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立場性と主体性

ドイツ大統領ヴァイゼッカーは「過去に目を閉ざす者は,現在にも盲目である」と述べている。

今から26年前の1985年5月8日,リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領は,敗戦40周年にあたるこの日,ドイツ連邦議会で演説を行った。

罪の有無,老幼いずれを問わず,われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており,過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するために,老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり,起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は,またそうした危険に陥りやすいのです。『荒れ野の40年』より

【過去に目を閉ざす者は,結局のところ現在にも盲目となります】
(Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschliest, wird blind fur die Gegenwart)

歴史を学ぼうとする者は,この言葉を決して忘れてはならない。
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なぜ歴史を学ぶのかの問いに対する最も一般的な答えは,過去の教訓を現在に生かすためであろう。だが,その時に重要なことは,如何なる史眼・歴史観から過去を洞察するかである。史眼や歴史観はイデオロギーによって異なる。どの立場から,どの考え方に立って史実を考察するかによって解釈は大きく違ってくる。この自明のことが往々にして忘れられて,ただその解釈や考察が正しいと断定されてしまうことがある。

たとえば,ルイ16世の王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette Josepha Joanna of Hapsburg-Lorraine)は,フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際,「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」(Qu'ils mangent de la brioche)と発言したと紹介されることがある。直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが,かつてはお菓子の扱いをされており,ケーキまたはクロワッサンと言った方がわかりやすい。なお,フランスにクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は,彼女がオーストリアから嫁いだ時にフランスに伝えたと言われている。

しかし,この悪名高い言葉は,マリー・アントワネット自身の言葉ではないと言われている。ルソーが『告白』に,「家臣からの『農民にはパンがありません』との発言に対して『それならブリオッシュを食べればよい』と,さる大公婦人が答えたことを思い出した」とあり,この記事が有力な原典の一つであるといわれている。
アルフォンス・カーは,1843年に出版した『悪女たち』の中で,執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが,1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されていると書いている。トスカーナは1760年当時,マリー・アントワネットの父であるフランツ・シュテファンが所有しており,その後もハプスブルク家に受け継がれたことから,こじつけの理由の一端になったとも考えられる。また,ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある。
つまり実際は,この発言は彼女を妬んだ他の貴族達の作り話で,彼女は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり,他の貴族達から寄付金を集めたりするなど,国民を大事に思うとても心優しい人物であった。

当時のフランスでは,ブリオッシュは形が王冠に似ていることから『王の菓子』と呼ばれているが,パンに使う小麦が「一等小麦」であるのに対して「二等小麦」(皮に近い部分で甘みが少ない)を使っており,値段はパンの半額程度であった。当時のフランス法には,「食糧難(パンの値段が高騰した)際には,パンとブリオッシュを同じ値段で売ること(パンを値下げすること)」と書いてあった。つまり,<高いもの(パン)が食べられないのなら,より安いものを>という意味であったのである。

ちなみに,ブリオッシュがバターや卵を利用したお菓子とほぼ同じとみなされるパンを示すようになったのは18世紀後半からであり,18世紀初頭まではチーズやバターなどの各地方の特産物を生地に混ぜて栄養性と保存性を高めた保存食という乾パン的位置づけであった。また,当時のフランスでは,パン職人(パン屋)が勝手にパンを作ったり値段をつけることはできず,パンの大きさや形,値段は政府によって統制されていた。
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ピラミッド建造の理由について,近年,「公共事業」であったと考えられている。侵略した国から連れてきた奴隷や農民を使って過酷な労働をさせて作ったのがピラミッドという歴史認識を一変させる学説である。

