「誹謗中傷」の背景(3) … 「人間性」の問題
東京オリンピックの頃、現在と同じようにSNSなどでの「誹謗中傷」が大きな社会問題となった。そして現在、事態はむしろ悪化している。連日のようにTVや新聞などで専門家やコメンテーターが様々な角度から分析・解説をして問題点を指摘しているが、何ら改善は見られない。一時の感情にまかせての言いたい放題の「コメント」がネット上を闊歩している。
私自身、20年近く前から5年間ほど、ほとんど毎日、山口県のキリスト教の牧師によって、その人物のブログ上に「誹謗中傷・罵詈雑言」「フェイク」等々を名指しで書かれ続けた。プロバイダーに正式に削除要請をして対応してもらったが、プロバイダーを替えて再掲して続けるので、再度の削除要請をして対応してもらったが、三度プロバイダーを替えた。再掲はしていないが、その気配は漂わせている。一面識もない人間を遠隔地からネット上で「誹謗中傷・罵詈雑言」を繰り返す執拗な攻撃性は尋常とは思えない。
私から「誹謗中傷・罵詈雑言」を受けていると「被害者」を装って書くが、「具体的」には一切書かない。彼の文章には「具体」がない。抽象的な言葉の羅列であって、具体的な事実内容も氏名もすべて書かれない。実に狡猾な手法で他者を攻撃する。
どうすれば心が傷つくような「投稿」を防ぐことができるのかと考えてみても、結局は犯罪を防止できないのと同様なのではないかと思わざるを得ない。むしろ、それ以上にむずかしいかもしれない。本人に「自覚」があるかないか、この程度なら、悪いのはその人間だから、善意でしているのだから、正義のためだから…自己正当化であればやめることはないだろう。
では、「悪意」から意図的に攻撃する場合はどうであろうか。当然、本人は「自覚」しているだろうが、その場合は「見つからなければ」「わからなければ」という「匿名性」を活用して、法律に抵触するかどうかを意識して書くだろう。
数年前に拙ブログに書いた、「誹謗中傷」に関する記事を、あらためて数回に分けて抜粋して再掲することにした。少しでも私の体験や考えが役立ってもらえれば幸いである。
ブログを「日記」として利用している人は多い。個人的な出来事から時事問題まで日々思いつくままに意見を述べたり,自分の人生を記録するための備忘録のように書き綴ったり,読んだ本の感想を書いたり…さまざまな意図や目的でブログに「日々の徒然」を書いているのは,偶然に目にしても微笑ましい。そこには,その人物や関係する人たちの日常や人生の断面がある。何を思い,何を為して日々を過ごしているのか,その人生をひたむきに生きている姿がそこには描かれている。時に感じ入ることも,時に勇気づけられることもある。その人が生きる喜怒哀楽の中に,人生の共感を得ることができる。
また,学問的な研究論文の発表の場として活用している人もいる。自分の専門分野に関する紹介記事であったり,自らの研究した学術的な論文であったり…情報源としての役割を十分に果たしている。そこには大いなる「学び」がある。
その一方で,ブログやSNSなどを「悪意の攻撃」として利用している人間も多い。なぜ,こんなことを書くのだろうか,なぜ他者に対して不愉快なことをあえて書くのだろうか…そのような投稿を目にするたびに思う。
現在開催されている東京オリンピックの選手に対して「誹謗中傷・罵詈雑言」がSNSに数多く投稿されているという。悪意ある攻撃もまた,書く人の「人間性」に由来する。母国愛,ファン(応援)心理,敵愾心,嫉妬心,話題への便乗,悪ふざけ…など,その理由はさまざまであり,一時的な(その場・その時の)感情からの軽薄な投稿がほとんどだろう。だが,それらの投稿は書かれた人間の心を深く傷つけることはもちろんだが,その投稿を目にする人たちを不愉快にさせる。それだけではなく,このような投稿を扇動すること(拡散)にもつながっていく。人間としての正常な判断や冷静な言動を麻痺させる作用を引き起こす。そして,負の連鎖が起こるのだ。
どれほど古今東西の碩学の言葉を並べようとも,深遠なる真理を求めて思索に生涯を賭した哲学者や思想家の書物を引用しようとも,あるいは宗教の教義や解釈を持ち出そうとも,自らの言動は自らが発したのであり,その一文やその言葉を発したのは自らの意思であり,結局は自らの「人間性」である。自己保身と自己正当化のために,万巻の書物や宗教書,哲学や思想から都合よく抜き書きしているに過ぎない。
「批判検証」「間違った学説や主張を糾す」等々の言葉とは裏腹に,書き連ねるのは他者への罵詈雑言ばかりで,よく知りもしないにもかかわらず他者の「人間性」「人格」にまで言及して非難する。すべては自らの脳内での臆測からの臆測でしかないのに。それゆえ,確証を持って断定できないことは「~と思われます」「~のようです」などと推定・推量の言い回しを繰り返しながら徐々に確定・断定の文言へと変えていく姑息な筆法を多用する。これもまた結局は「人間性」に帰着する。そのような論法や筆法でしか文章を書くことができない,その人の「人間性」なのだ。
同じ文意や内容であっても筆法や表現によって,まったく異なる文章になる。「批判」が「非難」になる。怒りにまかせての感情的な一文になることはわからないでもないが,個人的な私信でない以上,公開が原則であるならば,数日の時を置いて冷静に読み返して修正(校正)するのは当然のことである。だが,それ以上に迷惑なのは,自分は正しいと思い込み,まちがいを糾してあげるのだと正義感と使命感から教える(気づかせる)ため,知らしめるために書いていると本気で思っている人間である。この類いの人間は,自分がしていることの善否すらわからない。悪意からの攻撃性で誹謗中傷・罵詈雑言を行う人間と同じくらいに始末におけない。
