被差別部落もこれで大きな打撃を受けまして,被差別部落の貧困ということが,松方デフレ以後,クローズアップされていくことになったと思います。
貧困であるが故に出てくる二次的な問題,不潔とか病気の温床。あの人達は衛生観念がないんだとか,そういうレッテルを差別する側は貼ります…

「貧困」という「徴」は,黒川氏が述べるように明治以後の近代社会の中で被差別部落に与えられた「徴」である。
ここで大切な視点は,相対的な価値基準である。江戸時代の被差別身分には固有の生産手段(皮革業や,治安維持等の役負担による収入など)による経済力があったため,必ずしも「貧困」は,差異としての「徴」にならなかった。(身分という「徴」が強固であったからだが)しかし,近代資本主義社会となった明治では,経済力・生活力の格差である貧困が差異の基準となっていった。つまり,経済力のある層と貧しい層,貧富という相対的な価値基準が「徴」となっていったのである。

「貧困」が生み出す二次的な問題である「不潔」「衛生観念」も相対的な価値基準である。江戸時代の民衆が毎日お風呂に入っていたわけではなく,行水や身体を拭くとかであった。経済力の上昇とともに,また欧米の生活習慣や衛生観念が入ってきたことにより,入浴や洗髪という生活習慣が民衆に浸透していく中で,貧困のために風呂に入ることがなかなかできなかったり(風呂屋からの入湯拒否もあるが),清潔な衣服を着ることができなかったりした被差別部落に対して,新たな「徴」として「不潔」「汚い」「衛生観念がない」が付加されていったのである。これもまた,全体の衛生レベルの上昇に相対しての不潔・不衛生なのである。

…不潔な地域として,部落には殊のほか,警戒の目が注がれました。部落の近辺でコレラが発生すると,部落は危ないということで,部落のまわりの溝の掃除を徹底せよとか,あるいはたまたま被差別部落に患者が発生することがあると,被差別部落との交通を遮断せよという指令を行政が出したりして,そこは差別意識とないまぜになって,部落に対して特に警戒の目が張り巡らされていきました。
…コレラなどを媒介としながら不潔,病気の温床という徴が与えられていきました。

コレラの後も,病気ということでトラホームも被差別部落と結びつけられて,「徴」が強化されていった。トラホームの罹患率が高く,治癒率が低い地域は部落であるというように,貧困の二次的な問題である病気さえもが被差別部落の「徴」とされていったのである。

…その部落改善政策を通じて,非常に皮肉なことですけれども,異種という認識が広く民衆レベルに広まり,また,その認識とセットになった「特殊部落」という呼称が広く使われるようになっていったと考えています。
…被差別部落の存在が,国民統合を進めていく上でネックになる,放置しておくと障害になるから,それを是正しなければいけないということで,国民統合の観点から部落改善政策が行われることになったわけです。
…部落改善政策が行われる中で,いっそう被差別部落を特殊視するという認識が広まっていったということだと思うのです。ですから,「同じ」になることを強要することはかえって差異を際立たせ,その際立った差異というものをバネにして,ますます排除,差別を強めていくということが,この場合にも言えるのではないかと思います。

1908年,政府によって地方改良運動と呼ばれる全国的な国民統合政策が実施されていった。これは,日露戦争後,弛緩した農村をもう一度引き締めようというもので,増税など国家への不満が社会主義や犯罪に走らせず国家への忠誠をはかるというねらいだった。具体的には,税の滞納防止,就学督励,風紀の改善,衛生状態の改善などであり,それらを貫徹するために町村間で競わせ表彰したのである。この結果,部落を抱えた町村ではなかなか目標を達成できないという問題が生じてきた。そこで,部落改善運動が始められることになったのである。

その結果,部落と部落外の格差がより明確にされ,さらに従来からの差異・差別の「徴」がより確定されていったのである。部落は「特種」である。部落は起源が違う。民族が違う。性質が違う。さまざまな理由が「徴」となり,人々の認識として受けとめられていったのである。

異種とする根拠は朝鮮人起源説が主流だったと思います。朝鮮人起源説は,まさにこの時期,日本は1910年朝鮮を植民地にしていくわけで,日清戦争以後,そして日露戦争を経て,朝鮮に対する蔑視感がいっそう民衆レベルに強まっていった時です。そういう蔑視の対象である朝鮮人と被差別部落を結びつけていったわけですね。

さまざまな「徴」が新たにつくられ,新たに付与されて,民衆の差別意識・賤視観を強固にしていくのである。「同化」の強要が「異化」を際立たせていったのである。一方で「同化」を強要し,他方で「異化」を認識するが故に排除・差別していくようになるのである。

「同化」の強要の前提となっている立場は,部落責任論である。部落の側に原因があるという考えである。それゆえの「特殊視」であり,「特殊部落」という部落認識なのである。
大正デモクラシー,民主主義の風潮が社会を席巻していく中で,被差別部落の問題をめぐって認識も変化してくる。被差別部落の側からの部落責任論に対する批判,部落改善運動への批判である。つまり,部落の側だけでなく社会の側の責任も問うという方向への転換である。これが,1910年代から20年代初めにかけての融和運動である。

しかし,やはり同情も非常に欺瞞的だと,それは御免だということで,被差別部落の人達は部落改善,同情融和をも克服する道を模索していきました。そして,自分達が「自覚」を持つしかないんだ,さらには自分達が差別の徴を与えられてきたけれども,そういうものをも「誇り」に転化して,あるいは「穢多」として,「特殊部落」として投げかけられてきた,そういう言葉をも逆手にとって,等身大のありのままの自分達の姿に誇りをもって,差別の不当性を社会に訴えていかなければいけないんだ,ということでさまざまな模索を経て立ちあげていったのが,全国水平社でした。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。