かつてエジプトでは,毎年ナイル川が氾濫し,耕作地のほとんどが水に浸かり,その間,農民たちは農作業ができなくなった。そうした農閑期の農民を雇い,労働の見返り(報酬)として食物を支給することで,農民の生活を支えたとする<公共事業説>である。また,石切場に残された労働者たちの落書きには,クフ王に対する恨み辛みの言葉はなく,むしろ王を賞賛する詩や歌が記され,陽気な労働者の姿が浮かび上がってくる。さらには,二十数年の歳月を必要とするピラミッド建造だが,300万もの巨大な石材を積み上げるには,二十年間休みなく1日に300個以上の石材を積み上げなければならないそうである。日が沈めば作業は中断する。計算によれば,2分に1個のペースで石材を積み上げたことになる。奴隷を鞭で打ちながらの強制労働で可能だろうか。こうした過酷な作業を可能にできたのは,労働者を効率よく動かすことができたからで,王直属の専門職として雇われたプロの現場監督(指揮者)と,意欲をもって積極的に建造に参加した労働者がいたからである。
歴史家ヘロドトスが書き記した,神官たちから聞いた,厳しい強制労働にかり出された人々の苦しみはどこにあったのだろうか。
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ここ十数年の間で部落史に関する教科書記述がどれだけ変わったかは,江戸時代の身分制度において「士農工商」が消えたことからもわかるだろう。近世政治起源説から解釈されてきた史実(史料)があらためて問い直されている。同じ史料でも解釈によってここまでちがうのかと考えさせられることが多い。だからこそ,史実(史料)を解釈する場合に,史眼や歴史観が重要なのだと思っている。

また,特定の時代や特定の地域に関する史料のみから歴史像を解釈することにも疑問を感じている。時代や地域によって,その史実を成立させた歴史的背景や人々の想念,社会意識が異なっているのは当然のことである。共通性もあれば独自性もある。被差別民の呼称と役負担が地域によって異なることを考えてもわかることだろう。

「木を見て森を見ない。森を見て木を見ない」という比喩に象徴される歴史学者が陥りやすい専門性による狭い視野と認識は今までも指摘されてきたことだ。専門的な知識は必要だが,それが単なる「物知り」で終わってはいけないと思う。部落の源流(起源)に「ケガレ」が大きく影響していることはもはや疑う余地はないだろう。だが,いくら「ケガレ」を考察し,「ケガレ」の歴史的変遷過程や民衆への浸透過程を解明しても,「部落差別を解消するため」という目的と視点が欠けていれば,それは単なる「物知り」でしかない。

「教科書に部落の歴史が記述されて久しいのに,なぜ部落問題(差別)は解消されなかったのか」という疑問を聞くことがある。大きくは解消されてきていると思うが,やはり教科書の記述内容にも問題があったと思う。しかし教科書という性格上,それは仕方のないことだと思う。なぜなら教科書は「史実を知識として述べているだけ」だからだ。被差別民の呼称・仕事・役割・社会的な位置などを「知識」として記述してあるだけで,部落問題の解決という目的から書かれていないからだ。

すばらしい中世の庭園を造った河原者という記述があって,生徒はその史実に驚嘆しても,「でも彼らは差別されたんでしょう」という一方の史実も学習する。そして,なぜ社会や文化に役立つ仕事をしても差別されたのかという疑問とともに,差別された人々という認識が強く残る。差別された人々と自分を照らし合わせて,その時代に生まれなくてよかった。そのような人々にならなくてよかったと思う。そして差別は他人事となる。数十年間も繰り返されてきた悲劇だ。部落のマイナスイメージを消すためにプラスイメージをいくら強調しようとも,人々の意識は数式では変えることはできない。

「祖先は武士です」とか「由緒正しき家柄」ですとか聞くことがある。自分のルーツを探すために歴史を遡る者もいる。十世代前の祖先がどれだけの数になることか。祖先が武家であろうが公家であろうが,それが如何なる意味をもつのか。武家や公家に価値を見いだそうとする愚かさもまた,特定のイデオロギーでしか歴史を見ていないことの証左である。

祖先が武士であるとか士族であるとか,藩の家老職にあったとか,さらには歴史上の有名人の「子孫」「末裔」であるとか…このような話を聞くにつれ何とも言えぬ違和感を感じる。自分の祖先と同じ「身分」を一般化させて,その身分を誇って何になるというのだろうか。「百姓」身分が立派であれば自分の祖先も立派だと言いたいのか。
逆に江戸時代の「身分」を卑屈に感じるのもおかしな話である。まるで自分自身が「差別」を容認しているかのように聞こえる。「武士」と比較しての「百姓」「町人」「穢多」「非人」の身分序列が現在も続いていることを証明しているだけでしかない。いつまでこだわり続けるのだろうか。こだわっていないのであれば,そのような言葉・表現は無用である。部落差別の解消が「部落」を理由(根拠)とした「差別」を解消することであるならば,江戸時代の身分制度にこだわること,江戸時代の身分に基づく差別観にこだわることは時代の逆行につながると思う。

