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光田健輔論(51) 変革か呪縛か(6)

「癩予防法」改正(「らい予防法」成立)の背景に、栗生楽泉園での<一・一六事件>が与えた衝撃は大きい。今まで社会にほとんど知られることのなかったハンセン病療養所において、まるでアウシュビッツ収容所に等しい残虐な監禁が行われていた<特別病室>問題の舞台となった栗生楽泉園で、今度は3名の殺害事件が起こった。しかも、殺人事件というよりも暴力による抗争事件あるいは集団リンチ事件と世間の目には映っただろう。この事件は様々な波紋を拡げている。

療養所のあり方、懲戒検束権、ハンセン病患者の犯罪行為・迷惑行為への対処が問題とされたが、何より事件の加害者・被害者が「朝鮮・韓国人」のグループであったことが大きい。

1950年2月15日、光田は林芳信、栗生楽泉園の矢嶋良一とともに、第七回衆議院厚生委員会に政府の説明員として出席、ハンセン病療養所の現状について説明している。そのなかで、光田は「憲法発布になりましてから、懲戒検束の規程も取り消しになったので、今はほとんど制裁することができないような状態」であると嘆いた後、一月に栗生楽泉園で起きた入所者間の殺人事件で加害者・被害者のなかに朝鮮人がいあたことをあげ、「癩刑務所」の必要を示唆するとともに、朝鮮半島から日本に密入国するハンセン病患者が多いことを強調、「近来療養所の八千三百人の日本人は、おかげさまでおちついてはおりますが、人を殺すことを何とも考えないような朝鮮の癩患者を引受けなければならぬという危険千万状態にありまして、患者の安寧秩序が乱され、また職員も毎日戦々兢々としてこれらの対策に悩んでおるような状態でございます」と説明を締めくくった。この発言は、光田の朝鮮人への差別感を露呈するものであるが、こうした認識が厚生省に反映し、隔離政策に向かわせたと考えられる。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

友人である金泰九さん(在日韓国人)から聞いた話をしておきたい。
光田健輔ついての話をいろいろと聞いていたなかで、金さんがハンストをおこなっていた時(1953年、「癩予防法」改正に反対して)、見回りに来た光田が金さんを一目見て、「お前は半島人だな」と言ったという。金さんは「半島という国もないのに半島人はない。取り消してもらいたい」と抗議したが、光田は取り消さなかった。その後も幾度か、自分だけでなく療友の朝鮮・韓国人に対しても「半島人」と言うのを聞いた。何を訊ねても穏やかな口調で言葉を選んで話し金さんが、憤りを露わにしたのを鮮明に覚えている。

1949年3月6日、長島愛生園で開かれた癩病理講習会で講演した光田は「現今も全羅南北道から日本に来てゐる患者は相当であります。目下10人の収容があると、その内一人は朝鮮人の割合ですが大問題であります」「鮮人がどんどん入って来てゐることは厚生省も考えていただきたい」「朝鮮人の癩患者に対する対策を考へていただく様厚生省に建議致し度く思ひます」と述べている。そして表明どおり、「国際癩対策意見」という文書を厚生省に提出している。
この意見書は、まさに光田が1907年の法律「癩予防ニ関スル件」公布以来、執拗に実施してきた政策の正当性を追認するものでしかないが、さらに、新たな問題を付け加えている。それが、これまで国会で発言・証言してきた朝鮮半島からのハンセン病患者の密入国問題であった。光田は「最近に於ける日本の癩問題に就て特に影響のあるのは韓国癩の問題である」と述べ、詳細に論じている。
すなわち、朝鮮戦争の影響で日本の植民地時代に建設された韓国の小鹿島更生園の入所者が日本に密入国しているとして、小鹿島更生園の復旧と「内地にある韓国癩は速に施設の復旧をまって韓国に送還の措置」をとるよう要望しているのである。そして、「韓国癩の犯罪」にまで言及し、ハンセン病療養所の韓国・朝鮮人入所者の存在を「悪の温床となり勝」とまで断じて、「韓国癩の将来に対する方策の樹立と実施は急を要する問題である」と結んでいる。
密入国した「韓国癩」を強制隔離して更生園の復旧を待って共生藻関するというのが光田の考えである。1951年段階でもプロミンの効能を疑い、絶対隔離と断種に固執し、さらに「韓国癩」への取り締まりを求める光田の論理には、もう隔離強化の法改正しかあり得なかったのである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

「鮮人」や「半島人」という蔑称を平気で使用し、戦前の植民地支配の感覚そのままに朝鮮・韓国人に対して偏見・差別の感情で見下す光田健輔は、思い込みが激しく、しかも頑迷固陋ながゆえに、まちがった認識あるいは確証のない発言によって多くの「偽証」をしているが、それさえも意固地に訂正することも認めることもしない。

