我関わる、ゆえに我あり
柳哲雄先生の著書(『退職老人日記』正・続)を読み終えた。
3月末に10年間勤務した中学校を退職して以降、すぐに父親が亡くなり、初めて経験する一連の死を悼む行事から故人の遺品整理・相続整理など多忙な日々を過ごし、四十九日の法要を終えて、はたと気づいたのは毎日の勤務がない、教材研究や授業準備をしない、教育活動の立案や運営を考えない自分の現状であった。何もしなくてもよい現実であった。
空虚というか不安定というか、そんな時に見つけたのが柳先生の本であった。まさしく同じ境遇に立った先生の日々を綴った本に救いを求めて購入した。
「これから何を目標に、毎日何をして過ごすか?はたと困っている」から書き起こされた「日記」には、日々のできごとや感じたこと、思ったこと、考えたことなどが淡々と書かれている。
出会って10年近くなる柳先生の別の一面を見ると同時に、歩いてきた道のりを振り返る記述には私など到底及ばぬ一心に努力された過去、研究に際して人知れぬ苦悩を乗り越えてきたことが垣間見える。
「文は人なり」と言うが、名文家ではないが、幅広い読書家であり、専門分野の論文を書き続けてきた痕跡がうかがわれる。実に読みやすく、わかりやすく、情景が想像しやすい。柳先生の日々、専門分野への飽くなき探究心、これからの海洋への危惧など彼の思いを追想できる。そして時折、はっとする名言がさりげなく記されている。
しかし、本書を読んでもっと関わりたいと願った時、突然の柳哲雄先生の訃報が届き、もう二度と関わることができなくなってしまった。本校の海洋学習の支えであり、無償で生徒のために「聞き書き」の話者となってくれた先生に会うことも、教えを請うことも二度とできない。無念としか言葉が出ない。今更ながら、世界最高水準の海洋学者の話を聞くことができた生徒たちは幸せだったと語りたい。
今でこそ「里海」は「SATOUMI」として世界中の海洋学者に知れ渡っているが、その創始者であり提唱者である彼の名をもっと広く残したい。気候変動と異常気象により生物多様性が危機的状況にある今だからこそ、自然との共生である「里海」が必要なのである。
この有名な逸話は本人からも周囲からも聞いたが、実証に裏付けられた確信は揺らぐことはなかったという。彼のこの日記を読めば、実証と思考実験に明け暮れた成果が確信になったのだと納得できる。
単なる思い込みでしかない自説に固執し、他者の声に耳を貸すこともせず、自説に都合のよい文献の一部を自己流に解釈して正当化したり、他者の学説や主張を正確に読み取ることをせず、曲解・歪曲して的外れな批判に終始したりする人間がいる。
その人物が書いているブログを読むと、異常なほどの独善性と執念深さ、他者に対する歪な猜疑心、傲慢な自己正当化など彼の性格と人間性に発していることがわかる。他者に正当に評価されない理由を「学歴」に求めて被害者を装っているが、彼の人間性や攻撃性から生まれる言動に辟易して遠ざかっていったに過ぎない。
キリスト教の隠退牧師だそうだが、彼を通して宗教の持つ負の側面を再認識できたことが唯一の救いであった。旧統一教会が問題視されているが、宗教の独善性や独断性が人間を狂わせる証左であろう。本人は「正しい」「正義」であろうとも、巻き込まれる人間にとっては「悪」「禍」でしかない。
同じ「日記」でも、こうまでもちがうのかと納得している。一方は研究者としての真摯な追究の日々が書かれ、他方は他者への愚弄と自負心の日々が書かれている。どちらのような日々を生きていきたいか、私は躊躇なく前者を選びたい。
デカルトを模して「序説」と冠したブログに“我思う、ゆえに我あり”とばかり、自分と本の中だけの情報で、他者に対する悪言雑言をネット上に公開しながら生きている人間よりも、“我関わる、ゆえに我あり”と他者との交流の中で思索を深めていった柳哲雄先生を私は尊敬する。