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光田健輔論(89) 当事者の視点(4)

今回で本連載もひとまず終了する。当初より光田健輔の享年(89歳)をもって連載も89回にすることを決めていた。しかし、まだ光田に関して疑問も不明な点もある。読み込めていない資料も、新たな資料、新たな視点からの研究者の論文も散見する。時機を見て補完していきたいと思っている。

光田健輔に焦点を当ててはいるが、彼の周辺や時代背景、国際的動向にも考察を拡げたため、課題として残しているものも多い。たとえば、ハンセン病と部落問題、光田以後のハンセン病問題、「らい予防法」廃止の経緯、菊池事件(藤本事件)や竜田寮児童通学拒否事件などがある。まずは、これらを検証してみたいと考えているが、途中で止まっている「部落史」についても気になっている。


私をハンセン病問題へと導いた、もう一人の人物、宇佐美治について述べて、連載を終わりたい。

宇佐美を私に紹介してくれたのは金泰九である。
はっきりと年月までは記憶していないが、30数年は経つだろう。今でも初めて恩賜会館を訪ねた時の情景は覚えている。ホールの中は、まるで博物館のようにさまざまなものが所狭しと陳列してあった。入口近くの応接イスに腰掛けた小柄な宇佐美が迎えてくれた。いつか必ず役立つ日が来ると、宇佐美が私財を投じて集めたハンセン病に関する貴重な資料や歴史的遺物である。書籍や雑誌、紀要や機関誌、論文など歴史的資料も膨大なものであった。それらを一人で蒐集した宇佐美こそが「ハンセン病史の生き証人」でもあった。以来、幾度となく宇佐美に会いに恩賜会館を訪ねたかわからない。

1949(昭和24)年4月、宇佐美は23歳のとき、長島愛生園に入所する。その13日後、光田健輔園長の初診察を受ける。宇佐美が愛生園に入所したのは「プロミンの注射」を期待したからだった。11歳で罹患した宇佐美を父母は必死で治そうと手を尽くす。宇佐美もハンセン病関連の本を買ってきては読み耽ったという。そんな宇佐美が「リーダーズダイジェスト」に載った「カーブルの奇跡」という記事を読み、プロミンを知る。父は名古屋の薬局を尋ね歩き「プロミン」を探し、ついに東京の闇市で高額な「プロミン」を手に入れてくれた。(100アンプル、1万五千円、カレーライスが80円、大学授業料が年間9千円)
しかし、使うことができなかった。プロミンは静脈に注射をするため、医者に頼むしかなかった。だが、頼みたくても頼めなかった。なぜなら、医者はハンセン病患者を診たら、保健所に通報する義務があったからだ。

プロミン治療を受けるためには、療養所に行くしか、選択の道はなかったのですねえ、「癩予防法」という法律でねえ。
家で自殺をしても死にきれない。奇跡の治療薬プロミンを、せっかく父が手に入れてくれても、自宅でのプロミン治療の希望を閉ざされた私は、残された道は療養所に行くしかない、と決意したのです。いや、当時の心境は、決意ではなく、諦めた、と言った方が正しいと思います。昭和24年のお正月でしたよ。

宇佐美治『野道の草』

宇佐美にとっては待ち遠しかった光田健輔の初診であった。光田の前に立った宇佐美に光田は「お前、何でもっと早くこなかったんだ。ここで気にいらないことは何だ」と聞いた。

「国立療養所というのに、衣食住も、衛生状態も悪いですよ。夫婦が四組、十二畳半に八人がカーテン無しで寝かされている。非人間的な取り扱いじゃないですか、これじゃあ、豚でもケンカしますよ」
と言ったんですよ。そうしたら光田園長は、
「文句があるなら、すぐ出て行け!」
とものすごい大声で、怒鳴ってねえ。退去命令を出すんですよ、強制収容しておきながら、ですよ。
光田健輔医師は、「救癩の父」とか「日本のシュバイツアー」と呼ばれるほどに、神様的な存在でした。ところが私に対する態度でわかるように、ハンセン病患者を救う医学者ではなかったんですよ、彼は…。患者の人権をないがしろにして、終生隔離政策でハンセン病を根絶やしにしようと、医学界・国民を欺いた犯罪者と言ってもいいくらいなんですよ、私に言わせればね。

