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光田健輔論(85) 栄光の光と影(7)

1923(大正12)年7月、第三回国際らい会議がストラスブールで開かれ、次のことなどが決議された。ハンセン病の蔓延していない国においては、病院又は住居における隔離はなるべく承諾の上で実施することを原則とすること。流行が著しい場所では強制隔離が必要だが、この場合、隔離は人道的に行い、かつ、十分な治療を受けるのに支障がない限りは、患者はできる限り家族に近い場所に置くこと。貧困者、住所不定者、浮浪者等については、病院、療養所等に強制隔離して十分な治療を施すこと。患者から産まれた子どもは、両親から分離し、継続的に観察を行うこと。公衆に対してハンセン病は感染症疾患であることを知らしめる必要があること。これらがそれで、公衆衛生問題の一環としてハンセン病予防と治療を行っていくことが医学的に確認された。
日本からの出席者は光田健輔であった。会議において「治療は必要だが、隔離は不必要」との発言があったことに「癩問題の危機」を感じた光田は帰国後、同題の論文を著し、患者は隔離所において治療するのが最も安全であり、軽快治癒しても、療養所外では再発の可能性が高いので、療養所内にとどめて、適当な作業や重症者の看護に従事させ、院内の福利を増進することを奨励すべきだとの持論を改めて主張した。

内田博文『ハンセン病 検証会議の記録』

まず光田の「癩問題の危機」と題した論文を見てみる。この論文は1929(昭和4)年に発表されている。この約6年間には国際連盟らい委員会(太田正夫が出席)が開催され、第三回国際らい会議の決議をさらに発展させ、公衆衛生問題の一環としてハンセン病予防と治療を行っていくことなど11項目からなる基本方針が示された。これは光田にとって由々しき問題と思ったことだろう。

今日西洋及東洋至る処に於て癩は全治せらるべきものにして中世に於けるが如く絶対隔離の必要なく、他の疾病の如く病院或は家庭に於て治療し得るべしとの議論の漸く盛ならんとするの傾向あり。折角癩の伝染を力説し此れが予防的対策を講ぜんとするに当り、大いなる障害とならんとすることは癩問題の一大危機に瀕しつつあるものと云わざるべからず。

光田健輔「癩問題の危機」『光田健輔と日本のらい予防事業』

冒頭から「絶対隔離」を緩和する国際動向に対する憤りのままに書き始めている。さらに、「思うに此説の発生は癩症状に対する学者の無知と癩政策を加味したる治療至上主義に胚胎せるものにして吾人今日に於て警告を加うるにあらざれば百年の悔を残すべし」と執筆の動機を述べている。そして、唯一の治療薬である大風子油の効果は10年を経過しなければ判断できないにもかかわらず、早期に患者を放免した結果、感染拡大と多くの患者が再発したフィリピンやハワイを例に、第三回国際らい会議の決議に強く反発している。

それにしても「学者の無知と癩政策を加味したる治療至上主義」とは、自負心の強い光田の傲慢さをよく表している。医者であるならば「治療至上主義」であるべきと考えるが、光田は医者ではなく病理学者または政治家の発想で「絶対隔離」を主張している。

…ウンナ氏の如く Nicht Isolierung sondern Behandlung ist notwendig 隔離不要にして治療は必要なりと絶叫する如きは実に癩問題の危機に瀕せしむるものと云わざるべからず。
吾人は癩患者は隔離所に於て治療するを以て最も安全なりとし、此れが軽快して治癒したるが如きものも院外に於て不規則なる生活は直ちに再発して治癒すべからざるに至るが故に可成、院内に止めて此れに適当なる作業を課し以て重症者を看護し或は院内の福利を増進すべき相互扶助の事業に従事せしむることを奨励するものである。