光田は「韓国癩は漸次日本に移動する傾向がある。現在日本の療養所に入所しているものを五百人としても尚七百人の外部潜伏患者がある」と、戦後になって五百人の朝鮮・韓国人のハンセン病患者が日本に密入国して発症後に入所してきたと言っているが、実際は戦前より日本に渡航したか、在日韓国・朝鮮人の子孫であったかである。
また、出入国管理庁第一部長の田中三男が密入国したハンセン病患者は二名であった証言し、光田が言うような状況を「風評」「うわさ」に基づくものであると述べている。つまり、光田の言う、韓国の小鹿島療養所から患者が逃走して日本に密入国しているという主張は事実に反するものである。
このように、光田が衆議院行政監察特別委員会でおこなった証言は、事実に基づかない思い込みや推測で述べたものに過ぎない。故意に事実ではないことを光田は吹聴し、絶対隔離政策維持の根拠としたのである。この証言は、絶対隔離政策維持のために故意になされた偽証に限りなく近いものであった。朝鮮戦争に乗じて「韓国癩」の恐怖を煽り、絶対隔離政策を維持させようとした光田の戦略であった。

藤野豊『戦争とハンセン病』

藤野は光田が絶対隔離政策を維持するために「故意」に「韓国癩」の恐怖を喧伝したと考察する。そして、「ハンセン病医療の権威である光田健輔が証言することで、『風評』『うわさ』が真実であるかのような印象を社会に与えていった」と、光田の証言の重さを指摘する。

私が「光田健輔論」で明らかにしたいことの一つが、まさにこの「権威」による世論操作の恐ろしさ、社会に対する影響力の強大さである。人は「権威者」「専門家」に弱い。どれほど発言の根拠となる情報が不確実であっても偏っていても、発信者の「権威」「専門」によって人々は安易に信じ込んでしまう。

犀川一夫は光田健輔の発言について「対外的な先生の発言は、日本のらい行政に直接影響するだけに、先生は意識して発言しておられた」(『門は開かれて』)と善意に解釈しているが、私には自説に固執した頑迷な人間であるとしか思えない。

光田が「韓国癩」の恐怖を喧伝したように、菊池恵楓園長宮崎松記は「軍人癩」の増加に警鐘を鳴らした。

…宮崎は、平時でも軍勤務中にハンセン病を発症する例が多いので、戦時には結核同様、ハンセン病も多くなると予想を立てた。恵楓園においても日中戦争勃発以来146名のハンセン病の兵士を収容しているからである。

藤野豊『戦争とハンセン病』

宮崎は「軍人癩」の人数を、最初17000人と推定し、その後に12000人、さらに1948年には6000人と修正して報告している。しかし実際は、「敗戦時の軍事保護院の発表によれば、郡司保護院が取り扱ったハンセン病患者は660人とされ、また、宮崎の調査でも、日中戦争以来、全国の国立ハンセン病療養所に収容された戦地で発症した患者は624名に過ぎなかった」(藤野豊『戦争とハンセン病』)のである。宮崎の思い込みによる臆測である。
事実、駿河療養所長高島重孝は「軍人癩」の発症は年間100人と推測して「爆発的多数の流行は認めがいた」と断言している。また、厚生省公衆衛生局結核予防課技官も「この戦争による患者の発生は余り注目すべき程度に達していない」と述べている。
しかし、宮崎もまた光田と同じく自説に固執し、「軍人癩」が激増するという理由から「無癩県運動」の継続と「癩予防法」の隔離条項の強化を訴えたのである。

光田の描いた「ストーリー」あるいは「シナリオ」は、自らが提唱して創り上げた「絶対隔離政策」の維持存続である。
ハンセン病の根絶という「目的」のためには「感染源」であるハンセン病患者を「隔離」し、生涯閉じ込めておくことで一般社会に病原菌を蔓延させず、「断種・堕胎」によって患者の子孫を絶滅させることによって、患者の全滅=ハンセン病の終焉と考えたのである。
そのために、ハンセン病の恐怖を誇大に喧伝し、社会をハンセン病から防衛するという「大義」を掲げて、人々を「無癩県運動」に駆り立て、排除・排斥に正当性を与え、差別や偏見を助長した。
戦前は「救癩」の名目を隠れ蓑にして独善的かつ独裁的な療養所運営を行い、違法と認識しながら平然と「断種・堕胎」を行い、ハンセン病医学のためと強制的に「解剖」を行う<ハンセン病医療の形式>を構築した。戦後になっては<公共の福祉>が「大義」となっただけで、内実は変わらない。光田にとって<絶対隔離政策>の邪魔になるものはすべて否定し、推進に利用できるものはすべて取り込む。たとえ真偽が不確かなものであってもである。

