人種主義としての部落差別(黒川みどり)
明治維新以降の近代における部落問題を民衆意識の変化に焦点をあてて歴史的に解明しようと試みる黒川みどり氏の論考には、以前より注視してきた。彼女の分析と考察からは多くの示唆を受け取ってもきた。
部落問題に関わるようになる前から、ずっと気になっていたことがあった。周囲の大人、特にある一定以上の年齢の人から聞かされる被差別部落に対する「あの人たちは“ちがうから”」という言葉に違和感が強くあった。だれと比べて、どこが、何が“ちがう”のか、さっぱりわからなかった。根拠らしきものは語らず、ただ「自分たちとは“ちがう”」と言うだけであり、何かにつけて「悪口」や「排斥」する際の理由付けに、例えば「“ちがう”から、○○だ」というように言葉の端々で使われていた。特に深い付き合い、恋愛や結婚の場合はあからさまに話題に上った。<忌み嫌われる>感覚であった。
黒川氏は、この“ちがう”という感覚的(観念的)な差異を<人種>という視点から分析考察する。『福音と世界』(新教出版社)2022年3月号「特集=部落解放ー歴史と可能性」に、黒川みどり「人種主義としての部落差別」が掲載されている。今までの数冊の著書の内容をわずか数ページに簡潔にまとめてあってわかりやすい。
「一族の血」「血筋」「血統」「家柄」の前提とは何か。それは「純粋なる日本人」という国粋主義による固定観念が生み出す「幻想」でしかないと私は思う。「血筋」「血統」という「あいまいなもの」に根拠をあたえる(正当化する)手段、つまり「生得的」な差異である証左として持ち出されてきたのが「異人種起源説」(渡来人説)である。
中学で歴史、高校で日本史を学んだ者であれば、古来より大陸との結びつきが深く、朝鮮半島や中国からの渡来人が多かった事実を知っているだろうし、中世から近世においても広く交易が行われ、蝦夷地(北海道)や琉球(沖縄)を含めて東南アジア各地との交流も広がり、婚姻も結ばれていたことは想像に難しくはないだろう。明治以後は欧米諸国との貿易や交際も深まり、戦後から現代にかけて国際結婚は増加している。「純血」であるかどうかなどわかりはしないし、そんなものに何に意味も価値もないことは自明であろう。
グローバル化が加速する中で、排外的な「血筋」「血統」「家柄」などという旧態依然の因習にとらわれていること自体がおかしいのである。
かつて江嶋修作氏(解放社会学研究所所長)は、「うちは先祖代々、武士の家系で…」と娘の結婚に反対した父親に向かって「さぞかし、たくさんの人を殺したのでしょうね」と言ったという。無茶な話のようだが、要するに戦国時代からの武士などという「身分」が現代においては何の意味も持たないことを皮肉ったのだろう。
先祖に誇りを持つことは大切と思うが、先祖の「身分」や「家格」にこだわったり、江戸時代の「身分」で個人を判断したりすることは差別を助長するだけであり、実に愚かしいことだと思う。江戸時代の「身分」や「社会的立場」が「百姓」であろうと「武士」であろうと、「賤民」であろうと、それは江戸時代の話(制度、価値観など)であって現在に通用するものではない。
「血筋」「家柄」などは、単に被差別部落との婚姻を忌避すための「方便」でしかないことは明らかである。
黒川氏の指摘のように、どこをどう見ても「同じ」(当たり前のことであるが)であるから「差別しにくい」「差別を正当化できない」ので、無理に根拠をこじつけるように「差異をつくり出」そうとするのである。
部落史の役割(目的)は部落差別の解消、部落問題の解決に寄与することである。しかし、部落史研究の成果による歴史認識が変換(たとえば、被差別民は「賤民」ではなかったという暴論であっても)されたとしても、それだけでは決して部落差別が解消することはない。
しかし、近代における差別意識の背景を探究することの意味は大きい。差別の実態、民衆はなぜ、どのように差別をしてきたか、を解明することで、部落差別の本質と差別解消の手がかりが明らかになるからだと考えている。
「自らより下位にあった人びとが、自分たちと同じ地位に浮上してきたことに危機感を覚える民衆」という点には異論がある。黒川氏のこの一文からは、江戸時代の上下の身分差別が解放令以後は「排除」の差別となったと解釈できるが、果たしてそうだろうか。
「下位」「上位」という身分格差はあったであろうが、それが「同じ地位」になることに対して民衆がそれほどの「危機感を覚える」とは思えない。むしろ私は、江戸時代の差別は「けがれ」を理由とする「排除」「排斥」の身分差別であったと理解している。そうした身分差別が賤称(民)廃止令(解放令)「穢多・非人等ノ称廃セラレ候条自今身分職業共平民同様タルヘキ事」によって廃され、「身分」が自分たち(平民)と「同様」になったこと、従来の分け隔てがなくなったことへの「危機感」であったと考える。つまり、身分による分け隔てがなくなり、平民と同様の扱いとなったことで、日常生活のさまざまな場面で自分たちの世界に流入(押し寄せてくる)してくることに対する嫌悪感(忌避意識)と抵抗感が高まり、その最も激しい結末が「解放令反対一揆」であったと考えている。
「けがれ」という目に見えないものを理由にした<差異>が、目に見える実態として人びとに認識され、さらに人類学者のまちがった考察が「異種」という生物学的差異に根拠をあたえることになった。
明治維新、解放令からわずか50年の歳月が、被差別部落の経済的困窮を加速させ、生活や風紀の乱れを悪化させ、それを目にする部落外の人びとは「ちがい」を生得的な差異である「人種」による(要因)と認識するようになり、さらに「怠惰で」「非行に走りやすい」「暴民」「残虐」といった悪意に満ちた風説が広まっていった。
キリスト者で社会活動家として有名な賀川豊彦でさえ、「彼等が不潔なるも、眼病の多きも(中略)皆一種の人種的意義を持っている」「彼等は即ち日本人中の退化種ーまた奴隷種、時代に後れた太古民族なのである」というまちがった認識をもっていた。当時の民衆が被差別部落に対してどのような認識をもち、彼らに対する差別や偏見をもっていたか明らかだろう。
「ちがい」を生得的な差異とすることで、自分とは「ちがう」こと、過去も未来も「ちがう」ことに安堵するとともに、それゆえ「血筋」「家柄」を強固に守ろうとし、被差別部落を差別することを正当化したのである。
天皇制が確立するとともに天皇の神格化が国民の中に浸透していく反面、松本治一郎の名言「貴族あれば賤族あり」のように、「人種」の観念から被差別部落への排除・排斥が深化・激化していった。そして、被差別部落だけでなくハンセン病患者や精神病患者、アイヌ民族、朝鮮・韓国人などへの露骨な差別意識が公然化していく。
また「人種が違う」という認識も根強くあり、それゆえに、1965年の同和対策審議会答申では、あえて「同和地区住民は異人種でもなく異民族でもなく、疑いもなく日本民族、日本国民である」と謳わなければならなかった。
戦後になり、日本国憲法に平等権が明記され、民主主義の風潮が日本を席巻したにもかかわらず、「人種が違う」という認識も意識も簡単には変わることなく、むしろ不可視化して残り続けて今日に至っている。
部落問題における「人種主義」とは、根拠のない差別を正当化するための理由づけとして持ち出された概念でしかない。