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光田健輔論(72) 牢獄か楽園か(5)

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』より、愛生園の実態がどのようなものであったかを抜き出して検証してみたい。

愛生園に関する書籍は、光田の『回春病室』(光田本人が書いたものではなく、藤本浩一が聞き書きと資料から書いたもの)と『愛生園日記』(同様に青柳緑が書いたもの)、『光田健輔』(内田守)、『癩に捧げた八十年』(青柳緑)、『光田健輔の思い出』があるが、どれも光田崇拝者の手によるもので、必ずしも客観的な事実とは限らない。むしろ光田擁護あるいは光田への忖度で書かれたと思える。例えば、「癩予防法」改正闘争や「長島事件」などは光田の正当性を過度に強調している。一方で、入園者の立場から書かれた自治会史などは上記には記述されていない事実も多く書かれている。それらを取り上げて、愛生園の実態を検証することで、光田健輔が愛生園の管理運営、そしてハンセン病政策に及ぼした功罪を明らかにしてみたい。


以前、私は草津の栗生楽泉園に設置された「特別病室」(重監房)問題に関して、送致した各療養所長(園長)の思いを知りたいと追究した。しかし、ほとんど資料がないので、不明なことも多い。『隔絶の里程』に記述があったので、抜粋して引用する。

大和光一と奈良文夫は同県人で同地方、幼い時は遊び友達であった。
昭和十七年十二月、収容された列車の中で再会した二人は、お互いに病者になっている奇縁に驚いたが、入園後も希望して同じ寮に入った。
それから半年後、帰省を許されないので、二人は他の三人と同じ船で逃走したが、上手く上陸したものの線路工事現場を通過中派出巡査に見つかって連絡され、連れ戻されて監禁された。「初犯」の場合10日までというのが普通であった。
ところが五人のうち大和と奈良だけは、監禁室にやってきた職員によって、園長の指示なるものが読み上げられ、寮長があわただしくまとめた所持品とともに栗生楽泉園の重監禁室に送られることになったのである。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

光田健輔の独断専決による「草津送り」(重監房送致)であったことが明らかである。しかし、理由がはっきりしない。

同時に逃走した五人のうち大和と奈良の二人だけがなぜ「特別病室」に送られたのか。「園内不穏分子」という以外の記録は残されていない。園内には当時彼らと生活を共にしていた者も現存するが、その誰も草津まで送られねばならなかった理由を知らないのである。
ただ知人たちが推測するのは、奈良は「自分は療養に来たので働きに来たのでない」といって、着流しで奉仕にも出ず、青年団の幹部連に吊し上げられるような男であったこと。大和は入園早々園内の事情ものみこめぬうち、作業場の器具が壊れたので修理を頼みに分館に行ったとき、「面会室で待っておれ」といわれて上がっていったのが職員の方の面会室であったため、叱られて喧嘩になったことがあり、また他の患者の逃走を手助けをしたことがあったので、日頃からニラまれていたのではないかということである。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

多磨全生園の山井道太と同じような、施設側に反発したことが「不良分子」「不穏分子」のレッテルを貼られ、要するに園の秩序を乱す者として「排除」され、それを「見せしめ」としたのではないだろうか。あまりにも一方的な主観、というより感情的な措置である。光田は自分の意に逆らう者には容赦がなかったという証言もある。「慈父」の裏の顔である。

二人は縄つきのまま草津に連行されたが、彼らが収監中、別に愛生園から送られてきているという二名の者がいた。清水×平は要領よく胆石とかいって病室に出してもらい、そのままズラかったが、そのためにもう一人の吉岡×夫は本当に悪くなっても、愛生の奴は仮病をつかうといって相手にされず、厳冬の昭和十九年一月十七日「膿胸デ獄死」した。死体は床に凍てついて離れなかったという。この二人の収監理由は窃盗と逃走癖である。これらのことも大和と奈良が再び愛生園に収容され、親しい人に語ったために判明したことであった。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

その一年後、奈良は結核で死亡し、さらにその一カ月後に大和は作業中の傷から敗血症となって死んだ。

栗生楽泉園の「特別病室」(重監房)は1938(昭和13)年に建てられ、1947(昭和22)年まで使われ、約9年間に、全国の療養所から反抗的とされた93名のハンセン病患者が収監され、23名が亡くなったと言われている。
愛生園からは、『隔絶の里程』のこの記述だけでも4名の者が、光田健輔によって送致され、そのうちの1人が「獄死」している。調べればもっと多くの患者を送っていると思う。

『長島は語る 岡山県ハンセン病関係資料集・前編』には愛生園と光明園に関する貴重な資料が多く蒐集されている。「特別病室」に関する資料もわずかだがある。その一つに、次のものがある。

218 草津監房送致予定者の逃走

起案昭和十八年四月十四日
施行四月十五日持参
園長㊞ 庶務課長㊞ 主任㊞



栗生楽泉園長宛
  特別室収容患者送致ニ関スル件
予而電報ヲ以テ及御依頼置候、左記癩患者ヲ本日本園雇栄政太ヲシテ送致セシメ候ニ就テハ、諸事宜敷御高配ヲ得度、此段重而及御依頼候也
追而、詳細ニ関シテハ送致員ヨリ御聴取相成度中添候
      記
一、本籍 愛知県愛知郡□村
一、添付書類 別紙聴取書