光田健輔「癩問題の危機」『光田健輔と日本のらい予防事業』

『検証会議 最終報告書』は、なぜ光田が再発の恐れを理由に隔離を主張したか、患者を治癒後も療養所にとどめることを主張したかについて、「当時、療養所では看護職員の不足を軽症患者らに負わせており、療養所運営に不可欠な人員であったからだ」と推測している。つまり、「大家族主義」あるいは「同病相憐」等々の美名に隠された光田の本音は、療養所予算と看護職員の不足を補うためであった。

光田先生は、職員にも入院者に対しても、「われわれは、国家や国民に迷惑をかけてはならない。たとい、療養所内にいる病者であっても、国家社会に貢献することはできる」と事あるごとに説かれていた。そして、経費の浪費を厳重に戒められ、「最少の経費で最大の効果をあげる工夫と努力を惜しむな」と教えられていた。

林芳信「光田イズム」『光田健輔の思い出』

もし林が本気でそう思っていたとしたら、光田の欺瞞に気づいていないか、あるいは光田と同様に患者を<患者>と見ていない。<病毒の撒布者>として隔離すべき者としてしか見ていない。
林は次のようにも書いている。

これら療養所の拡張は、癩の予防救護の目的を一日も早く達成させんがためで、常に政府の正式拡充に先んじていた。外に向かっては救癩の急務を民間に訴えてその寄付を得、内においては入院患者の自覚と相愛互助、奉仕精神の昂揚を促し、患者作業による園内の開発、あるいは互譲の美学によって患者生活の向上を計られたのであった。当時政府並に府県においては癩の関係予算が十分でなく、したがって拡充予算の獲得も容易ではなかった。が、先生のたゆまない努力は政府や府県担当局の人々を動かし、最初の目標であった一万人収容が所定の期間内にほぼ達成されたことは、先生の偉大な人格と一貫した信念によるところ甚だ大であったというべきである。

林芳信「光田先生と療養所経営」『光田健輔の思い出』

林芳信は、これらの事業が「達成」できたことは、光田の「偉大な人格」「信念」によるのではなく、患者に多大な犠牲を強制した光田の冷酷な執念によるものであることをわかっていない。

よく「相手の立場になって」と安易に口にするが、光田も林も自分たちの野望を達成するために邪魔であった患者を送った「特別病室」に数日でも入って過ごしてみればわかる。それよりも、光田は「適当なる作業」と軽々しく言うが、手足が変形し、感覚を失った手足で行う「患者作業」がどれほど苛烈なものであったか、知らないはずはないだろう。
しかも、「患者作業」に対して支払われる「作業賃」は国から支給される入所者の治療費や食料費等から捻出されたため、患者が働けば働くほど、入所者が多くなればなるほど、作業負担が増える反面、患者の生活環境、何より医療設備や治療費、食料費は悪化していくことになる。患者が自らの首を絞めることになるという矛盾を光田は行ったのだ。

彼らの論理の根底には「ハンセン病患者だから~」「感染症だから~」という他人事のような言い訳が常に隠れている。


光田は帰国後に「癩予防撲滅の話」(1926年)を書いている。それは持論の正当性を政府や官僚、支持者に訴えるためである。光田が恐れたのは、政府関係者や医学関係者が国際動向に影響されることであった。光田が主導する「絶対隔離政策」もまだ途上であり、療養所体制もできていない。反対する者もいる。疑問をもつ者もいる。これらを抑え込むねらいがあったのではないかと私は思う。

なぜ、光田は、このように絶対隔離にこだわるのか。それは、第3回国際らい会議で、インドでハンセン病医療に取り組んでいたロージヤーが、日本のハンセン病患者を10万人と報告したからであった。光田は、この時、ロージヤーが作成した国別患者表を引用し、日本以外で患者が多いのは中国、そしてアジア・アフリカの植民地であることを示し、「如何に野蛮未開の土人に此病が蔓延して居るかと云う事」とともに「血統の純潔を以て誇りとする日本国が、却って他の欧米諸国より世界第一等の癩病国であることがわかる」と慨歎した。「血統の純潔を以て誇りとする日本国」が「野蛮未開の土人」と同列となる屈辱、光田は、こうした意識からも「他の伝染病と等しく絶対隔離」する道を強行したのである。

