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ハンセン病と明治の文芸(1) 幸田露伴と尾崎紅葉

ハンセン病を「題材」とせずとも、「ネタ」「挿話」としている小説や批評は少なくない。そのほとんどが、「悲劇」や「不条理」を誇張する「材料」として、「同情」や「悲しみ」「憐れみ」を誘う「手段」として使われている。

成田稔は『日本の癩対策から何を学ぶか』に「癩と文芸」と題した小項目を設けて、特に明治期の「小説」に見えるハンセン病の描写から、社会(世間)や人々の「認知」を考察している。

幸田露伴の『対髑髏』は、1890年に『縁外縁』と題して発表され、のちに改題されたものである。
河盛好蔵によると、『対髑髏』はわが国癩文学の先蹤をなすものであり、どこで誰をモデルにしたかは別として、誇張はあるにしても病状描写は精細を極め、これ以上のものをかつて読んだことがないという。『対髑髏』の文学的価値は別として、いずれ癩を病むと告げられたお妙は、神仏を恨み、憤り、悶え、数年後に病んで人に物を乞い流浪の身となり、世に捨てられ世を捨てて瞋恚の炎に身を焦がし、日光の山中をさ迷って死ぬが、たとえ一飯を乞うても盗みには走らず、その人間的な品格を失っていないのは尊い。

尾崎紅葉の『巴波川』は1890年に『新著百種』号外として吉岡書籍店から刊行されたもので、…。
紅葉の『巴波川』は、癩を病む宿命を持つ女は一度男と肌を合わせるとたちまち五体がくずれるという言い伝えからヒントを得ている。『対髑髏』と同様にどこにも癩という言葉はなく、その偏見的なイメージが広く行き渡っていたことをうかがわせる。
『団扇太鼓』は1899年の作品で、生田葵山の出世作といわれ、身延山に向かう、年若い癩を病む男順礼の身の上話である。…

…それでも、母と子の心理的交流の細やかさや、嫌悪される癩に人情を絡ませたところなどは評価されただろう。また、『対髑髏』や『巴波川』と違って、癩病と血筋という言葉をあからさまに結び付けている。現代からすると荒唐無稽な発想だが、このように小説に書きこまれているところをみると、当時としてはあってもよいことと理解されていたに違いない。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

成田が3人の作品それぞれから抜粋して引用している関係部分については、私の目的ではないので、孫引きは割愛している。幸田露伴にしても尾崎紅葉にしても有名な文豪であるが、その彼らが小説に「癩」をどのように描いているかを通して、当時の「認識」と「知識」がわかる。そして、彼らの小説によってハンセン病に対する「認識」と「知識」が拡がっていったことを、私は問題としたい。

1880~1890年代は、ハンセン病は「遺伝病」と信じられ、古くからの「天刑病」「業病」等が一般的な認識であった。また、「浮浪癩」と呼ばれるほど、神社や仏閣に集住し、物乞いをしながら徘徊していたハンセン病者も多く、人々から嫌悪・忌避されていた。

幸田露伴も直接にハンセン病者を目にしていたと思われるが、それにしても河盛の言うように「病状描写」は「精細」である。成田の引用している部分を読むだけでも、露伴の文章力には驚嘆するが、あまりのリアルさは人々にハンセン病の恐怖を与えてしまうことになる。

成田は続けて、森田草平が1923年から翌々年にかけて執筆した自伝的小説『輪廻』を「癩は遺伝病ということに徹した作品」と評して、主人公の年代を1900年あたりと推論し「この頃伝染説はほとんど社会に浸透していなかったかもしれない」と考察している。
さらに、同時期の作品である菊池幽芳の『小夜子』について「小説中で謙介が、癩は伝染病と聞いて安心したのではなく、癩の血を引いていないことで安心するあたりは、やはり遺伝にこだわった作品といってよい」と述べている。

1907年に「癩予防ニ関スル件」が成立し、全国を五区に分けた療養所が設置され、本格的に浮浪癩患者の収容が始まった。1931年、全患者の絶対隔離を目的とした「癩予防法」が成立・施行された。前年には、国立ハンセン病療養所長島愛生園が開園している。

こうした時代背景の中でも、作家でさえハンセン病を遺伝病と認識する以上、成田の言うように一般には「伝染病」という認識は拡がっていなかったのかもしれない。

成田は、1939年から新聞に連載された吉屋信子『女の教室』を取り上げている。私は『女の教室』を読んでいないので、成田がそのまま引用したの、それとも要約したのかはわからない。

主人公である女子医専の学生(万千子)が家族に結婚を反対された。その理由は、相手の父親が癩によって夭逝したこと。相手の父親は門前で行き倒れた西国巡礼を抱きかかえて家に入れて介抱した。その数年後に癩を発症した。その話を聞いた相手(恵之助)は、毒を飲み自殺した。主人公は一人前の女医となって瀬戸内海の島の癩病院に勤める。

級友が万千子を訪ねた折、万千子は、治療は大風子のほかに金オルガノゾルも試みているが効果は不明であり、現状では絶対隔離が必要である。天刑病という迷信から家を追われ、浮浪して黴菌を撒き散らし、国中に癩患者を増やすようでは国の恥だなどと言う。…10年後には、療養所以外に一人の癩者もいない文化国家にするのが理想であり、患者は気の毒で人類の犠牲という感じだが…

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

これだけを読めば、主人公が「小川正子」をモデルにしたように思えてしまう。1939年に至っても「癩の血統」を結婚相手からは避けている。

私が問題にするのは、小説によって擦り込まれる「イメージ」と「知識」「認識」である。小説だから「架空の物語」「想像の産物」と言い訳しても、時代の制約があるとしても、人々に与えるインパクトは大きい。

