<特別病室事件>再考(6)
なぜ、栗生楽泉園に「特別病室」が造られたのか。私は、どうしても光田健輔の影を見てしまう。沢田さんや高田さん、谺さん、そして「特別病室」で極限状況の日々を過ごさなければならなかった人たちの無念と執念を思うとき、深く解明せずにはいられない。
沢田さんが何を根拠にこのように思ったのかはわからない。ただ、1931年の大島青松園で起こった「ラジオ事件」(所内患者の慰安にと篤志家が寄付したラジオを施設側が集会所に設置はしたものの、患者に自由に使わせなかったため、大勢の患者がこれを持ち出して浜辺で壊した。その後、なお混乱が続いた)や、1933年の外島保養院で起こった「外島事件」、さらに1936年の「長島事件」など、患者の騒乱が各療養所で起こっていることを憂慮した園長が政府や厚生省に「監禁室」よりさらに厳しい「刑務所」の設置を求めていたことは事実である。
沢田さんは「日本の植民地であった朝鮮の小鹿島更生園には、1935年にすでに重監房が造られていた。これを内地の療養所に逆輸入した形である」(沢田五郎「特別病室はなぜ造られたか」)と書いているが、光田健輔は小鹿島更生園を視察している。当然、重監房も見ている。沢田さんの言うように、小鹿島更生園の重監房が念頭にあって、それに近いものを日本にも造ろうと考えたのかもしれない。
では、なぜこのような冷酷な監禁施設として「特別病室」を造り、無慈悲に放置する運用をしていたのだろうか。沢田さんは次のように推測する。
「養ってやっているのだ」「身のほどをわきまえず」という言葉は、「長島事件」に際して、童話作家で関西MTLの理事であった塚田喜太郎が「長島にも雨は降る」と題した一文で患者を非難した論理である。
塚田への反論を北条民雄が見事に書いている。まさしく「井の中の蛙大海を知らず」に続く言葉「されど空の深さ(青さ)を知る」を用いて、「井の中に住むが故に、深夜冲天にかゝる星座の美しさを見た。大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座の美しさが判るか、深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであらう」と書いている。
この北条の一文は、藤野豊の『「いのち」の近代史』によって知ったのだが、藤野はこの一文を読んで胸が熱くなったと、北条だからこそ書けた一文だと感無量の気持ちを繰り返している。私もまったく同感である。私も、塚田の文章に怒りに震えた後だから、尚更に北条の一文に感動した。そして北条の感性に心打たれた。
一方で、これは塚田一人の「感覚」ではなく、沢田さんの言う「当時の…社会通念」であった。世間の患者に対する「認識」と「意識」は、大人しく遜って甘んじていれば「同情」もするが、人並みを求めれば「生意気」「不届き」と責める。
だが、これも「時代的正当性」で片付けられるものではない。現在においても、たとえば「末利光」のような時代錯誤の歴史認識を持って光田健輔や小川正子を擁護する人間もいる。また、末が患者の対応を非難した「黒川温泉ホテル宿泊拒否事件」では、塚田喜太郎と同じような論理で患者を非難する手紙やハガキを送った人間も多くいた。一時的な感情ではなく、意見や主張として自分の考えを正当と思い込むことの恐ろしさである。
だからこそ、我々はハンセン病問題から学ぶべきなのである。人間として他者に対してどのように向き合っていくべきかを考えなければならない。他者との関係性(他者性の理解)は実際に他者と関わることでしかわかるものではない。先入観や偏見、まちがった知識や認識が創り出すイメージ、思い込みが悲劇を生むのである。まして権威や権力をもつ者が語る言葉が必ずしも真実とは限らない。にもかかわらず、肩書きが信憑性を担保して一人歩きを始め、拡散していく。
私は「特別病室」に送致した園長はその後の患者が気にならないのかと疑問を呈した。光田健輔はすべての患者の氏名を覚えていたと言われるが、また彼の著書などには軽快退所や転園した患者についての記述は見受けられるが、自らが「特別病室」に送致した患者についてはまったく記述がない。林芳信にしても宮崎松記にしても同じである。
ふと疑問が浮かんだ。沢田さんの言うことが事実であれば、他園の園長は楽泉園に転園させたのであって、送った患者が「特別病室」に入れられていることを知らなかったのではないか。また、入れられるとは思っていなかった。たとえ知っていても、転園させた以上は管理責任は楽泉園の園長にあるのだから口出しはできない。そう思っていたのではないだろうか。
1940年、熊本の本妙寺部落が警察隊によって急襲され解体された。患者80数名が検束された形で菊池恵楓園に収容された。その中心であった者とその家族27人が楽泉園に送られ、うち9人が「特別病室」に入れられている。このとき、本妙寺部落の解体で指導的立場にあった一人が菊池恵楓園長宮崎松記である。本妙寺周辺の患者住所の地図を作成した潮谷総一郎は全国の療養所に分散収容された患者を訪ねている。当然、栗生楽泉園も訪問している。「特別病室」にも立ち寄ったのではないかと思うが、その記述も回想もない。もし見ていれば、その様子を宮崎松記にも光田健輔にも報告しているはずだ。それよりも、楽泉園の古見園長が宮崎と事前の打ち合わせをしていないとも、光田の意向を伺ってないとも、想像しにくい。
では、どのように理解すればよいのだろうか。光田の強い要望で造られた「特別病室」である以上、構造においても光田の意向は反映されているだろうから、やはり光田は「干し殺し」を容認していたのだろう。