『長島は語る 岡山県ハンセン病関係資料集・前編』

この「起案」に関連して、送致予定の患者が逃走したことを伝えるための「起案」3通りが収録されている。その標記の「案ノ一」には「不良患者逃走ニ関スル件」とあり、本文には「貴園特別監禁室」とある。「案ノ二」「案ノ三」では本文中に「生来窃盗・放火等ノ不良癖アリ」とある。

つまり、昭和16年1月に香川県から愛生園に送致された患者を収容したが、元々窃盗や放火などの「不良癖」があるため、昭和18年4月に栗生楽泉園の「特別病室」に送致する予定であったが、逃走してしまった。「案ノ一」は栗生楽泉園長宛、「案ノ二」は各国立癩療養所長宛、「案ノ三」は愛知県衛生課長・香川県衛生課長宛である。栗生楽泉園へは報告であり、「案ノ二」と「案ノ三」は通知と手配書ということになるだろう。いずれも差出人は「園長」である。

詳しいことは「添付書類」が不明なのでわからないが、「窃盗・放火」がどの程度かにもよるが、それでも「特別病室」に送致されることになっている。

何より私が信じられないのは、「特別病室」の実態がどれほど残酷であったかまで伝わったかはわからないが、それでもある程度は光田の耳にも届いていたと思う。また、光田が9年間に「特別病室」を視察した可能性は否定できない。
1943(昭和18)年には日本癩学会が栗生楽泉園で開催されている。光田が出席しているかどうかはわからないが、少なくとも出席した療養所の園長や厚生省官僚が視察した可能性も否定はできない。

実は視察した者は彼らだけではない。『風雪の紋』(栗生楽泉園患者自治会編)には、1947(昭和22)年8月1日に皇族の高松宮が「特別病室」に入られたことが書かれている。

…当園機関誌『高原』の、22年9月号に庶務課長霜崎が「高松宮殿下の御来園を忝ふして」という一文を寄せており、それによると高松宮の所内視察の際、「殿下の御希望で特別病室を御覧に入れたが、御自身で入られて従来の利用状況等について、いろいろと御下問をかたじけのふした」とある。当時はもう収監者はなくなってたが、霜崎が「特別病室」についてどう説明し、高松宮が何を問うたかは、今となっては不明である。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

時期的には、栗生楽泉園で「人権闘争」が起こる直前である。藤野豊は、入園者の藤田三四郎さんに聞いた話として「…高松宮が楽泉園を慰問した際、白衣もマスクも着けず、園当局が用意した見学コースにとらわれず、自由に園内を視察し、この『特別病室』にも入ったので、園当局はたいへん驚き、あわてた」と書いている。

では、光田本人はどう思っていたのか。「特別病室」が問題となった後に、彼は次のように書いている。

…それは楽泉園の「特別病室」が問題となったのである。楽泉園には昭和十三年以来、全国ライ療養所長会議できめて、ライ刑務所がないために、全国の療養所でもて余すような不良患者を楽生園の「特別病室」へ送ることになっていた。社会におれば前科何犯といわれるほどの凶悪な患者をここへ送ることで、他の療養所がどれくらい助かっていたかわからない。その特別病室を不当な人権圧迫だとする患者の主張が通って、とり壊されたばかりでなく、園長は休職となった。

…ただ人類の福祉のためにライを予防するのであり、予防の手段として隔離をするのである――という本末をわきまえずに、しかも過去数十年間のライ予防と療養所管理がどれほど困難なことであったことか、なぜ特別病室のような監禁室が設けられるようになったかの歴史も過程も研究しないで、人権擁護という甘いことばだけに陶酔している一部の人々もあるようだ。それらの人々が安価な感傷におぼれて、かえって人類の福祉をかき乱そうとしている自分たちの罪に気がつかないのである。

光田健輔『愛生園日記』

なんと傲慢な自分勝手な論理であろうか。しかも自己正当化のために、「不良患者」と決めつけた患者を極悪人であるかのように誇張する。「逃走」や「窃盗」が「凶悪な患者」なのだろうか。光田が「目的」のためには、いかなる「手段」をも正当化して平気な人間であることがよくわかる。「特別病室」を正当化するために「人類の福祉」を持ち出す論理の飛躍には呆れ果てる。

正式な裁判を経て、光田の言う「ライ刑務所」に送致するのであれば、ただし普通の刑務所と同等の扱いで、裁判官の判断で送るのであれば、問題はないだろう。光田は問題の本質が理解できていない。「特別病室」の施設の造り、監禁環境、収監者の扱い(衣食住など)、医療体制などが普通の刑務所以下であることを問題視しているのだ。

逆に光田は『回春病室』の中で「…楽生園内に堅固な監禁所を作って、逃走を不可能にすることにした」と書き、「特別病室」の成果として「一段と療養所は明朗になっていった」と述べている。恫喝と抑圧によって患者を黙らせる「手段」が罷り通った時代であった。しかし、逃走は「特別病室」ができる以前に比べて桁違いに増えていったことが、抑止よりも反発の方が強かった証左である。
近年、光田擁護論が研究者の中からも出てきているが、「特別病室」問題だけを見ても光田の独善性がわかるだろう。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。