1879年、河竹黙阿弥は有名な事件「高橋お伝」を題材にした歌舞伎の脚本『綴合於伝仮名書』を新富座のために書き下ろした。名優尾上菊五郎がお伝を、夫波之助を市川小団次が演じている。
河竹黙阿弥に先立っては、仮名垣魯文が高橋お伝を題材に『高橋阿伝夜刃譚』を書いている。波之助がハンセン病者であることから、ハンセン病を遺伝病として、より陰惨な業病であることを強調している。河竹黙阿弥の脚本もまた、ハンセン病を「人の厭がる業病」「人の厭がる癩病」である「遺伝病」として誇張している。
藤野豊によれば、「小団次にハンセン病患者としての演技指導をおこなったのは、医師後藤昌文であった」とある。後藤の指導によって、小団次の役は大評判であったという。
だが、はたして迫真の演技や似せた容姿から観客は何を感じとっただろうか。ハンセン病者の苦悩や悲哀、不条理な宿業観に涙しただろうが、それでも我が身に置き換えてみてハンセン病の恐怖を思ったのではないだろうか。

この後藤昌文とは漢方医で、1872(明治5)年、東京柏木嶋子町に私設癩病舎を建設、さらに1875(明治8)年4月、東京神田猿楽町にハンセン病専門の起廃病院を設立していた。新聞紙上でも「東京府庁より施療券付与の癩患者を治療申し付けられたる有名な後藤昌文先生」と紹介されているように(『朝野新聞』1877年12月6日)、後藤は当時、ハンセン病治療の第一人者であった。仮名垣魯文が『高橋阿伝夜刃譚』の中で後藤昌文を紹介しているのもひとつはそのためであろうが、魯文は個人的にも後藤昌文と親しかったのである。…

このように後藤昌文は、ハンセン病には遺伝と自発の二つの場合があり、感染の可能性もあるが感染力はきわめて弱いと指摘し、完治することを強調している。
それではその治療法とは何かということになるが、後藤は、服薬と滋養物の摂取と薬湯への入浴の三点をあげている。ハンセン病が遺伝か感染かという点についての認識はあいまいであるが、それが完治すると明言したことは、それが1877(明治10)年の発言として考えれば、画期的である。後藤昌文は、はっきりと「業病」とか「天刑病」という認識を否定していたのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

1873年にノルウェーのハンセンが「らい菌」を発見していたが、それが日本にも(後藤の耳に)伝わっていたかは考えにくい。そうであれば、後藤は何を根拠に明言したのだろうか。後藤の治療法がどれほどの効果を上げたかもわからないが、海外でも注目され、彼の発行した雑誌が中国語に翻訳され出版されている。

ただ、問題となるのは、「業病」とか「天刑病」という見方を否定する後藤の認識が、どの程度、社会に影響を与えたかである。後藤のよき理解者・支援者ともいえる仮名垣魯文にしても、『高橋阿伝夜刃譚』のなかで見せたのは、まさに「業病」「天刑病」の世界であった。魯文にしても、「業病」「天刑病」という偏見に支配されているからこそ、後藤の行為を「親シク醜群ニ伍シテ広ク天下ノ廃人ヲ活起セスンハ死ストモ休マス」と絶賛したのである。
『起廃病院医事雑誌』よりも、『高橋阿伝夜刃譚』の法がはるかに民衆に影響を与えたのであるから、後藤昌文ひとりの力をもってしては、とても「業病」「天刑病」という偏見を打破することはできなかったであろう。

藤野豊『「いのち」の近代史』

戦後になっても、ハンセン病が小説の題材あるいは挿話となった例は少なくない。松本清張『砂の器』(1961年)、 遠藤周作『わたしが・棄てた・女』(1963年)、三島由紀夫『癩王のテラス』(1969年)、松下竜一『檜の山のうたびと』(1974年)栗本薫『グイン・サーガ』第1巻「豹頭の仮面」(1979年)など。
特に、栗本薫の小説は、「癩病」に冒された伯爵の描写が本来のハンセン病とは著しく異なり、差別を助長しかねないとして、全国ハンセン病患者協議会から作者と出版社に抗議があり、のちに改訂された。

私は小説など文芸がハンセン病や部落問題などを題材として、差別や偏見について取り上げることを批判しているのではない。小説家や評論家がどれほど関係書籍を読み込み、現地や関係者への取材を行っているかを知ってもいる。だからこそ、現実に差別や偏見に苦しんでいる人々がいることを、自分の書く小説が人々や社会に与える影響を考えてほしいのだ。

…お妙(幸田露伴『対髑髏』)の病状を隠すのではなく、読んで自らの顔にそれを被せれば、癩を病むことの恐ろしさとさげすまれる悲しみがよくわかる。こうして当事者(癩患者)の立場に立ててはじめて、たとえどこがどうであろうと「人は人」であることがわかるのであり、その故にこそ共感が持てる。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

長く部落問題に関わってきて思うのは、当事者意識の希薄さである。「他人事」「よそ事」と言い換えてもいい。<人は遠くのことについては美しい言葉を話すことができる>と、かつて友人は言った。現代人の「感受性」の乏しさを指摘した友もいる。ネット上で繰り返される「誹謗中傷・罵詈雑言」も、一時的な感情と自分勝手な正義感で罪悪感の欠片もない。
では、どうすればよいのか。私は、そのような時、茨木のり子の詩を思い起こす。

自分の感受性ぐらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。