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光田健輔論(44) 不治か完治か(4)

…大谷藤郎氏は、その労作『らい予防法廃止の歴史』で、明治維新から戦後の「らい予防法」にいたるハンセン病の歴史を、法律制定をそれぞれの画期として、次の四期の時代区分に分けている。
第一期は、発病した患者さんが家庭や村を追われて浮浪し、政府の無策に対して少数の宗教慈善家が救済にあたっていた明治初期の浮浪らいの時代。
第二期は、1907(明治40)年に法律第十一号が制定されて、浮浪らい収容を中心とした約25年間の公立療養所の時代。
第三期は、1931(昭和6)年に「癩予防法」が改正成立して、国立療養所となって以降、すべてのらい患者を隔離収容しようとした時代。
第四期は、1953(昭和28)年現行「らい予防法」成立以降の時代。

沖浦和光「はじめに――いま、何が問われているか」『ハンセン病』

大谷藤郎氏は、京都大学医学部で小笠原登氏に師事し、旧厚生省官僚としてハンセン病問題に関わり、「らい予防法」廃止に尽力し、「らい予防法違憲国賠訴訟」の証人として患者勝訴に貢献した人物である。大谷氏については別項にて述べたいと思っている。

大谷氏の時代区分はほぼ適切である。私は、第四期を戦後の「プロミン」導入期からと考え、大谷氏の「第四期」を第五期、「らい予防法廃止」から「国賠訴訟」までを第六期、以降から現在までを第七期と、細かい区分で考えている。なぜなら、戦後の区分はそれぞれが大きな転換期だからである。


沖浦氏は、次のように「絶対隔離政策」の背景を端的に整理し、その問題と責任を問うている。

…入手できていた外国からの新しい情報もすべて無視して、1931年からの第三期に入ると、T型をふくめてすべての患者を収容する絶対隔離が強行された。この絶対隔離政策に反対した小笠原登など大学研究機関にいた医師の少数意見は、国策に反する見解として排除された。
そして1931年の「癩予防法」の改正成立以後は、患者の「治癒」のためではなくて、死に絶えるのを待つという「撲滅」政策に転換していったのであった。撲滅ならば苦労して研究を続ける必要はない。したがって療養所の医療水準は「信じられないぐらい低い水準」になった。この背景には、アジア侵略に乗り出しつつあった国家の政策を是認し、それを後押ししていた当時の社会的風潮があった。その上にあぐらをかいて、当時の天皇制ナショナリズムのイデオロギーに迎合して、<民族浄化>の名のもとに「無癩県運動」に取り組んだ厚生行政と日本らい学会の責任はまことに重大である。とりかえしのつかない人権侵害となっていった。

…なぜ世界のハンセン病対策の歴史でもあまり例がない非科学的な偏見が国家レベルで流布され、人間性そのものを奪うような苛酷な差別が見過ごされてきたのか。…
特に長年にわたって、さまざまな立場の人間と思想が複雑にからみあった「差別の歴史」は、その当時の権力の志向を批判するだけで解明できるような単純なものではない。多様な視座と複眼的な思考、それに基づいた真摯な討議が、「癩-ハンセン病」差別の歴史的真実を究明する前提条件となる。

沖浦和光「はじめに――いま、何が問われているか」『ハンセン病』

私もハンセン病史において、この「第三期」(1931年~53年)までの「絶対隔離政策」確立期を最も重要と考えている。この時期の検証こそがハンセン病問題の核心を明らかにすることである。その中心は光田健輔であり、彼に影響された弟子・医師・政府官僚たちである。光田と彼らに対して、沖浦氏の言うように、単純な評価だけに終始していては本質は見えてこない。


もう一人、同書(『ハンセン病』)の中に「隔離の中の医療」と題して、光田健輔や小笠原登、犀川一夫、原田禹雄、神谷美恵子を論じた徳永進氏がいる。彼は同じ医師という立場と視点から、彼らの功罪を論じている。

ハンセン病の医学史を追うなら光田健輔のことを追わねばならないだろうが、今の時点で彼を裁くことでハンセン病の問題に決着をつけることには問題が残ると思う。ハンセン病患者の傍らに居続け、多くの医者たちがハンセン病の臨床を避ける中でその弟子となる人たちを育てた、という点では偉大であると思われる。それを光とするなら、ひとりの病者よりも国家ということを考えた明治の人間、自分がハンセン病国の国王と錯覚したら修正はできないという気骨を貫き通したところに、大きな落し穴、というより大きな欠陥、犯罪性、があったと言えようか。特に、戦後間もなくにプロミンという特効薬が出現した時、ひとりでも多くの患者にプロミンをという運動をしなかったどころか、10年の経緯を見ないとプロミンの有効性はわからぬと懐疑的だったこと。それどころか、そのころからかえって強制収容を強化したなど、自分の決めたことに疑いを入れなかった狭さが、大きな不幸を招くことになったことは、認めざるをえない。放置されたハンセン病患者の姿に義憤を感じ、自分は義人であらねばならないと決意し、推敲したところに、光も影も同居することになった。

