光田健輔論(44) 不治か完治か(4)
大谷藤郎氏は、京都大学医学部で小笠原登氏に師事し、旧厚生省官僚としてハンセン病問題に関わり、「らい予防法」廃止に尽力し、「らい予防法違憲国賠訴訟」の証人として患者勝訴に貢献した人物である。大谷氏については別項にて述べたいと思っている。
大谷氏の時代区分はほぼ適切である。私は、第四期を戦後の「プロミン」導入期からと考え、大谷氏の「第四期」を第五期、「らい予防法廃止」から「国賠訴訟」までを第六期、以降から現在までを第七期と、細かい区分で考えている。なぜなら、戦後の区分はそれぞれが大きな転換期だからである。
沖浦氏は、次のように「絶対隔離政策」の背景を端的に整理し、その問題と責任を問うている。
私もハンセン病史において、この「第三期」(1931年~53年)までの「絶対隔離政策」確立期を最も重要と考えている。この時期の検証こそがハンセン病問題の核心を明らかにすることである。その中心は光田健輔であり、彼に影響された弟子・医師・政府官僚たちである。光田と彼らに対して、沖浦氏の言うように、単純な評価だけに終始していては本質は見えてこない。
もう一人、同書(『ハンセン病』)の中に「隔離の中の医療」と題して、光田健輔や小笠原登、犀川一夫、原田禹雄、神谷美恵子を論じた徳永進氏がいる。彼は同じ医師という立場と視点から、彼らの功罪を論じている。
それでも、光田健輔の責任を私は問いたい。なぜなら、ハンセン病医療の原点は光田であり、彼の主導によって「絶対隔離政策」が進められ、方針や政策などすべてにおいて光田の影響は大きかったからである。光田を追うことで、彼の為したことを検証することで、いつ・どこで・何が問題であったのかを明らかにすることができ、ハンセン病問題の核心と本質がわかると考えている。それが本論考の目的である。
確かに光田健輔の果たした最大の功績は、ハンセン病患者に眼を向け、その救済を始めたことである。だが、その救癩の本心は、ハンナ・リデルやドルワル・ド・レゼー、コンウォール・リーなどのような病者救済であっただろうか。彼らは、路傍に打ち捨てられたハンセン病患者の姿に衝撃を受け、キリスト者としての使命感に燃えて、私財を擲って病院を建て、救済に取り組んだ。
彼らと光田は何が違うのだろうか。医者と宣教師、日本人と外国人、キリスト者かそうでないか(光田は晩年にカトリックに入信したらしいが)、そのような立場の違いではない。バックボーンにキリスト教信仰があるかどうかも大きいが、それ以上に志向性の問題である。ハンセン病に対してか、ハンセン病者に対してか、向き合う対象の違いである。光田はハンセン病を「根絶(絶滅)」させようとしたのであり、彼らはハンセン病患者一人ひとりを「病い」から救おうとしたのである。
すべての元凶は、ハンセン病を「不治の病」と思い込むか、「完治する病」と思うかの違いに始まった。光田は終生、ハンセン病を「不治」と思っていた。それに対して、小笠原登は「完治」と信じていた。
徳永進氏は、「隔離の中の医療」で、光田と小笠原のらい学会での論争を『小笠原登先生業績抄録』より引用している。孫引きになるが、転載しておく。
小笠原登は「自分は隔離する必要はないと思う」という考えから、京都大学医学部皮膚科特別研究室助教授としてハンセン病患者への外来診療を貫いた。彼によって隔離から守られたハンセン病患者は1500人以上と言われる。光田健輔の弟子たちから批判を受けながらも彼は信念を曲げなかった。
徳永進氏は、二人の違いを、次のように的確に言い表している。私も同感である。
あらためて思うのは、光田健輔が病理学者ではなく医師としてハンセン病に向き合っていたならば、日本のハンセン病政策は別の道を歩んでいたのではないかということである。やはり、光田の最大の過ちは、ライ菌の消滅をハンセン病患者の絶滅に求めたことだろう。ハンセン病患者は保菌者であるから、彼らを「絶対隔離」し、断種・中絶して子孫を絶つことで、患者が死亡することで日本からハンセン病を根絶することができると、まるで数式のように「計算」し、そのわかりやすい図式を政治家に提示し、国策として実行させたのだ。光田の示した提案は、政治家にとっても国民に対して正当化しやすかった。やがて光田は医学者から政治的策略家へと変貌していく。自らが頭で描いた図式が形を為していく。図案が現実となって実現していく。これは光田にとって夢の実現であり無上の達成感であったことだろう。その喜びを「プロミンによる完治」などで崩されたくはなかったのではないだろうか。光田の「図式」は、ハンセン病が「不治」であることを前提に作られているからである。