三十数年前,同和問題に関する懇談会の席上で,教え子の父親たちが発言した言葉を今も忘れることができない。

わしは部落の歴史などむずかしいことはわからんし,どうでもいい。ただ,差別するのもされるのも,わしは好かん。わしの横におるこいつは部落の者だが,小さい頃からのダチだ。どんなことがあってもそれは変わらん。エタであろうがヒニンであろうが,そんなもんは昔の話であって,わしには関係ない。こいつにも関係ない。昔も今も,差別する者が悪い。それだけのことだ。
江戸幕府が差別をつくったのでもだれがつくったのでも,そんなことは知らんし,どうでもいい。理屈などわからんでも,おかしいものはおかしい。わしは勉強はしとらんし,高校も行っていない。学歴がないから仕事も限られる。でも,それを家の貧乏のせいにも,国のせいにも思っていない。学歴がないことを恥ずかしいとも思わん。同じように,部落だからと差別されたのを,江戸幕府や国とか,誰かのせいと思っても仕方がない。差別するかしないか,それだけのことだ。
正しいことを知るのと,実際に差別するかしないかは別の話だ。差別されとったか,差別されてなかったとか,そんなことを知っても,現実に,わしら部落は差別されとる。だから,今とこれからをどうするかで,差別の歴史を知ってどうするかが大事だろう。
わしら部落の祖先が,やれ庭造りで立派だったとか,医者をやっとった者がおるとか,金持ちがおったとか,役人だったとか,そんな昔のことを知っても,差別されとる今が変わるはずもない。むずかしい学者の理屈で人の心が変わるとは思えん。学者は正しいかまちがいか,そんなことばかりだ。この世の中から差別がなくなるためには何ができるかを子どもに教えてくれればいい。学者の理屈を教えるよりも,人の悪口を言わん子どもに育ててくれればいい。

「穢多」にせよ「新平民」「特種部落」にせよ,言葉(名称)には,込められた意味と背景がある。言葉(名称)が「差別語」(差別的な意味)に転化するにも意味と背景がある。だが,単純に<使うかどうかの問題>にすり替えられてしまいがちである。「差別語」を単なる「言葉」と理解してはいけない。「差別語」を生み出したり,「差別語」に転化させたりする社会や人々の意識こそを問題としたい。行政用語であろうが,使用するように洗脳されようが,「差別語」に転化して自らの差別意識を表現した社会や人々の認識が問題であることを忘れてはならない。

国賠訴訟の勝訴を伝える報道では,「ハンセン病元患者」という言葉が多く使われた。その言葉は,現在では「ハンセン病回復者」に改められているが,それは「元患者」という表現の背景に,尚もハンセン病及びハンセン病患者に対する差別や偏見が残っていたからである。

例えば「元盲腸患者」「元風邪ひき患者」とは決して言わない。「ハンセン病元患者」という言葉は,現在治癒しているにもかかわらず「かつてハンセン病患者であった」という病に対する差別と偏見を残存することにつながる。全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)では,現在,施設に入所されている方を「入所者」という言葉で統一しているが,「強制隔離」の歴史的背景を考えれば納得できるものではない。

「ハンセン病」という病名を伏せて「難病」と置き換えても,「差別語」を使うかどうかと同じく,「本質的な」解決には結びつかない。

単に「難病」を煩っているという程度の認識ではなく,「ハンセン病」患者であるという自己存在への認識,それは同じ「人間として」見なされてはいない(扱われていない)という深い絶望であった。だから,彼らは,単に「ハンセン病」が治癒されているという意味だけ(そうであれば「ハンセン病治癒者」の方が的確だろう)ではなく,「(奪われた)人間(としての自己存在)の回復」という意味を込めて「ハンセン病回復者」と名乗るのだと思う。長島大橋が「人間回復の橋」と呼ばれるのも同じ理由・想いからである。長島に絶対隔離され,隔絶された世界の住人であることを余儀なくされ続けてきた彼らにとって,長島大橋は<絶望から希望への架け橋>なのだ。

