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部落史ノート(9) 賤民制の成立と確立(2)

山口県文書館の元研究員であった北川健氏の『長州藩における賤民制の成立と確立』という論文をもとに「賤民制」の確立の背景を考察してみる。まずは、前回に概要を述べた長州藩の「牢番役拒否事件」と岡山藩の「御役目拒否闘争」を比較して考察してみたい。

まず年代であるが、北川氏は<牢番役拒否事件>が「幕藩体制の確立期に相当する」万治・寛文期に起こったことに着目する。

近世賤民制成立の指標として17世紀後半成立説の掲げる、「かわた」称から「穢多」称への転換、および<別帳化>ないしは<末尾記載>といった自称は、長州藩でも確認することができる。それが万治・寛文初年を契機としてであり、万治・寛文期こそは長州藩の賤民制度の歴史の上で一大画期をなす。

万治(1658~61)から寛文(1661~73)期は、四代将軍家綱の治世である。彼に関しては教科書への登場は皆無に近く、知名度は低い。しかし、「寛永の遺老」の呼ばれた家光の側近衆が死去や隠退する中で、武断政治から文治政治への転換を図り、農政に重点を置き、宗門改の徹底、全国への宗門人別改帳作成の命令、諸国巡見使の派遣などを通して、幕藩体制を確立させた。

岡山藩においては、1643年(寛永20)頃の「備前備中両国石高帳」に「高壱千七百五十七石四斗壱升、下伊福村、枝村 三門・石井寺・国守・西崎 かわた」と記載がある。「備前国九郡之帳」(1624~43)には備前国内10村(下伊福村・二日市村・西原村・神下村・周匝村・篠岡村・久保村・一日村・東須恵村・久志良村)が「枝村 かわた村」と記録されている。
1667年(寛文 7)の「町在々男女奉公人并浮人牛馬改帳」に「穢多」呼称での記載(「穢多次郎九郎、葬之節穴を掘候事を肝煎申候」)がみえる(池田家文庫)しかし、次郎九郎は「おんぼう(隠亡・煙亡・陰亡・陰坊)」身分であるが、この史料にあるように、“かわた”や“おんぼう”など賤民身分を“穢多”呼称に改めて把握しようとする意図を感じる。


次に、北川氏の本論文より、長州藩における「穢多」(かわた・かわや)の「存在態様」についてまとめておく。

「<かわた(かわや)>に対する権力による隔別措置は、近世初頭から存在する」と北川氏は言う。それは「旧城下町山口における『垣ノ内』の設定と、吉川領城下での『土居』内への編入である。…つまり、『垣ノ内』と云い、『土居』内と云い、人為的境隔でもって<かわや>を囲隔、集住せしめることが、近世初頭の領主権力にとって共通する意図で」あった。

北川氏は「この措置が兵農分離、町在分離の…身分編成に即応した、つまり<かわや>の<かわや>身分としての成立を告げるものであった」と見る。ただし、「問題は、これらが賤民身分としての設定措置であったかどうか」と不確定であると考える。確かに、「賤民」と規定したことになるかどうかの判断はむずかしい。

北川氏は「<かわや>の旧前の在所は河原であ」り、「『河原者』は『乞食』と同一視される存在」であり、「在地の権門寺社に隷属奉仕するもの」であった。それを「大名権力」が「軍事的必要から、その皮革生産者としての面でもって<かわや>として掌握した」が、「旧前からの河原者、乞食、掃除の者といった側面を全て捨脱してしまったのではない」と考える。
その証左として、「<かわや>役は「野役」と表記され、労働内容が多岐にわたっていた」ことや、弊牛馬処理が「捨り物捌き」として「物貰いや掃除の範疇でもって位置づけられていくものであった」と述べる。

この点においても、ほぼ同時期に、岡山では<非人>の在所が「両山」に集住させられ<山の者>と呼ばれることになった。<穢多>に関しては、新たに集住させられるより、「枝村」として本村に従属するように固定化されている。


北川氏は<かわや>を「権力がどう身分的に区別して捕捉したか」を検討する。

いわゆる近世初頭成立説では、<かわた>身分固有の身分的特権と、身分的負役の設定をもって<かわた>身分の成立=賤民身分の成立だと説く。これら固有の特権付与と負役賦課における<賤>の論理の在、不在が検証されなければならない。