『検証会議 最終報告書』

明治維新後、欧米諸国に追いつくことを目指し、世界の「一等国」「文明国」の仲間入りをするために、富国強兵の道を歩んできた日本と国民にとって、その目的を実現したにも関わらず、ハンセン病患者数が「アジア・アフリカの植民地」並であることは決して許しがたい「屈辱」ある。

確かに、光田の国粋主義者の一面を考えれば納得もするが、この文言はあえて光田が持ち出したものである気がする。つまり、政府や国民にハンセン病問題の重大さを気づかせ、光田の持論に賛同させるために、殊更に過激な表現で強調したのではないだろうか。

我国の二十年前の国力と今日の国力とは一様ではない。世界の五大国として国際連盟に関係し、東洋盟主を以て自ら任ずる我が国は、此の癩と云う瘤を指摘されて「きもの」の著者の如き嘲笑をあびせかけられたり、或は排日紙の材料となり、或は移民の大なる障碍となり、又は英米M・T・Lの団体の如きは日本人の人道的観念の有無を疑い、朝鮮台湾に癩救済の大旌をふりかざして日本武士の額の癩瘤を撫づるに至った。

光田健輔「癩予防撲滅の話」『光田健輔と日本のらい予防事業』

明治維新後、条約改正交渉でも明らかなように欧米諸国に対等に扱われず、「下等国」として見下され、屈辱的外交に甘んじてきた歴史を、あえて政府や国民に想起させる表現を多用している。

この論文において、光田は「国別患者表」を引用して日本が中国(支那)に次ぐ「癩病国」である現状を嘆き、次に江戸から明治の日本のハンセン病対策を概観し、「絶対隔離」予防策の効果を強調し、英国領インドと日本を比較して、その対策状況や対策費について具体的に論じている。さらに、日本の現状への危機感と絶対隔離政策の必要性を費用面(予防費)からも説き、政府及び国民の協力を求めている。
論旨は「癩予防に関する意見」と同じであり、従来の持論を繰り返して「絶対隔離政策」の優位性と必要性を強調しているが、第三回国際癩会議終了後に立ち寄ったノルウェーやイギリス、インド、フィリピン、マニラで視察した内容を意図的に付け加えて論証としている。

光田の見解が政府に影響を与えたのには、当時の政治情勢が大きく与ったといえる。1930年代に入ると、世界的にブロック経済化が目指されるようになった。日本も、東アジア圏における領土拡大をねらい、ヨーロッパ諸国に対して日本の独自性、優位性を強調するようになる。このような政治情勢の中で、第三回国際らい会議の決議に従うべきだとの考えは醸成されにくかったと考えられる。反対に、光田の発案によって開始された五千人収容計画が、ハンセン病を国辱と考える国粋主義や、隔離を正当化する社会防衛論等にも支持されて進められていくことになった。1926(大正15)年5月、内務省衛生局予防課長高野六郎は、「民族浄化」の観点から絶対隔離を説き、未収容者1万5000人をすべて療養所へ収容するのが最善であるとする論稿を発表した。

内田博文『ハンセン病 検証会議の記録』

このように、光田健輔は、あらゆる情報を貪欲に吸収しながら時勢を的確に判断し、それらの情報を効率的に取り入れて持論を補強し、政治家や官僚、国民にどのように伝えれば最も効果的に持論が支持されるかを計算していた。
確かに、光田は愛国主義者であり国粋主義者、天皇崇拝者であるとは思うが、「一等国」の自負心から「国辱」であるハンセン病を根絶しようと考えたとは思えない。つまり、繰り返すが、光田にとっては、持論である「絶対隔離政策」によってハンセン病を根絶するという「目的」ために必要な「手段」はいかなるものでも利用するということだ。そして何より持論こそが唯一絶対であるという強固な自負心であった。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。