このように「軍人癩」「韓国癩」が増加するという虚構が絶対隔離政策維持の重要な根拠とされた。戦後になっても、戦争が隔離を強化するという構図には変化はなかったのである。そして、1953年、患者のハンストや座り込みなどの抗議を無視して、「癩予防法」は「らい予防法」と改正され、絶対隔離政策は維持された。厚生省の官僚たちは全国の療養所を回り、説得に当たった。その論理は、「公共の福祉」であった。ハンセン病患者が社会に復帰すると、大多数の国民が不安を抱くので、それを防ぐためにハンセン病患者は今後も隔離を受容せよというのであった。かくして、基本的人権の尊重をうたった日本国憲法の下で、ハンセン病患者の人権は無視されていく。大多数の国民の安全・安心という「公共」の価値のためには、ハンセン病患者という少数者の人権は犠牲に供されてもやむを得ないという論理が罷り通った。

藤野豊『戦争とハンセン病』

光田はハンセン病患者を「犠牲者」と平気で呼んでいるが、患者が自らの意思で「犠牲者」となったのではない。光田や厚生省官僚がハンセン病患者に「犠牲」を強いているのである。光田や厚生省官僚はその自覚が乏しい。戦争においても同様の論理が使われ、「犠牲」が美徳のように言われたが、その場限りの一時的な「煽て」でしかなかった。私は自らは何の「犠牲」も払わずに、他者に「犠牲」を強いる論理を決して認めない。<公共の福祉>を「犠牲」を強いる正当化に使ってはならない。

光田ら<第一世代>の影響を強く受けた弟子たち<第二世代>は、まるで<呪縛>されたかのように、<公共の福祉>という美名の下で「犠牲」は仕方がないと「絶対隔離政策」を踏襲していった。

…大阪市衛生部予防課が1949年に作成した『癩予防の栞』において、執筆した多摩全生園医官田尻敢は「戦後の新日本の第一の文化運動として、無癩日本の樹立を目標とする事を提唱」し、ハンセン病は「多くは治療によって病気は軽快はするが全治は困難である。これがため癩の対策としては、癩患者を全く療養所に収容する事が最も重要な処置であ」って、これが「対策の唯一のものであってこれ以外にはない」と断言している事実も見逃せない。田尻は「患者を健康者から隔離して、社会を保護する一方、社会も亦患者に永い治療生活をつゞけさせる様につとめる義務がある」と述べる。田尻の論もまた、「無癩県運動」を推進するものであった。
また、このパンフレットに「序言」を寄せた長島愛生園長光田健輔は、大阪府が「全国から寄せ来る癩潜伏者、南鮮、沖縄から寄せ来るであろう癩波」への「防波堤」となることを求めている。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

田尻敢は明治35(1902)年生まれで、昭和6(1931)年に愛生園に医官として府県立全生病院から転任している。この頃の愛生園は光田門下の林文雄、井上謙、宮川量などが勤務していた。「長島事件」時には医務課長であった。その後、多摩全生園医務部長、宮崎松記の後を継いで菊池恵楓園長を歴任している。

大阪府市衛生部予防課だけではない。福島県衛生部が作成したパンフレット(『国から癩を無くしませう』)もある。

すなわち、そこでは「癩療養所は、癩病患者を最新の医学に依って、十分な治療する病院であると共に、患者の楽しい村とゆうようなもので、そこでは最近発見されたプロミンと云う新薬で治療が受けられるばかりでなく、精神上の不安もなく、物質上の不自由もなく、種々な娯楽施設もあり安穏に生活することが出来るのである」「療養所とゆう所は患者を世の中から追いやって、閉ぢ籠めて置く場所ではなく、患者の為に設けられた唯一の楽天地なのである」と療養所が「癩患者の楽園である」ことを強調し「療養所がもっと多くの病床を有して、発見された患者が全部入られるようにならなければならぬ」「患者が自ら進んで療養所え行くように、また家族も喜んで送るようにならねばならぬ」と隔離収容の必要を訴え、「癩患者は之れまで療養所のあることを知らなかったり、知っても入る事を拒んだり、或は誤解したりして、徒らに諸国を放浪してゐたが、之は本人の為にも、世の中の為にもよくないことであるから進んで一日も早く、療養所え入るようにせねばならぬ。人道上から見ても、保健衛生上から見ても、国家の体面上から見ても、棄てて置くことの其来ぬこの呪わしい病気が、一日も速かに根絶されるよう、お互いに協力しようではないか」と締めくくっている。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

