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指弾と糾弾

部落問題・ハンセン病問題に取り組み続ける同和教育の先達,私の尊敬する林力先生の言葉である。

…糾弾はその根底において,水平社宣言にみられる人間へのかぎりない信頼に支えられています。部落差別という非人間性にむしばまれた者に対する糾弾という行為は,その人に対して人間性の変革を求めるとともに,糾弾の場にいあわせる被差別部落大衆もふくめた関係者の差別への認識をさらに深め,相互の連帯をさらに強めていくことが目的です。安易に「敵」を仕立てあげ,むこうへまわしてしまうことではありません。
…本来,<仲間>であるべき者が,差別の側にまわったとき,「その非を悟り,差別を容認し,増幅させるものと闘ってほしい。<仲間>に帰ってほしい。差別の側にまわることは,部落出身でない者にとっても,けっして利益になることではないことをわかってほしい。」これが糾弾の本質でしょう。
…本当は<敵>でないものを<敵>として位置づけ,<仲間>にしていく努力を放棄して解放を叫ぶことは容易ですが,無責任でもあります。

「反差別の立場」とは「差別者」を非難することでも排斥することでもないと思う。まして,一方的な主観や一時的な感情から事象を「差別」と決めつけたり,「差別者」を指弾したり排除したりすることではない。また「差別者」を非難することで,自分が「反差別の立場」に立っていると自己確認することでも,自負心をもって自己正当化することでもない。まして「差別者」を指弾することで,周囲に自分が「差別をなくす立場」にいることをアピールすることでもない。なぜなら,いかなる人間であっても人間存在を否定したり,排斥・排除することは,まさしくそれが「差別」であるからだ。このことは被差別の歴史を学べばわかる。

「差別者」と「差別」はちがう。「差別を受けた者」が他の場面では「差別者」となることもあり,その逆もある。ということからも重要なことは,「差別者」の人間存在を指弾することではなく,「差別者」の心理的背景・認識の中にある「差別意識」を考察し分析し,「差別」という愚かな行為を的確に指摘し糾弾することだと思う。「差別者」の言動に関してその責任追及や批判をすることだけでは「差別」はなくなりはしない。まして「差別者」を「敵」としか思えず,批判に終始し,排除さえする者に「差別」をなくすことなどできるはずもない。
いかなる経験や根拠であろうと,直感であろと,仮に意図して差別をしている者であろうとも,切り捨てることは「差別をなくそうとする立場」にある者がすべき行為ではない。

「被差別の現実に学ぶ」ということは,「差別の現実にも学ぶ」ことであると考えている。「差別事象」を「差別」であると否定し排斥する前に,「その差別事象」の背景や根底にある要因,経緯などから学ぶべきことは多い。差別発言・差別落書きにおいて同様の内容であったとしても,その差別行為をおこなった者が異なる以上,彼の差別へと駆り立てた背景や要因も異なるのは当然である。この背景を客観的に分析し考察することで「差別解消」の展望や方法などが明らかになると考える。それゆえに,感情的な対応は差別者から自己分析の機会を奪い,差別事象を巧妙化・陰湿化させていくだけである。差別意識は彼の心に肯定的に残され続けていくことになる。

賤称語を見聞きしたり,差別事象や差別発言を知ったりしただけで,差別だと指弾する愚かさは,差別する者に差別を狡猾に隠蔽化することの必要を教えるだけでしかない。差別者を非難するのではなく,いかに差別が愚かな行為であり,社会全体を不幸にし,その人自身をも傷つけ不幸にすることであるかを説いていくことが糾弾である。このことは結婚差別を例にするまでもなく,自明のことである。「差別」を許さないことと,「差別する人間」を許さないこととはちがう。

賤称語の使用に関しては目的と意図によって大きく違ってくる。明らかに差別することを目的として悪意をもって使用する場合と,差別事象を的確に説明することに使用する場合とでは異なって当然である。「エタ」という賤称語にのみとらわれて文意を曲解したり,その言葉のみの差別性に固執して本来の意味や目的を取り違ってしまうことは,単なる「言葉狩り」と同じである。また,賤称語や差別発言に対して感情的になって,あるいは被差別部落出身だから,被差別体験をしたからという理由で,目的と意図までをも否定することは差別解消の逆行でしかない。感情で差別はなくなりはしない。差別に対する怒りの感情だけで解消できるほど,差別は浅くはない。社会や人間の存在に深く根付いている差別を解消するためには,冷厳な洞察力と緻密な論理力が必要である。そのためには,被差別の歴史を学び,差別事象の背景を多角的に分析し考察することが必要である。備作平民会を主導した三好伊平次にしても,水平社を創立した西光万吉にしても,しっかりと学習し研究しているではないか。そのためには賤称語であろうと差別事象であろうと,たとえ辛くても,消し去るのではなく真っ正面から生きた教材として取り組んでいく必要がある。


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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。