徳永進「隔離の中の医療」『ハンセン病』

それでも、光田健輔の責任を私は問いたい。なぜなら、ハンセン病医療の原点は光田であり、彼の主導によって「絶対隔離政策」が進められ、方針や政策などすべてにおいて光田の影響は大きかったからである。光田を追うことで、彼の為したことを検証することで、いつ・どこで・何が問題であったのかを明らかにすることができ、ハンセン病問題の核心と本質がわかると考えている。それが本論考の目的である。

確かに光田健輔の果たした最大の功績は、ハンセン病患者に眼を向け、その救済を始めたことである。だが、その救癩の本心は、ハンナ・リデルやドルワル・ド・レゼー、コンウォール・リーなどのような病者救済であっただろうか。彼らは、路傍に打ち捨てられたハンセン病患者の姿に衝撃を受け、キリスト者としての使命感に燃えて、私財を擲って病院を建て、救済に取り組んだ。
彼らと光田は何が違うのだろうか。医者と宣教師、日本人と外国人、キリスト者かそうでないか(光田は晩年にカトリックに入信したらしいが)、そのような立場の違いではない。バックボーンにキリスト教信仰があるかどうかも大きいが、それ以上に志向性の問題である。ハンセン病に対してか、ハンセン病者に対してか、向き合う対象の違いである。光田はハンセン病を「根絶(絶滅)」させようとしたのであり、彼らはハンセン病患者一人ひとりを「病い」から救おうとしたのである。

すべての元凶は、ハンセン病を「不治の病」と思い込むか、「完治する病」と思うかの違いに始まった。光田は終生、ハンセン病を「不治」と思っていた。それに対して、小笠原登は「完治」と信じていた。

徳永進氏は、「隔離の中の医療」で、光田と小笠原のらい学会での論争を『小笠原登先生業績抄録』より引用している。孫引きになるが、転載しておく。

光田「あなたはライは全治すると言っているが、それは間違いだ。全治は不可能です。」
小笠原「では一体先生の仰有る全治とは、如何なる規範であるのか、先ずそれを承り度い。」
光田「それは、患者の体の中にライ菌が全くなくなり、且つ再発しないことである。」
小笠原「それはおかしい。凡そ伝染病にして一度罹患した人の体内に全く菌がなくなることを確認する方法はない。一旦ライに罹ったら、全治していても、終身患者扱いをすることは誤りである。」

徳永進「隔離の中の医療」『ハンセン病』

小笠原登は「自分は隔離する必要はないと思う」という考えから、京都大学医学部皮膚科特別研究室助教授としてハンセン病患者への外来診療を貫いた。彼によって隔離から守られたハンセン病患者は1500人以上と言われる。光田健輔の弟子たちから批判を受けながらも彼は信念を曲げなかった。
徳永進氏は、二人の違いを、次のように的確に言い表している。私も同感である。

光田健輔と小笠原登の違いは、一人は国家を見、一人はひとりの患者を見たことだろう。また一人はライ菌に固執し、一人はひとりの病状経過、生活を大切にしたことだろう。一人は権力にこだわり、一人は哲学を愛したことだろう。そうしたものが集まり重なり、二人の間の「ハンセン病観」は大きくかけ離れた。

徳永進「隔離の中の医療」『ハンセン病』

あらためて思うのは、光田健輔が病理学者ではなく医師としてハンセン病に向き合っていたならば、日本のハンセン病政策は別の道を歩んでいたのではないかということである。やはり、光田の最大の過ちは、ライ菌の消滅をハンセン病患者の絶滅に求めたことだろう。ハンセン病患者は保菌者であるから、彼らを「絶対隔離」し、断種・中絶して子孫を絶つことで、患者が死亡することで日本からハンセン病を根絶することができると、まるで数式のように「計算」し、そのわかりやすい図式を政治家に提示し、国策として実行させたのだ。光田の示した提案は、政治家にとっても国民に対して正当化しやすかった。やがて光田は医学者から政治的策略家へと変貌していく。自らが頭で描いた図式が形を為していく。図案が現実となって実現していく。これは光田にとって夢の実現であり無上の達成感であったことだろう。その喜びを「プロミンによる完治」などで崩されたくはなかったのではないだろうか。光田の「図式」は、ハンセン病が「不治」であることを前提に作られているからである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。