研究というものは日進月歩で進化・発展していく。歴史研究においても新しい史料の発掘や解釈の多様性によって,それまで通説・定説と信じられていたものが大きく転換することは多い。このことは,ここ十数年間の<部落史の見直し>において顕著である。同じ研究者であっても,以前とは異なる見解を述べることもある。一向一揆起源説を唱えていた寺木伸明氏も考えの変化を誠実に述べている。また,上杉聰氏も旧版の『天皇制と部落差別』を大幅に書き直し補注を加えた新版を出版した。その中で上杉氏が述べているように,「部落史をめぐるこれまでの定説が多く崩壊し,新たな史観がいまだ成立せず混迷している」「過去の枠組みが崩れて次の新しい共通の考えが形作られるまでの過渡期にある」のが現在である。

私自身も,多くの先学から学び,研究論文や史料を読みながら考察と研究,日々の試行錯誤の実践を行ってきた。部落史に関わり始めた当初は専門書も少なく,歴史知識も乏しい中での考察と実践であり,今振り返ると恥ずかしいような拙いものであった。まちがった認識や主張,実践も多くある。だが,それらもまた自分史の過程であると思う。遅々なる歩みではあるが,新たな史料によって,先学の研究成果によって,自分なりの考察によって,認識と知識が変換したり深化したりしている。私は過去に固執して新たな学説を受け容れぬ偏狭な人間ではないし,まちがいは素直に認めたいと思っている。自説の正当性ばかりを主張しようとも思っていないし,自己流の解釈を絶対に正しいとも,不確実であることについて自らの推察を確信して断言しようとも思ってはいない。また,何よりも「変わること」が人間のすばらしさであると自認している。ただし,一点において変わらぬものは部落問題を含む人権問題の解決への意欲である。

振り返れば,意見や主張の相違から論争も議論もおこなってきたし,袂を分かつことになった友人もいる。その時々においては仕方ないことだと思っていたが,今から思えば自らの思慮や配慮のなさ,意固地になっていたことなど反省すべきことばかりで申し訳なく思う。誠実と謙虚の大切さをあらためて思う。部落史が多様な部落史像を内包するように,部落問題・人権問題の解決への道標においてもまた種々なる方法と実践があって当然ではないだろうか。「批判のための批判」「論破すること」に終始することが,部落問題の解決につながるとは思えない。なぜなら,部落問題は,哲学・数学のような学問上の課題ではなく,実際の日常生活を生きる人間の営みの中にあり,差別は人間関係の中にあるからである。人間のあり方・生き方,人間の感情・意識・思考,他存在との関わり方,社会のあり方を問うことで解決がはかられていくものだからである。

研究の延長線上には必然的に叙述という問題がある。叙述は対象の記述にとどまらず,叙述主体の表象でもある。そこで問題となるのが叙述の立場性である。しかし自分を見ても周りを見わたしても,時として自らは透明的存在もしくは超越的存在として単なる観察者や判定者になってしまったり,傲慢にも他者の代弁をしてしまったりする場合があるのではないかと感じてしまうことがある。何も部落史にかぎらないが,差別問題叙述においては差別-被差別や部落に対する位置や距離のとり方の問題こそ重要なのである。したがって私にとって部落史に関して研究・叙述するという意味は,部落に生まれ育った私というものから離れて存在しない。これは逆にいえば,部落に生まれ育たなかった人にとっても,位相は異なれど私と同じ地平にあると思われる。うまくいえないが,自分の中に歴史を読み込む,もしくは歴史の中に自分を読み込む作業であり,自らとも向き合う部落史研究や叙述のあり方が問われているのではないだろうか。

これは,畑中敏之氏の「誰がかれらを『穢多』と呼ぶのか」(『身分・差別・アイデンティティ』)の冒頭に引用されている朝治武氏の一文(「自らと向き合う部落史」『水と村の歴史』)である。この一文を引用して,畑中氏は「…『立場性』とは,いわゆる単なる出自などではない。研究(叙述)対象に向き合う研究者の,その研究・叙述の立場・主体性が問われているのだ。」と書いている。