一体誰が書いた文章だろうか、その人物たちの認識を疑ってしまう。まさしく「戦前」の「無癩県運動」そのままの認識であり、光田健輔らが繰り返し喧伝してきた内容である。「絶対隔離政策」と「無癩県運動」は戦後も継続されていったのである。

このように「無癩県運動」を推進するパンフレット(上記以外にも愛知県衛生部『癩の話』など)が各都道府県によって作成された背景には、厚生省の指導がある。厚生省は、国立療養所の病床増加を前提に、1950年より毎年「らい予防事業について」の通牒を各都道府県知事宛てに発して、隔離の強化を指示し、各都道府県の事業計画の報告を求めている。

厚生省及び各都道府県衛生部が参考にしたのは、ハンセン病の専門医であり療養所長である。光田らの意見や主張を、彼らの「権威」「専門性」ゆえに信じ込んだのである。

…この政策は、全ての患者を終生療養所に隔離して絶滅することで日本のハンセン病問題を最終的に解決しようとする政策である。
この政策目標を達成するためには、官の力で療養所を拡充して収容人数を増やすだけでは明らかに不十分で、患者が療養所の外では生きられない社会状態を創り出すことが必須であり、そのために行われたのが「無らい県運動」である。官が主導して多くの国民を動員し、患者と家族の人生を根底から破壊したこのような運動は日本独特のものであり、わが国のハンセン病政策の残酷を象徴するものである。
この運動には、地方行政官などさまざまな人びとが参加したが、とりわけ重要な役割を果たしたのが絶対隔離論を信奉していたハンセン病専門医たちであった。彼らは医師という社会的地位の高さと専門家という権威とを利用しながら、ハンセン病について誤った疾病観を国民に植え付け、無らい県運動の“必要性”を国民に信じ込ませる上で決定的に重要な役割を果たした。このような専門医の協力なしには無らい県運動はあり得なかったと言ってもよい。

和泉眞藏「無らい県運動と絶対隔離論者のハンセン病観」

『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』に収録された和泉眞藏の上記論文において、専門医であるにもかかわらず絶対隔離論に固執した光田や彼の弟子たちである<第一世代>および<第2世代>の誤った認識や政策、偽りを論証し、厳しく糾弾している。
特に、光田健輔の国会での証言(「三園長証言」)については、「光田が述べていることは当時の医学の常識から見ても全く誤っている」「ようするに光田は、誤った情報で議員たちの恐怖心をあおり絶対隔離政策が変更されないように画策したのである」と手厳しく批判する。

ここでも光田は偽りを述べている。プロミンなどの化学療法剤の効果についてはまだ十分検証されておらず、必ず再発すると結論的なことはいえない時期であり、世界では隔離政策の全面的な見直しが始まっていたが、光田はそのことに触れていない。またハンセン病が家族内伝染だけではなく、幼児への感染を防ぐだけでは蔓延を完全に防げないことはよく分かっていた。それにもかかわらず発病していない家族の断種まで行うべきという主張には狂気すら感じられる。
当時の光田は、断種堕胎を含む日本型絶対隔離政策は世界のどこでも実施されるべき唯一の正しいハンセン病対策と思い込み、隔離政策を緩和するとこれまでの努力が水泡に帰すと本気で心配していたようである。

和泉眞藏「無らい県運動と絶対隔離論者のハンセン病観」

和泉は本論文の「おわりに」で、「絶対隔離論者たちは、前近代から引き継いだ旧いハンセン病観と社会的差別や偏見に囚われて、伝染性や治癒性についての近代ハンセン病医学の知識を正しく反映させないという重大な過ちをおかした」と結論づけている。

私は、やはり光田健輔の「権威」と「専門家」という<イメージ>を、弟子たちも厚生官僚も盲信し追従してしまい、<呪縛>から逃れることができなかったのだと思う。

何より、もし自分が患者となり、家族から引き離され、断種・堕胎を強制され、隔離生活において強制労働をさせられ、管理者から高圧的な態度で接せられ、そんな人生を終生送らねばならないとしたら、どうであろうか。光田健輔そして宮崎松記や林芳信、ハンセン病の専門医、官僚や政治家は、自らと置き換えて想像したであろうか。
かつて国賠訴訟を批判した人物に対して、「1億円で私の人生と交換してくれるか」と反問した患者がいる。

「権威」ある者に最も不足しているのは<想像力>である。神谷美恵子の有名な詩に「どうしてこの私ではなくてあなたが? 」があるが、私には単なる心情的な同情・憐憫からの言葉としか思えない。彼女には自分が患者となって堕胎されたり、苛酷な労働をさせられたりする姿が想像できていたとは思えない。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。