まず北川氏は長州藩の「近世身分編成」そして「仕役」賦課から検証する。

「非人」は「往古」に「穢多」から「旦那」場の分与を受け、「市中貰湯の乞食」を免許されて「渡世」を得るとともに、同時に「穢多」への「相応の仕役」を義務づけられている。

北川氏も述べているように、本来は藩権力が「穢多」あるいは「非人」に対して「旦那場」の給付とそれに対する「仕役」という関係であるが、「穢多」による「非人」支配としての関係となっている。

…こうした事例からすると、賤民身分の編成と支配は、<仕役>勤仕と<旦那場>付与という、奉仕-保障の設定と維持によってなされている。つまり、旦那場という身分的特権(身分的所有)の付与は、身分的負役としての仕役勤仕(隷属奉仕)の反対給付として存在するのであり、…こうした仕役賦課による職分編成、身分設定の方式の登場こそ、近世身分制度の成立として注目できる。

つまり、北川氏は「仕役賦課による職分編成、身分設定」が賤民制度を成立させている要件と考えている。問題は、「如何なる仕役によって賤民身分は編成されたのか」である。
北川氏は「仕役」について考察していく。

<かわや>の負担は皮革上納だけであったのではない。…<掃除役><牢番役>などが<かわや>の仕役とされている。また、山口「垣ノ内」では当初(慶長九年)から「郷中夜廻役」が賦課されており、支藩徳山領では「籠番」「拷問」「非人払」の役務に「穢多」が当てられている。
こうした<かわや>への牢番役、掃除役、警番役などの賦課は、如何なる理由によるのか。
大山喬平氏の研究「中世の身分制と国家」によると、中世にあっては、警吏、追捕、葬送、弊牛馬処理、声聞師、猿楽、乞食などは、「キヨメ」=「掃除」という職分範疇でもって、しかも「rタ」「非人」のそれとして一括、連関されるものであった、という。
ここに<かわや>への牢番役、掃除役、警番役という職掌連結の歴史的根拠と、<賤>の論理の介在が見出させることになる。中世以来の<伝統と慣習>の継承、<賤>の論理によるところの仕役賦課、職分編成である。

北川氏は、中世以来の「歴史的な<賤>の論理にもとづく(イ)<かわた><葬送><掃除>の三者の連結と、(ロ)<掃除役>を介しての<かわた>の権門寺社への隷属、および(ハ)その<掃除役>奉仕の反対給付として特定権益の保障、という関係方式」が成立している、すなわち「中世以来の権門神社と賤民層との間での奉仕-保障、隷属-保護の関係方式は、実に幕藩権力において肯定、継承されて」いることから「<掃除役>と連関させられていることにおいて<かわた>は賤民なのである」とする。

近世大名権力は、<かわた>が従来保持してきていたところの河原者、乞食、掃除の者といった側面をテコに、これを<掃除役>などという<賤>の論理を内在した<仕役>賦課の形で職分編成することによって、その賤民身分としての設定を行っているのである。掃除役、牢番役、警番役などといった仕役こそは、賤民身分支配の鎖錠をなす。

中世と近世の連続性という面ではやや強引な結論のようにも思えるが、中世以来の<掃除役>に集約される<仕役>に基づく「関係方式」に着目して、その関係方式が権門寺社から幕藩権力に移行しても継承されてきたことが「賤民」を規定しているという論理(<賤>の論理との関連性)は首肯できる。


では、<かわた>などに対する「賤視」「卑賤観」はどうであったか。

北川氏は戦国期における軍事的動員と武功に対する恩賞(厚遇)をいくつか例示しながらも、「<かわた>は近世初頭から行刑的、懲監的な役務を負わされており」、「懲罰、制裁、あるいは治外、亡命として効力を有するということは、社会的な蔑視、…格外身分とする卑賤観なくしてはありえない」とする。そして「<はちや>や<かわた>が警察・行刑機構の末端に充用されていっている積極的な理由」をそこに見る。

中世以来の<賤>の論理、すなわち<賤視観>や<卑賤観>が前提として存在し、それを巧妙に軍事的また「警察・行刑機構の末端」として「充用」しているのである。それゆえの「賤民」であり、戦国大名が領国支配を整えるために、新たな身分的統制を行ったことで、賤民支配の体制が成立していったのである。