宇佐美治『野道の草』

宇佐美は、国賠訴訟で提出した「陳述録取書」では、次のように述べている。

私の言葉を聞くと、光田園長はみるみる顔を真っ赤にさせ、大声で、「俺のやっていることに不満があるのかー園から出てけ!」と私に園からの退去を命じてきたのです。その形相は鬼のようで、そこには「救らいの父」と呼ばれ、慈悲深い人と世間から評価されていた光田園長の姿は影も形もありませんでした。

宇佐美治「陳述録取書」

宇佐美は岡大医学部出身の難波政士医師によって取りなしてもらい、退園を免れることができた。このことによって宇佐美は、「園から追放されれば、帰るところも無く、生活するめども立たない絶望的な状況」であり、「死を選ぶのか、療養所を選ぶのか。私達患者には、その二つの選択肢しかないことを骨の髄まで思い知らされた」と、そして「この療養所では、光田園長が患者の生殺与奪権を握った、絶対的な存在であることも実感した」陳述している。

これが光田健輔の「本性」であると思う。自分に忠誠を誓う者には限りなく優しくもするが、反抗する者や従わぬ者には容赦なく強権を振るう。光田にとって患者は、「絶滅させるべき病毒の保有者」であるから「隔離」すべきであり、まるで虫籠の昆虫のように最低限の衣食住を与え、治療と称して自由に「観察」や「実験(治験)」を行い、解剖できる「モルモット」でしかないのだ。多くの患者が口を揃えて評するように、光田は患者を「同じ人間」とは認識していない。

…患者たちは、てっきり、国立の療養所へ行けば、病気を治してもらえると思うじゃないですか。療養所と聞けば、病院、と連想しますよねえ、だれだって。
ところが、療養所へ到着してみたら、クレゾールの消毒風呂へ入れられるは、狭い部屋に押し込まれての雑魚寝ですよ。症状が重い人も放ったらかしで死を待つばかり、病気になっても治療もろくにしてくれない。軽度な患者には、土方作業やら、重度の患者の身辺の世話係をやらせるんですよ。
重労働や栄養不足がひどくなってね、死んでいったんですよ、入園者の先輩たちが…。残酷だったねえ、あのころは。人間扱いされてなかったんですよ。
長島愛生園の初代園長になった光田医師は、
「ここはお前たちの楽園になるんだから、自らの力で、山を削れ、道を作れ、家を建てろ。相互扶助だ、報恩作業をしろ」
と患者に重労働を命令したんですよ。
あまりのひどさに耐えかねて、療養所から逃げ出し、海を泳ぎ切れずに溺れ死んだ人もいるんですよ。脱出に失敗して捕まえられた人は、監房に閉じこめられたんですよ。

宇佐美治『野道の草』

こうして入園早々に「札付き男」のレッテルを貼られた宇佐美は、より一層ハンセン病のことを調べ学ぶようになっていく。彼の蔵書は6500冊を超えたという。

彼は「終生絶対隔離」の要因を「医学者たちの間違った見解と実践」だと言う。そして「光田イズム」にイエスマンになってきた風潮、タブーを破りたいという思いで、約50年間に渡って自治会役員を務めながら「らい予防法」廃止、そして国賠訴訟の瀬戸内訴訟原告団長として闘っていく。
「国が控訴断念」のニュースを報じた新聞には、面談に応じた小泉首相と握手する宇佐美の写真が載った。私も、思わず「バンザイ」と叫んだことを昨日のことのように覚えている。


恩賜会館の裏に、草木に覆われた獣道を少し進むと、突然に断崖に行き当たる。“自殺の名所”と呼ばれた場所で、眼下に広がる光景は、絶壁の岩肌に打ち寄せる波、吸い込まれるような幻影、かつて大学時代に訪ねた「東尋坊」を彷彿させる。どれほどの入所者が絶望して身を投げただろうか。岩肌に身体を打ち壊され、波に掠われて沖へと連れて行かれ、やがて海底に沈むか、長島の浜辺に打ち寄せられる。しかし、金さんは言う。身を投げる者より首を括る者の方が多かった、と。