いかなる研究や叙述にも言えることだが,特に「人権問題」「部落問題」に関する研究・叙述においては,被差別者・マイノリティの存在が研究対象であるがゆえに,また,同じ人間として,同じ社会(世界)に存在する者として,この問題に関わる必然的当事者として,すなわち自らの生き方やあり方を問いながら研究・叙述しなければならないと思っている。しかし,朝治氏が書いているように,ともすれば研究対象を自らとは関係のないものとして見てしまいがちである。部落史においては遠い昔の人間模様のように見てしまい,分析と考察の対象として見てしまう。過言すれば「他人事」のように見てしまうことがある。だが,それは「研究のための研究」でしかなく,そこには実生活を生きる自己への問いかけはない。

…歴史的存在としての部落民という概念は広い意味で部落差別を克服して部落解放を実現しようとする意識に基づいて自らを肯定的に自覚し,それを言語化したり,何らかの形で外部に表現することによってこそ成立するものであり,また近代という時代の歴史的諸段階に照応しつつ変化するものであると考えている。
部落民としての主体形成の核になったのは,単なる被差別という受動的なものでなく,歴史的に形成された部落のもつ独自性の自覚のうえにたって,自らを社会的に肯定的な存在であるとする部落民意識というべきものであった。
(朝治武『水平社の原像』「あとがき」)

部落問題を論じる際,部落民を「被差別者」と位置づけ,その対比として部落民以外を「差別者」と定義する二分法がよく用いられてきたが,これに関して私は以前から違和感を感じてきた。自らを「被差別者」と位置づけて,他を「差別者」と批判することも,また自らを部落民でないから「差別者」であると懺悔しているかのように装うことも,その内実の欺瞞性を感じてしまう。何より,二分法はどこまでも平行線でしかなく,部落問題は「対立構造」からは解決しないと考えているので,「被差別者」「差別者」と分立させて論じる考えには反対である。

朝治氏の「部落に生まれ育ったというだけでは歴史的存在としての部落民ではない」という言葉は,部落外の人間にも適用される。部落問題について自らの問題と自覚し,主体的に解決に取り組むことで歴史的存在となることができ,すべての人間にとって人権が尊重される社会を構築することにつながるからである。なぜなら,部落差別の歴史は部落民だけの歴史ではないからだ。<差別する存在がいるから差別される存在がいる>のであって,決してその逆はない。

部落民が「歴史的に形成された部落のもつ独自性」をもつのであれば,部落民以外の者にも「歴史的に形成された独自性」がある。その意味で,部落問題の解決は<多文化共生会の実現>でもある。しかし,いくら人間が「歴史的存在」であるとはいえ,過去と現在を強引に結びつけて自らを過去に呪縛してしまうことには反対だ。朝治氏のいう「歴史の中に自分を読み込む」ことと,自らの祖先(過去)によって自己存在を固定化させることとはまったく別である。
すなわち,部落問題に関わる「歴史的存在」とは,歴史の連続性の中に自らも存在していることを認識して,部落史を各時代における部落問題として考察・研究しなければならないということだと考える。

「単なる被差別という受動的なものでなく」とは,偏狭さや卑屈さ,その反動としての高慢さの否定を意味していると思う。つまり,人間を「肩書き」や「知識」「業績」でしか判断できない偏狭さ,人を批判的にしか見ることができない高慢さ,人を猜疑心でしか見えない卑屈さなどからは「自らを社会的に肯定な存在」とすることはできない。どのような社会的逆境の生育であろうと,世間から不当な差別を受けていようと,人や世間,国家のせいにせず,自らの人生として前向きに甘受し,自らの人間性を高める道があることを示しているのだと思う。なお,だからといって,社会変革を否定したり,弱者に我慢せよと言ったりしているのではない。社会や国家を問うと同時に,自らの生き方やあり方,他社との関係性を問い直すことの必要性を提言しているのである。

朝治氏の研究や叙述は独りよがりの独白のためでも自己正当化のためでもない。多くの研究者との交流の中で吟味・切磋琢磨された提言は,部落民としていかに生きるかを追究された結果である。そして,「歴史的に形成された部落のもつ独自性の自覚のうえにたって,自らを社会的に肯定的な存在である」とは,部落民であろうがなかろうが,そんなことに一切関係ない自己存在の確立と社会関係の構築が目指すべき方向性であることを意味しての言葉と思う。朝治氏の言葉,部落問題に関わる研究者・教育者としてだけでなく,人間としての生き方・あり方についても示唆された思いがする。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。