北川氏は「長州藩について云えば、慶長9年(1604)、山口『垣ノ内』への隔離と『郷中夜廻役』の賦課という事実にこそ、賤民制度の開元は示される」と結論づけている。

正保二年(1645)三月、藩は山口「垣ノ内」の吉左衛門をして「領国長吏皮屋役」に任命。これに藩内各「皮屋役中」への沙汰を執行させるとともに、年間100枚の「特牛皮」の上納を義務づけている。いわゆる頭支配の成立である。

また、農民支配の一環として「<百姓>身分の相対的地位の優位性を強調と保障」のために「対比物、対置物としての<百姓以下のもの><至賤のもの>」を「顕示、具備」したと北川氏は言う。すなわち、「<百姓以下のもの>=卑賤者と刻印づけることによって、封建支配にとっての障害要素を<社会の敵><民衆の敵>に仕立てて排除」したのである。

こうして寛文期には、「穢多」という賤称と、「穢多より下の者」という付会のもとに、これら「道の者」類までが身分的、制度的に隔別、統制される体制が現出。差別は民衆の世界で展開、浸透していく。
この<百姓以下>身分の極致的な形としての「非人」「穢多」身分の顕現と設定、その「穢多」「非人」身分との対比、対置によって百姓身分はその身分的、相対的優位性を顕明とし、保証されるのである。

北川氏の主張(論法)は、ある意味では「近世政治起源説」と受け取れる。百姓よりの年貢収奪と支配体制の維持のために、<百姓以下のもの>として「穢多」「非人」身分を対置させ、中世以来の<賤>の論理(卑賤観)を継承して民衆に刻印づけることで「優位性」と「賤視観」を自認させる。

百姓みずから「御百姓様」として身分的差別の主体となることによって、身分差別の秩序と論理は貫徹。みずからもまたみずからの首を締めるという身分支配の秩序と構造のなかにとり込まれるのである。

もちろん、賤民制の強化確立はひとり農民支配の面からだけで把握されるべきではない。賤民身分の側からの抵抗と解放への志向と行動、それへの体制側からの弾圧と反動としての制度の強化、導入、拡充、確立といった、歴史的対抗関抗関係のなかでこそ捉えなければならない。その点で寛文元年防州佐波郡での牢番役拒否事件は重視されよう。

当事件こそは、被差別部落住民みずからが、賤民身分規制の鎖錠であるところの<牢番役>-同時に人民弾圧機構への隷属-からみずからを断ち切り、人民大衆の側にみずからを解き放とうとしての要求と行動であった。このことは、とりもなおさず賤民支配体制への反逆であり、万治以来展開する賤民支配強化への抵抗であった。それゆえにこそ、藩権力はこれを逆に制度確立へのモメントに転化し、賤民支配体制の強化確立の推進と拡大をもってこれに対応、報復。拒否要求を抹殺したのである。

以上、北川氏の論文を概観しながら長州藩における賤民制の確立についてみてきた。論文中の史料は割愛したが、適宜の史料を引用しており、論拠としては的確である。ネット上に公開してあるので本稿を読んでいただきたい。

長州藩における賤民制の確立は、岡山藩の動向とも合致している点が多い。「穢多」呼称への転換、<牢番役>などの<仕役>の任命、「頭支配」体制の成立などがそれである。岡山藩での「目明し」役や皮革上納などちがいがあるのは藩支配の独自性である。岡山藩の近世賤民制に関してはまとめるつもりでいる。

最後に、岡山藩の「御役目拒否闘争」と長州藩の「牢番役拒否事件」の異なる点は、岡山藩の場合は<役目>の内容(磔の死骸取り片付け)について「穢多」と「非人」との諍いである。拒否したい(要するに「死骸の片付けをしたくない」)が、「拒否(返上)」とは言い難いので、「非人」がすべきだという論理(「御百姓はしない」)に摩り替えている。同じ賤民身分でありながら対立している、巧妙な分断支配の効果とも考えられる。長州藩は直接に「拒否(返上)」を言明している。

両藩の賤民も、その<役目(仕役)>が単に「したくない」のではなく、そこには<仕役>=「賤民」の役目とされていること、自らが賤民(賤視・卑賤の対象)である(賤民とされている)ことへの「拒否」(抵抗)があると考える。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。