…療養所の中には、火葬場もあり、お墓もあるんですよ。葬儀屋さんはいませんよ。
入所者が死ぬと、ですか?
自治会役員や、故人の親しい者が、遺体を病棟から火葬場へ運び出して、材木を集めてきて荼毘に付すんですよ。
人間が焼けるとき、どうなると思います?立ち合ったことありますか?
弓なりに反り返るんですよ。焼ける途中でねえ。
その弓なりの遺体を、鉄の棒で必死に、ぐーんと、抑えつけているんですよ。自治会役員はそういう仕事もするんですよ。私もやりましたよ。
昭和50年頃までは、本当にひどい状態でした。

宇佐美治『野道の草』

もちろん、光田ら医官も職員も知ってはいただろうが、自らの手では行ってはいない。患者作業として命じるだけだ。むしろ、光田にとっては“遺体”は「解剖」の対象物でしかない。解剖して取り出した手足や臓器は、実験(治験)結果のサンプルとして保存された。(ほとんど使われることはなく、杜撰な管理のため腐っていった)


多くの場合、一つのことに対しても視点が異なれば、多様な解釈が生まれる。どちらが正しいと決められないこともある。

光田園長の考えでは、不自由者は付添いが必要なので、できるだけ狭い部屋に多くの人数を住まわせ、患者付添いの効率化をはかろうとしていたのです。

宇佐美治「陳述録取書」

この光田の考えを「相互扶助」「同病相憐」「大家族主義」と、愛生園の「美風」であると称えるか、あるいは狭い部屋に何人もの患者を雑居させる「豚小屋」と非人道的扱いに憤るか、光田へが両極端となる所以でもある。私には光田の欺瞞としか思えないのだが…。

宇佐美治「陳述録取書」には、長島愛生園で行われてきたほぼすべての実態が詳細に記述されている。(『野道の草』に所収)
私にとっても初めて知る話もあり、同じ話が他園入所者の証言にもあることから、長島愛生園をモデルにしながら他園でも同様のことが普通に行われていたのが実態であったとわかる。また、医官が他園の園長に就任するように、看護師もまた他園に転任することもあった。それも同様のことがどこの療養所でも行われていた一因かもしれない。

医者も看護師も、日々の多忙さと入所者への感覚(認識)の麻痺から、異常な行為すら「普通」になっていったのではないだろうか。

…長島愛生園では、光田園長は昭和16年に癩家族の断種の奨励金制度を創設しようとしましたが、予算がとれず実現しませんでした。しかし、昭和25年から27年頃には、外にいる家族にまで断種をさせた例がありました。…
私の知っている限りでも三件はあります。いずれも奥さんが愛生園に収容されていたのですが、夫が面会に来たところ、職員から「断種しないなら面会に来るな。」と言われ、やむなく断種手術を受けたそうです。

また、戦後のことですが、ある女性入園者に娘さんが面会に来たところ、光田園長がその娘さんに対し、「結婚相手に断種をしてもらえ」と言ったそうです。それ以降、その娘さんは結婚せず、また面会に来ても母親の部屋には一歩も上がらなくなったと、その女性入園者は泣きながら話してくれました。
さらに昭和27、8年頃は、親が患者である児童は、黎明学園というところで生活させられていたのですが、これらの子ども達が成長して社会に出ていくときに、断種手術をした例がありました。

宇佐美治「陳述録取書」

光田健輔にとってハンセン病患者をこの世から一人残らず抹殺することが最大の使命であった。そのためには「将来の禍」となる「要因」はすべて根絶やしにしておくことも正当なることであった。患者でない者にまで断種を強制することは、大義のためには正当化されてしまうのだ。
この光田の考えに追い風となったのが「優生思想」であった。優生主義の運動家であった後藤龍吉らが光田の支持者となり、ハンセン病の撲滅を望む国家は少しでも患者が増える可能性があれば、それは断ち切られるべきだと考えたのである。

…療養所では、子どもを産むことは許されませんでした。女性が妊娠しても堕胎を強制されたのです。また、臨月くらいになって収容された場合でも、堕胎させられ、出てきた赤ん坊が生きている場合には殺していました。
昭和31年、私が女性病棟に見舞いに行った時のことですが、赤ん坊のけたたましい泣き声がしたところ、当時の総婦長が激しく泣いている赤ちゃんを膿盆に入れて抱えており、病棟の患者たちに「可愛いでしょう」と見せ歩いていました。総婦長は、そう言いながらも赤ん坊の顔に白いガーゼをかぶせて、試験室に連れて行ったのです。赤ん坊はその間ずっと泣き続けていたのですが、試験室に入ってしばらくすると、赤ん坊のけたたましいまでの泣き声はピタッと止まってしまったのです。私達には、赤ん坊が試験室で殺されたことはすぐに分かりました。「可愛いでしょう」と赤ん坊を見せ歩いておきながら、その直後に殺してしまう園の職員に、背筋の凍る思いがしました。                            

