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「渋染一揆」再考(17):倹約令(5)

広島城の広報誌『しろうや!広島城 30号』<広島のおしゃれ事情~企画展「江戸のおしゃれ」こぼれ話>(財団法人広島市未来都市創造財団 広島城)に、広島藩の「衣服統制」に関する興味深い記事が掲載されている。抜粋して転載させていただく。

倹約令からみる広島おしゃれ事情
元禄5年 (1692) の定に見るように、基本的に広島藩では家中の侍士から町人に至るまで衣服は「木綿」を着用するよう命じられており、江戸時代の基本方針として一貫していました。
享保年間には、幕府では徳川吉宗による享保の改革が推進されていましたが、これを受け広島藩でも享保11年(1726)に厳しい倹約令を触れ出しました。そこでも衣服は「木綿の布を用いること」とされていますが、例外の但し書きが現れます。「大年寄三原屋三郎右衛門および 60歳以上10歳以下の者は下着に日野紬の類を着てもよろしい」、とあるのです。紬は本繭から取れる生糸で織る絹布ほど上等ではないにせよ絹ですから、規制緩和が見て取れます。年寄りや子どもはまあ構わないかというところでしょうか。紬は遠目には木綿にも見えるところから、江戸時代の通人にさりげないおしゃれとして好まれたとも言われます。ちなみに、三原屋三郎右衛門は三原から移住してきた酒造家で、代々城下で大年寄を務めた有力者でした。…町組を統括する重職の大年寄として特権を認められたわけです。

おしゃれの小道具①~帯
さらに内容を見ますと、「婦人の帯・腰帯は絹を用いてはならない、婦人の櫛・笄・簪類に鼈甲や本蒔絵などを用いてはならない。また鼻紙袋・煙草入れなども粗末なものをもちいること」、などが記されています。
江戸時代の帯は、当初は細い紐状でしたが、寛文期(1661 ~ 72)には、紐から平たい帯に変わっていきました。そして、享保期(1716 ~ 35)には 8 ~ 9寸(30 ~ 34 センチくらい)の幅になり、文化期(1804 ~ 17)には 1尺5分(40 センチくらい)の幅広なものが出現してきます。帯の幅が広がるとともに帯自体の素材やデザインが贅沢なものになっていったことは容易に想像できます。文化年間の城下を描いたとされる「広島城下絵屏風」に登場する女性も、かなり幅広の帯を締めているものが見られ、流行が広島にも到達していた様子がうかがえます。帯も着物と同様木綿が原則でしたが、このころには絹織物の博多帯や紬帯もあったようです。

おしゃれの小道具②~髪飾り
平安時代から戦国時代まで垂髪が主だった女性の髪型は、江戸時代に髷を作る結髪が発達すると櫛・笄・簪で頭部を飾るようになっていき、さまざまな材質・デザインの髪飾りが作られるようになります。中でも鼈甲や本蒔絵は非常に高価なものですから、贅を尽くして誂えたものがお上の反感を買ったのでしょう。しかしいずれも高い加工技術と美しさには目を見張るものがあり、あこがれの対象であったことは頷けますし、そのような奢侈品を町人たちが購入できる財力をつけていたこともわかります。当時の禁制品にはその他象牙、メノウ、珊瑚、ギヤマンなどの櫛・簪もありました。「広島城下絵屏風」に描かれている女性の髪飾りははっきりしませんが、髪型の特徴は見て取れます。倹約令を順守していれば、地味な簪一本に丈長(髪を結うとき用いる和紙)を巻くのがせいぜいだったでしょう(他所になりますが福山藩でそのようにしなさいというお達しがでています)。

