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「解放令反対一揆」考察(2):史実から

最初の「認識」を間違えてしまえば,その後の推察や論理展開は先に進むほどに大きく歪んだ方向へと向かう。

先に「結論」を断定してしまえば,その後の検証や考察は重ねるほどに大きく矛盾し,綻びを縫いつなぐための辻褄合わせに終始することになる。独りよがりの独断に固着し,臆測を重ねれば,史料の読解や分析も偏向したものとなる。

現在,解放令反対一揆について考察作業を行っているが,江戸時代において末端の警察的役務を担っていた穢多身分の部落が隣村を含む農民にほとんど無抵抗で襲撃されたことについて考えている。
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ここで,北条県の警察機構について,『備前・備中・美作百姓一揆史料』(第5巻)に解説されていた記述を転載しておく。

捕亡吏
明治五年正月設置
十三名を任命したが,全員士族であった。
盗賊目付
明治五年三月に捕亡吏の下役として設置
旧民より選任し,旧藩の番役に替わって治安にあたらせた。
明治六年八月十三日,村目付と改め,各区に2~3人置いた。

北条県のほぼ全域で起こった「明六一揆」において,戸長・副戸長の屋敷とともに,盗賊目付の家も被害に遭っている。盗賊目付は「旧穢多身分」の者ではなく,かつての村役人であった「旧民」(百姓)より選ばれた者であり,各区に配置されており,約30人ほどが任命されていた。

『解放令反対一揆シンポジウム資料集』に被害状況の一覧表(美作血税一揆被害者リスト)が資料として掲載されているが,盗賊目付が任命されている村は部落ではない。
盗賊目付の被害は,打ち壊し25件・焼失1件である。

次に,一揆の鎮圧に際して殉死した「捕亡吏」に関する史料を載せておく。

捕亡吏羽根田政次ノ殉難
羽根田政次ハ,元鶴田藩士族ニシテ,北条県新設ノ際,捕亡吏トナル。明治六年五月二十七日,暴徒津山ニ侵入シ,西寺町ニ於テ動揺中,深ク渦中ニ入リテ鎮静ニ努力セシガ,突然銃撃アリテ,流丸ニ中リ,創傷ヲ負ヒタルモ屈セズ,刀ヲ抜キテ暴徒ヲ駆逐シ,二人ヲ斬リ,一人ヲ傷ツケテ,其身モ亦殪ル。官即チ左ノ賞状ヲ発セラル。

「捕亡吏」も「盗賊目付」も「旧穢多身分」の者,すなわち「旧藩の番役」ではない。
沈静化した後,各郡の農民を逮捕したのは,県が派遣した「一小隊ないし半小隊」の旧津山藩士より編成された銃撃部隊や大阪から派遣された鎮台隊である。

6月1日だけで300人以上の農民が入牢しているが,「旧穢多身分」の者が下役として追捕に動員されたという記述は,どの史料にもない。

7月3日,司法省から役人が出張して臨時裁判所が開かれ,判決が出された。
死刑15人,懲役65人,杖624人,罰金26203人で,当時の北条県の戸数5万6千戸を考えれば,ほぼ二戸に一戸が一揆に参加したことになる。

中津井部落では,解放令発布に伴い「盗人の逮捕や乞食の追い払い,死牛馬の処分」を拒否している。

遠藤半平盛通履歴秘事
明治六年五月廿八日,美作国内総て大騒擾之処,加茂郷内別て大変。拙老事,訳て説諭方尽力,六月二日迄四日之間,昼夜草鞋を脱せず,津山県庁え弐回度騒動向注進に付,堀坂村ほり切より両度共早駕籠に乗り出県,時之参事淵辺・小野両士に面談,如何にも鎮静致すにおゐて,何所に相働候共,丹誠尽力依頼候旨,申出候に付,両士之名姓を以て鎮静書下げ,至極長々之書面届相渡呉,直に引返し,津川原なめり川と申,斯之酒店に於て数百人之百姓え申渡し,色々説諭,数百之方共上申を始,朱取て候はゞ,聊も無遠慮拙者迄可申出候,願を□□□□何とか申立遣候,種々申なだめ候得共,大人数之義,逐一行届申間敷,乍然,多勢之憤盛追々静滅,翌廿九日夕方,十之七八迄引取申候。全く拙老尽力之故かと存候。
同六月二日朝四時,公郷村出張興津実より与四郎方え態飛到来,「御用之義にて候条,只今其内出張,公郷村惣市方え可罷出」旨申来候に着,即刻力雄同道,腰弁当用意,所々罷越見及候処,組子之足軽凡三拾人計り,次第厳重之列座,上席に興津出席,拙者立入候待受,一応之挨拶は扨置,有無を云せず,高手小手に縛り上げ,手強く拷問に及び,直に駕籠申付,縦横無尽縄を以てしばり,足軽并下た締り十人計警固,半途に於て,握飯締り人之もの喰せ候。漸く飢餓を凌ぎ,津山県へ着。夫より直に獄屋え行,上り屋入に相成。呼出し都合三度,六月二日より七月廿一日迄,日数四十八日に出獄,遠藤場平宅にて禁固可罷在旨被申付。同年十月,被呼出,場平同道裁判所に於,長居太兵衛申渡,除族帯刀取上候旨申聞,直に引。
同日,宇野村久永文四郎宅に罷帰る。力雄□□にて対面,親子歓喜に不堪,互に涙を絞る。
明治6年5月28日,美作国内全体で大騒擾が起こり,加茂谷ではとりわけ大事であった。拙老はとりわけ農民を説得するため,百方力を尽くした。6月2日までの4 日間,昼夜草鞋も脱がず,津山県庁へは2回,この騒動の動きを注進するため,堀坂村のほり切から,2度とも早駕籠に乗って県庁に出向き,時の参事,淵辺・小野両士と直接会って話をした。
どうにかして鎮静を図りたい,たとえどこで働こうとも心を込めて尽力するので,まかせてもらいたいと申し出ると,両士の署名による説得のための大変長い書面を書いて渡された。直ちに引き返し,津川原のなめり川という酒屋の前で,数百人の百姓達にその書面を申し伝え,いろいろ言い聞かせた。