宇佐美治「陳述録取書」

この当時の総婦長が誰であるか、調べればわかるが、もはや故人となっているだろう。子どもを授かることのできない患者に赤ん坊を見せ歩くとは、彼女の無神経さに唖然とする。彼女は一時的な感情で「見せてあげよう」と思ったに過ぎないかもしれない。しかし、患者の境遇に何の心配りもできない者が「総婦長」である。彼女には残酷な行為と思う気持ちすらなかっただろう。

光田からの直接命令であったか、あるいは総婦長の独断か忖度か、それはわからないが、光田の考え(光田イズム)が浸透していたことはまちがいないだろう。人間の良心など脆いものである。

患者に触りたくないという理由で、注射を患者の臀部めがけて投げつけたという看護士もいる。当直医が往診すらしなかたために治療が遅れて死亡した、あるいは服毒自殺した患者への胃洗浄をせず患者が死亡した、このような故意による患者死亡事件は枚挙に遑が無い。医者や看護師の不足、手当ての遅れ、設備の不足、それ以上に医師や看護師の差別や偏見による患者軽視(蔑視)の対応がこのような悲劇を数多く生みだした。しかし、明らかな「医療過誤」でありながら、誰も何の処罰も受けてはいない。すべては閉鎖された空間の中に隠蔽され続けてきた。

光田はハンセン病患者のための「楽土」「楽園」をつくると豪語した。それは光田にとって、自らの「裸の王」として統治する「巨大な昆虫カゴか水槽」であって、中で「生きる」者にとっては粗末な衣食住を最低限において保障された自由のない空間でしかなかった。


この連載を通して、私は光田健輔の欺瞞を見続けてきた気がする。そして現在においてもなお、その欺瞞に騙され、光田の<実相>を見ずして、称賛する者や「時代的正当性」を持ち出して光田の功績のみを評価する者が多い。それに対しては、邑久光明園名誉園長の牧野正直の言葉が思い出される。

隔離政策が虐げられた患者を救い出した、という説明に関して牧野は「そもそも光田一派が病気の恐怖を宣伝したから、隔離しなければならないほど患者が社会の中で差別された。一からボタンの掛けちがいがあったのであり、光田は批判されなければならない」と明言。光田の業績の中に評価すべき点を見つけてその免罪を図ろうとする動きに対しては「ヒトラーの政策の中に良いことがあったからといって、ナチが正当化されるか」と厳しく批判する。

武田徹『「隔離」という病い』

繰り返し引用した牧野の言葉だが、これほど明確な教訓はないだろう。
何より光田が批判されるべきは、幾度か方針転換すべき機会がありながら、決して自説を曲げることがなかった結果、悲劇が拡大されたことである。プロミンの効果が証明され、ハンセン病が「可治の病」となったにもかかわらず、隔離政策を改めることをしなかった。もし、そのときにプロミンの効果を認め、政府を通じてハンセン病の認識を改める宣伝を行わせ、外来治療に門戸を開き、隔離政策の方向を変えていたらと思わずにはいられない。それをせず、光田は沈黙したまま死んだ。それが、光田の後継者、光田の息のかかった療養所運営側、つまり政府官僚、園長、職員が光田イズムを継承し、隔離政策を維持し続ける結果となったのだ。死んでもなお光田健輔の頑迷さは生き続けたのである。

1995年4月、日本らい学会は「<らい予防法>についての日本らい学会の見解」で、次のように述べている。

これまで<現行法>の廃止を積極的に主導せず、ハンセン病対策の誤りを是正できなかったのは、学会の中枢を療養所の関係会員が占めて、学会の動向を左右していたからでもあり、長期にわたって<現行法>の存在を黙認していたことを深く反省する。

ここでも、「個人」は批判されない。組織という隠れ蓑の影で、光田と同じく責任逃れをする。この体質がハンセン病問題を長引かせた元凶であると私は思う。


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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。