裏をかく?
「袋物」と呼ばれる鼻紙袋・煙草入れについても、小さな持ち物ではありましたが意匠を凝らしたものがたくさん作られていました。ポケットがない和服では、持ち物は袋物・印籠などに入れて持ち歩きました。ことに庶民の男性にとっては煙草入れと煙管筒はほぼ唯一の装身具と言ってよいものでしたので、「渡物」と呼ばれる舶来物の更紗や金唐革を使ったり、豪奢な前金具や緒締、帯に装着するための奇抜なデザインの根付を誂えたりしたものです。ところが、倹約令が煙草入れにも言及されるようになると、庶民の側もひと工夫します。一見地味な煙草入れのかぶせをめくると裏地に派手な模様が見えたり、金具の裏座に凝った細工をしたりと「粋」なおしゃれでお上に対抗していきました。鼻紙袋は使うときにだけ懐中から取り出し、そのセンスをちらりと見せることができます。あからさまに見せない江戸時代の「粋」はこうしたお上からの締め付けに対抗する形で生まれたともいえます。
このようなおしゃれは広島城下でも見られました。例えば、巻頭の「広島城下絵屏風」にみられる左側の女性、着物はとても地味な色なのですが、ちらっと見える裾裏が派手な赤です。寛政元年(1789)の町方へのお触れを見ますと「なんとなく最近は町方の妻子の衣類が華美になり、縮緬とか裏に結構なものを付けたり、特に抱え帯(帯の下に結ぶ細い帯。現代では花嫁衣装などで見られます)なんぞは不相応なものを使っている。たとえ裏であっても絹なんか使わずに木綿の布を着なさい。抱え帯も着物に準じて相応なものを用いなさい」とのお叱りの言葉が見られます。寛政年間と言えば幕府では老中松平定信による寛政の改革が思い浮かびますが、時の広島藩主浅野重晟も先代の浅野宗恒も、幕府が田沼時代の放漫財政の時代からすでに倹約政策を推し進めていました。

広島城下でのおしゃれショッピング
江戸時代の後半ともなると、衣類やおしゃれ小物も次第に高級化してゆき、お上の方も規制を緩めざるを得ない状態になっていたことが様々な禁制品からわかります。
最後に、どのようなおしゃれのアイテムなどが広島城下で作られ売られていたのか見てみましょう。文政5年(1822)に編集が完成した地誌『知新集』に出てくる文政初年頃の城下の職人たちは、装い関係でも織物、仕立、綿帽子、足袋、元結、平元結、表附下駄・裏附草履仕立、下駄木履、櫛笄師、鼈甲屋、袋物師など多様なものが見られます。欲しい人がいれば作って売る人が現れます。おしゃれの欲求と経済力は城下町の人々のパワーを上げ、蒔絵や截金入りの印籠を商うなと言われても、縫箔や鹿の子入りの古着を売るなと言われても、小間物振り売り(紅白粉や元結などを売り歩く商人です)にご禁制品を売らせるなと言っても…装いたいという思いで次なるおしゃれを思案したことでしょう。

岡山藩の「倹約令」に書かれている「日野紬」をネット検索して辿り着いた記事である。執筆者の前野やよいさんのユーモア溢れる記事に感心した。手描きのイラストもぜひ見てもらいたい。

前野さんの記事からもわかると思うが、すばらしい庶民の知恵である。「倹約令」をそのまま忠実に厳守してはいなかった証左でもある。また、幕府が改革の一環として発布している「倹約令」に準じるように、各藩においても藩の実情に合わせながら、ほぼ踏襲するような内容で出されている。

「倹約令」を庶民の「オシャレ」から考察している視点が斬新でおもしろい。一昔前の(今もかな)学校の校則を掻い潜る生徒みたいである。禁止するから破りたくなる。幕府や藩の取り締まりと庶民の工夫、イタチごっこの様相を想像してみると、圧政とか弾圧とかとはほど遠い世相が見えてくる。

「欲しい人がいれば作って売る人が現れます」は言い得て妙である。売れなければ作るはずもない。町人、しかも裕福な商人、上級武士だけが買っているのだろうか。大庄屋や名主だけが買っていたのだろうか。さらに、「倹約令」を守って誰も買わなければ商人は増えないだろうし、商工業や手工業も発達しないだろう。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。