光田健輔論(85) 栄光の光と影(7)
まず光田の「癩問題の危機」と題した論文を見てみる。この論文は1929(昭和4)年に発表されている。この約6年間には国際連盟らい委員会(太田正夫が出席)が開催され、第三回国際らい会議の決議をさらに発展させ、公衆衛生問題の一環としてハンセン病予防と治療を行っていくことなど11項目からなる基本方針が示された。これは光田にとって由々しき問題と思ったことだろう。
冒頭から「絶対隔離」を緩和する国際動向に対する憤りのままに書き始めている。さらに、「思うに此説の発生は癩症状に対する学者の無知と癩政策を加味したる治療至上主義に胚胎せるものにして吾人今日に於て警告を加うるにあらざれば百年の悔を残すべし」と執筆の動機を述べている。そして、唯一の治療薬である大風子油の効果は10年を経過しなければ判断できないにもかかわらず、早期に患者を放免した結果、感染拡大と多くの患者が再発したフィリピンやハワイを例に、第三回国際らい会議の決議に強く反発している。
それにしても「学者の無知と癩政策を加味したる治療至上主義」とは、自負心の強い光田の傲慢さをよく表している。医者であるならば「治療至上主義」であるべきと考えるが、光田は医者ではなく病理学者または政治家の発想で「絶対隔離」を主張している。
『検証会議 最終報告書』は、なぜ光田が再発の恐れを理由に隔離を主張したか、患者を治癒後も療養所にとどめることを主張したかについて、「当時、療養所では看護職員の不足を軽症患者らに負わせており、療養所運営に不可欠な人員であったからだ」と推測している。つまり、「大家族主義」あるいは「同病相憐」等々の美名に隠された光田の本音は、療養所予算と看護職員の不足を補うためであった。
もし林が本気でそう思っていたとしたら、光田の欺瞞に気づいていないか、あるいは光田と同様に患者を<患者>と見ていない。<病毒の撒布者>として隔離すべき者としてしか見ていない。
林は次のようにも書いている。
林芳信は、これらの事業が「達成」できたことは、光田の「偉大な人格」「信念」によるのではなく、患者に多大な犠牲を強制した光田の冷酷な執念によるものであることをわかっていない。
よく「相手の立場になって」と安易に口にするが、光田も林も自分たちの野望を達成するために邪魔であった患者を送った「特別病室」に数日でも入って過ごしてみればわかる。それよりも、光田は「適当なる作業」と軽々しく言うが、手足が変形し、感覚を失った手足で行う「患者作業」がどれほど苛烈なものであったか、知らないはずはないだろう。
しかも、「患者作業」に対して支払われる「作業賃」は国から支給される入所者の治療費や食料費等から捻出されたため、患者が働けば働くほど、入所者が多くなればなるほど、作業負担が増える反面、患者の生活環境、何より医療設備や治療費、食料費は悪化していくことになる。患者が自らの首を絞めることになるという矛盾を光田は行ったのだ。
彼らの論理の根底には「ハンセン病患者だから~」「感染症だから~」という他人事のような言い訳が常に隠れている。
光田は帰国後に「癩予防撲滅の話」(1926年)を書いている。それは持論の正当性を政府や官僚、支持者に訴えるためである。光田が恐れたのは、政府関係者や医学関係者が国際動向に影響されることであった。光田が主導する「絶対隔離政策」もまだ途上であり、療養所体制もできていない。反対する者もいる。疑問をもつ者もいる。これらを抑え込むねらいがあったのではないかと私は思う。
明治維新後、欧米諸国に追いつくことを目指し、世界の「一等国」「文明国」の仲間入りをするために、富国強兵の道を歩んできた日本と国民にとって、その目的を実現したにも関わらず、ハンセン病患者数が「アジア・アフリカの植民地」並であることは決して許しがたい「屈辱」ある。
確かに、光田の国粋主義者の一面を考えれば納得もするが、この文言はあえて光田が持ち出したものである気がする。つまり、政府や国民にハンセン病問題の重大さを気づかせ、光田の持論に賛同させるために、殊更に過激な表現で強調したのではないだろうか。
明治維新後、条約改正交渉でも明らかなように欧米諸国に対等に扱われず、「下等国」として見下され、屈辱的外交に甘んじてきた歴史を、あえて政府や国民に想起させる表現を多用している。
この論文において、光田は「国別患者表」を引用して日本が中国(支那)に次ぐ「癩病国」である現状を嘆き、次に江戸から明治の日本のハンセン病対策を概観し、「絶対隔離」予防策の効果を強調し、英国領インドと日本を比較して、その対策状況や対策費について具体的に論じている。さらに、日本の現状への危機感と絶対隔離政策の必要性を費用面(予防費)からも説き、政府及び国民の協力を求めている。
論旨は「癩予防に関する意見」と同じであり、従来の持論を繰り返して「絶対隔離政策」の優位性と必要性を強調しているが、第三回国際癩会議終了後に立ち寄ったノルウェーやイギリス、インド、フィリピン、マニラで視察した内容を意図的に付け加えて論証としている。
このように、光田健輔は、あらゆる情報を貪欲に吸収しながら時勢を的確に判断し、それらの情報を効率的に取り入れて持論を補強し、政治家や官僚、国民にどのように伝えれば最も効果的に持論が支持されるかを計算していた。
確かに、光田は愛国主義者であり国粋主義者、天皇崇拝者であるとは思うが、「一等国」の自負心から「国辱」であるハンセン病を根絶しようと考えたとは思えない。つまり、繰り返すが、光田にとっては、持論である「絶対隔離政策」によってハンセン病を根絶するという「目的」ために必要な「手段」はいかなるものでも利用するということだ。そして何より持論こそが唯一絶対であるという強固な自負心であった。