「数百人いるお前達の上申の願いをはじめ,いまだ受け入られてはいないけれど, 少しも遠慮することなく私の所まで申し出てもらいたい」とあれこれ申しなだめたが,大人数のため全体にはその趣旨が行き届きにくい。しかしながら,大勢の盛り上がっていた怒りはしだいに沈静化し,翌29日夕方には,7・8割方が引き揚げた。これは私の尽力のせいかと思う。

同年6月2日,朝4時までに公郷村から出張してきた興津実から与四郎の所へ飛脚が来て,「御用があるので今すぐ出て来なさい。公郷村の惣市の所へ出て来なさい」と言ってきたので,すぐさま力雄をつれ,腰弁当を用意して,途中あちこと見回りながら到着すると,組子の足軽およそ30人ばかりが着座しており,上席には興津がいて,私が入るのを待ち受けていた。
挨拶はさておき,有無を言わせず,高手小手に縛りあげ,手荒に拷問された。そして直ちに駕籠を命じ,縦横無尽に荒縄で縛り,足軽と取締役10人ばかりが警固した。道の途中で警固の者らの握飯を食わせてくれ,ようやく飢えをしのいで津山県庁に着いた。それから直ちに獄舎へ生き,上げ屋( 牢屋) に入ることになった。呼び出しが3回あり,6月2日から7月21日まで,日数は48日で出獄,遠藤場平宅で禁固することを申し付けられた。
同年10月呼び出され,場平が同進し,裁判所において長居太兵衛から申し渡され,士族身分から除き,帯刀を取り上げるとの判決を聞き,すぐに引き下がった。
同じ日,宇野村の久永文四郎宅に帰り,力雄と対面,親子は喜びでいっぱいになり,互いに涙を絞った。

遠藤半平は加茂谷の一揆勢を説得した元津山藩士の一人である。当時,彼は加茂谷の中心部にある宇野村に仮寓し,私塾を開いていた。

彼は,突然に逮捕されている。その理由は,加茂谷三十二か村の要求書を捏造したという嫌疑であった。

彼を逮捕したのは北条県の「組子之足軽凡三拾人」の役人であり,「足軽并下た締り十人」による警固されて連行されている。

仮説を実証するためには,史料の客観的な分析と考察が優先される。自説に固執するあまり,自説を正当化するために史料を曲解したり妄想的推察をしたりするのは,史実を歪めるだけでなく,歴史そのものを捏造するものである。

解放令反対一揆における農民の部落襲撃は,農民が旧穢多身分の者をどのように見ていたかを端的に表していると思う。
農民は,彼らを自分たちとは異なる人間(「醜族」:鈴木七郎治の自供書より)と認識し,同じ人間でありながら自分たちとは「異なる」と見ていたのである。

現在の我々ではなく,当時の人々が穢多・非人と呼ばれた人々を「賤民」と見ていたのである。自供書に述べられている農民の部落民に対する「まなざし」がその証左である。

現在の我々は,部落民を当時の農民と同じく「賤民」と見てはいない。しかし,自分たちとは「異なる」という偏見や差別意識をもつ者は未だに多い。部落差別という排除・排斥の根底にある偏見・差別意識である。

解放令反対一揆が我々に教えてくれるのは,偏見・差別意識が生み出す悲劇である。史実を正しく考察することで,二度と同じ悲劇を繰り返さない知恵を得ることである。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。