光田健輔論(72) 牢獄か楽園か(5)
長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』より、愛生園の実態がどのようなものであったかを抜き出して検証してみたい。
愛生園に関する書籍は、光田の『回春病室』(光田本人が書いたものではなく、藤本浩一が聞き書きと資料から書いたもの)と『愛生園日記』(同様に青柳緑が書いたもの)、『光田健輔』(内田守)、『癩に捧げた八十年』(青柳緑)、『光田健輔の思い出』があるが、どれも光田崇拝者の手によるもので、必ずしも客観的な事実とは限らない。むしろ光田擁護あるいは光田への忖度で書かれたと思える。例えば、「癩予防法」改正闘争や「長島事件」などは光田の正当性を過度に強調している。一方で、入園者の立場から書かれた自治会史などは上記には記述されていない事実も多く書かれている。それらを取り上げて、愛生園の実態を検証することで、光田健輔が愛生園の管理運営、そしてハンセン病政策に及ぼした功罪を明らかにしてみたい。
以前、私は草津の栗生楽泉園に設置された「特別病室」(重監房)問題に関して、送致した各療養所長(園長)の思いを知りたいと追究した。しかし、ほとんど資料がないので、不明なことも多い。『隔絶の里程』に記述があったので、抜粋して引用する。
光田健輔の独断専決による「草津送り」(重監房送致)であったことが明らかである。しかし、理由がはっきりしない。
多磨全生園の山井道太と同じような、施設側に反発したことが「不良分子」「不穏分子」のレッテルを貼られ、要するに園の秩序を乱す者として「排除」され、それを「見せしめ」としたのではないだろうか。あまりにも一方的な主観、というより感情的な措置である。光田は自分の意に逆らう者には容赦がなかったという証言もある。「慈父」の裏の顔である。
その一年後、奈良は結核で死亡し、さらにその一カ月後に大和は作業中の傷から敗血症となって死んだ。
栗生楽泉園の「特別病室」(重監房)は1938(昭和13)年に建てられ、1947(昭和22)年まで使われ、約9年間に、全国の療養所から反抗的とされた93名のハンセン病患者が収監され、23名が亡くなったと言われている。
愛生園からは、『隔絶の里程』のこの記述だけでも4名の者が、光田健輔によって送致され、そのうちの1人が「獄死」している。調べればもっと多くの患者を送っていると思う。
『長島は語る 岡山県ハンセン病関係資料集・前編』には愛生園と光明園に関する貴重な資料が多く蒐集されている。「特別病室」に関する資料もわずかだがある。その一つに、次のものがある。
この「起案」に関連して、送致予定の患者が逃走したことを伝えるための「起案」3通りが収録されている。その標記の「案ノ一」には「不良患者逃走ニ関スル件」とあり、本文には「貴園特別監禁室」とある。「案ノ二」「案ノ三」では本文中に「生来窃盗・放火等ノ不良癖アリ」とある。
つまり、昭和16年1月に香川県から愛生園に送致された患者を収容したが、元々窃盗や放火などの「不良癖」があるため、昭和18年4月に栗生楽泉園の「特別病室」に送致する予定であったが、逃走してしまった。「案ノ一」は栗生楽泉園長宛、「案ノ二」は各国立癩療養所長宛、「案ノ三」は愛知県衛生課長・香川県衛生課長宛である。栗生楽泉園へは報告であり、「案ノ二」と「案ノ三」は通知と手配書ということになるだろう。いずれも差出人は「園長」である。
詳しいことは「添付書類」が不明なのでわからないが、「窃盗・放火」がどの程度かにもよるが、それでも「特別病室」に送致されることになっている。
何より私が信じられないのは、「特別病室」の実態がどれほど残酷であったかまで伝わったかはわからないが、それでもある程度は光田の耳にも届いていたと思う。また、光田が9年間に「特別病室」を視察した可能性は否定できない。
1943(昭和18)年には日本癩学会が栗生楽泉園で開催されている。光田が出席しているかどうかはわからないが、少なくとも出席した療養所の園長や厚生省官僚が視察した可能性も否定はできない。
実は視察した者は彼らだけではない。『風雪の紋』(栗生楽泉園患者自治会編)には、1947(昭和22)年8月1日に皇族の高松宮が「特別病室」に入られたことが書かれている。
時期的には、栗生楽泉園で「人権闘争」が起こる直前である。藤野豊は、入園者の藤田三四郎さんに聞いた話として「…高松宮が楽泉園を慰問した際、白衣もマスクも着けず、園当局が用意した見学コースにとらわれず、自由に園内を視察し、この『特別病室』にも入ったので、園当局はたいへん驚き、あわてた」と書いている。
では、光田本人はどう思っていたのか。「特別病室」が問題となった後に、彼は次のように書いている。
なんと傲慢な自分勝手な論理であろうか。しかも自己正当化のために、「不良患者」と決めつけた患者を極悪人であるかのように誇張する。「逃走」や「窃盗」が「凶悪な患者」なのだろうか。光田が「目的」のためには、いかなる「手段」をも正当化して平気な人間であることがよくわかる。「特別病室」を正当化するために「人類の福祉」を持ち出す論理の飛躍には呆れ果てる。
正式な裁判を経て、光田の言う「ライ刑務所」に送致するのであれば、ただし普通の刑務所と同等の扱いで、裁判官の判断で送るのであれば、問題はないだろう。光田は問題の本質が理解できていない。「特別病室」の施設の造り、監禁環境、収監者の扱い(衣食住など)、医療体制などが普通の刑務所以下であることを問題視しているのだ。
逆に光田は『回春病室』の中で「…楽生園内に堅固な監禁所を作って、逃走を不可能にすることにした」と書き、「特別病室」の成果として「一段と療養所は明朗になっていった」と述べている。恫喝と抑圧によって患者を黙らせる「手段」が罷り通った時代であった。しかし、逃走は「特別病室」ができる以前に比べて桁違いに増えていったことが、抑止よりも反発の方が強かった証左である。
近年、光田擁護論が研究者の中からも出てきているが、「特別病室」問題だけを見ても光田の独善性がわかるだろう。