オリンピックで世界のアスリートが人々に感動を与えている最中,小田急線車内で乗客が包丁で切られる事件がおこった。事件の詳細はニュースに任せて,対馬悠介容疑者に強い殺意を抱かせた背景を問題にしたい。
動機について,彼はニュース報道によれば,次のように供述しているという。
一言で言えば,「身勝手な逆恨み」であるが,実は「誹謗中傷・罵詈雑言」の背景も同様のことが多い。「逆恨み」の背景には,自分の意に反することだけでなく何事においても「~させられた」という論理思考に走る人間が多い。客観的にみれば,「断れるだろう」と思えることや,「自分が選んだんだろう」と思えることなのに,ほぼ常に<誰かに>という他者や組織に「させられた」「命じられた」という責任転嫁で自己保身・自己正当化を図っている。「こんなことをしたのは」「誹謗中傷・罵詈雑言を行ったのは」<誰かに>〇○をさせられたからだという責任転嫁の論理,あるいは<誰かが>〇○をしたからだという自己正当化の論理である。
確かに不条理なことも理不尽なことも人生には多くある。「なんで自分だけが~」「どうして~」と思い込んでしまうことも多々ある。家庭環境,貧困,病気(病弱),容姿,身体能力,学力(学歴)…数え切れない他者との差はある。これらのことで他者を羨ましく思い,妬むこともあるだろう。コンプレックス(劣等感)となって心に沈殿することもある。貧困や家庭環境のため大学進学を断念せざを得ないこともある。組織の中で意に沿わない役員(委員)を命じられ,自分の考えとは異なる方向を示されたり結論に導かれたりすることもある。
だが,それらを(たとえ事実であったとしても)<誰か>のせいにして不貞腐れても,開き直って孤立化しても仕方がないのだ。理不尽さや不条理さをいくら嘆いても現実を受け入れるしかない。
「試練に出会ったとき,それをどう受けとめて,どうするかだ」とはよく言われることだが,真理だと思う。
不条理や理不尽を受けとめきれず,内面に「恨みや憎しみ」として増幅させ,それらは他者の責任であって自分は悪くないと思い込む人間に,「逆恨み」「仕返し」「鬱憤晴らし」などの心理が働きやすい。コンプレックスは他者への攻撃性へと転化する。学歴にコンプレックスを持てば高学歴の相手に対して,教師になれなかったコンプレックスは教師に対して,執拗な攻撃性として向かっていく。それは,時として「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のごとく,何事にもイチャモンをつけてくる。(かつてドイツのヴァイツゼッカー大統領の言葉「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」をブログで紹介したら,「障がい者差別者」と非難された)
コンプレックスや恨み,妬みが自らの中に強大化する中で,攻撃性とともに自己顕示欲が高まっていく。例えば,学歴コンプレックスをもつ人間がやたらと学問的話題に言及したり,難解な哲学などの学術書を読んだと自慢したり,何カ国もの言語を引用したり,古文書の解読を自慢したり…それらを繰り返し吹聴する。
随分と昔,フランスの俳優アラン・ドロンが所有する古城の一室を図書館のように書物でいっぱいにして,手に分厚い年代物の豪華本を広げて写っていた冊子を見た覚えがある。成功者が富の次に自らを飾るのは教養(学問)であると誰かが書いていたのを読んだことがある。
本などお金があればいくらでも買える。時間があれば本などいくらでも読める。古文読解も語学習得もある程度は時間とお金があれば身に付けることはできる。しかし,その目的が自己顕示であったり他者を見下すことであったりすれば,何とも情けないことだ。
誤解されないように断っておくが,私は愛書家や読書家を否定しているのではない。古典研究者やバイリンガルを否定していない。古文書が読めることはすごいことだし,グローバル化においてはますます多言語が必要となるだろう。私が批判しているのは,その使い道である。
学問は真理の探究であって,自慢のためのアクセサリーではない。まして人を愚弄したり貶めたりする道具でも,コンプレックスを晴らす(紛らわす)ための手段でもない。
「俺はくそみたいな人生」という対馬容疑者も,人を妬む人間も,「人を殺せず悔しいが、乗客が逃げ惑う光景を見て満足した」という対馬容疑者の歪んだ人間性も,見ず知らずのネット上の人間に誹謗中傷・罵詈雑言を行う人間性も,五十歩百歩である。
人は人,それぞれの思いと考えで自らの人生を生きればよいのだと思う。苦悩も悲哀も突き詰めれば自らで乗り越えていくしかない。芸術も学問も,ある意味で「独学(独習)」だと思う。それに徹すればよい。
だが,人の世は,望むと望まざるに関わらず,人との関係によって成り立っている以上,人との関係を意識しなければならない。無人島で自給自足の生活,インターネットもなく,世界とも他者とも関わらず好きなだけ読書をして生活するのであれば「無害」であろう。
そういう生活を選ばないのであれば,自らの「人間性」を成長できないのであれば,せめて関係のない他者に対しては何も言わないで生きるべきだ。