「癩予防法」改正(「らい予防法」成立)の背景に、栗生楽泉園での<一・一六事件>が与えた衝撃は大きい。今まで社会にほとんど知られることのなかったハンセン病療養所において、まるでアウシュビッツ収容所に等しい残虐な監禁が行われていた<特別病室>問題の舞台となった栗生楽泉園で、今度は3名の殺害事件が起こった。しかも、殺人事件というよりも暴力による抗争事件あるいは集団リンチ事件と世間の目には映っただろう。この事件は様々な波紋を拡げている。
療養所のあり方、懲戒検束権、ハンセン病患者の犯罪行為・迷惑行為への対処が問題とされたが、何より事件の加害者・被害者が「朝鮮・韓国人」のグループであったことが大きい。
友人である金泰九さん(在日韓国人)から聞いた話をしておきたい。
光田健輔ついての話をいろいろと聞いていたなかで、金さんがハンストをおこなっていた時(1953年、「癩予防法」改正に反対して)、見回りに来た光田が金さんを一目見て、「お前は半島人だな」と言ったという。金さんは「半島という国もないのに半島人はない。取り消してもらいたい」と抗議したが、光田は取り消さなかった。その後も幾度か、自分だけでなく療友の朝鮮・韓国人に対しても「半島人」と言うのを聞いた。何を訊ねても穏やかな口調で言葉を選んで話し金さんが、憤りを露わにしたのを鮮明に覚えている。
「鮮人」や「半島人」という蔑称を平気で使用し、戦前の植民地支配の感覚そのままに朝鮮・韓国人に対して偏見・差別の感情で見下す光田健輔は、思い込みが激しく、しかも頑迷固陋ながゆえに、まちがった認識あるいは確証のない発言によって多くの「偽証」をしているが、それさえも意固地に訂正することも認めることもしない。
藤野は光田が絶対隔離政策を維持するために「故意」に「韓国癩」の恐怖を喧伝したと考察する。そして、「ハンセン病医療の権威である光田健輔が証言することで、『風評』『うわさ』が真実であるかのような印象を社会に与えていった」と、光田の証言の重さを指摘する。
私が「光田健輔論」で明らかにしたいことの一つが、まさにこの「権威」による世論操作の恐ろしさ、社会に対する影響力の強大さである。人は「権威者」「専門家」に弱い。どれほど発言の根拠となる情報が不確実であっても偏っていても、発信者の「権威」「専門」によって人々は安易に信じ込んでしまう。
犀川一夫は光田健輔の発言について「対外的な先生の発言は、日本のらい行政に直接影響するだけに、先生は意識して発言しておられた」(『門は開かれて』)と善意に解釈しているが、私には自説に固執した頑迷な人間であるとしか思えない。
光田が「韓国癩」の恐怖を喧伝したように、菊池恵楓園長宮崎松記は「軍人癩」の増加に警鐘を鳴らした。
宮崎は「軍人癩」の人数を、最初17000人と推定し、その後に12000人、さらに1948年には6000人と修正して報告している。しかし実際は、「敗戦時の軍事保護院の発表によれば、郡司保護院が取り扱ったハンセン病患者は660人とされ、また、宮崎の調査でも、日中戦争以来、全国の国立ハンセン病療養所に収容された戦地で発症した患者は624名に過ぎなかった」(藤野豊『戦争とハンセン病』)のである。宮崎の思い込みによる臆測である。
事実、駿河療養所長高島重孝は「軍人癩」の発症は年間100人と推測して「爆発的多数の流行は認めがいた」と断言している。また、厚生省公衆衛生局結核予防課技官も「この戦争による患者の発生は余り注目すべき程度に達していない」と述べている。
しかし、宮崎もまた光田と同じく自説に固執し、「軍人癩」が激増するという理由から「無癩県運動」の継続と「癩予防法」の隔離条項の強化を訴えたのである。
光田の描いた「ストーリー」あるいは「シナリオ」は、自らが提唱して創り上げた「絶対隔離政策」の維持存続である。
ハンセン病の根絶という「目的」のためには「感染源」であるハンセン病患者を「隔離」し、生涯閉じ込めておくことで一般社会に病原菌を蔓延させず、「断種・堕胎」によって患者の子孫を絶滅させることによって、患者の全滅=ハンセン病の終焉と考えたのである。
そのために、ハンセン病の恐怖を誇大に喧伝し、社会をハンセン病から防衛するという「大義」を掲げて、人々を「無癩県運動」に駆り立て、排除・排斥に正当性を与え、差別や偏見を助長した。
戦前は「救癩」の名目を隠れ蓑にして独善的かつ独裁的な療養所運営を行い、違法と認識しながら平然と「断種・堕胎」を行い、ハンセン病医学のためと強制的に「解剖」を行う<ハンセン病医療の形式>を構築した。戦後になっては<公共の福祉>が「大義」となっただけで、内実は変わらない。光田にとって<絶対隔離政策>の邪魔になるものはすべて否定し、推進に利用できるものはすべて取り込む。たとえ真偽が不確かなものであってもである。
光田はハンセン病患者を「犠牲者」と平気で呼んでいるが、患者が自らの意思で「犠牲者」となったのではない。光田や厚生省官僚がハンセン病患者に「犠牲」を強いているのである。光田や厚生省官僚はその自覚が乏しい。戦争においても同様の論理が使われ、「犠牲」が美徳のように言われたが、その場限りの一時的な「煽て」でしかなかった。私は自らは何の「犠牲」も払わずに、他者に「犠牲」を強いる論理を決して認めない。<公共の福祉>を「犠牲」を強いる正当化に使ってはならない。
光田ら<第一世代>の影響を強く受けた弟子たち<第二世代>は、まるで<呪縛>されたかのように、<公共の福祉>という美名の下で「犠牲」は仕方がないと「絶対隔離政策」を踏襲していった。
田尻敢は明治35(1902)年生まれで、昭和6(1931)年に愛生園に医官として府県立全生病院から転任している。この頃の愛生園は光田門下の林文雄、井上謙、宮川量などが勤務していた。「長島事件」時には医務課長であった。その後、多摩全生園医務部長、宮崎松記の後を継いで菊池恵楓園長を歴任している。
大阪府市衛生部予防課だけではない。福島県衛生部が作成したパンフレット(『国から癩を無くしませう』)もある。
一体誰が書いた文章だろうか、その人物たちの認識を疑ってしまう。まさしく「戦前」の「無癩県運動」そのままの認識であり、光田健輔らが繰り返し喧伝してきた内容である。「絶対隔離政策」と「無癩県運動」は戦後も継続されていったのである。
このように「無癩県運動」を推進するパンフレット(上記以外にも愛知県衛生部『癩の話』など)が各都道府県によって作成された背景には、厚生省の指導がある。厚生省は、国立療養所の病床増加を前提に、1950年より毎年「らい予防事業について」の通牒を各都道府県知事宛てに発して、隔離の強化を指示し、各都道府県の事業計画の報告を求めている。
厚生省及び各都道府県衛生部が参考にしたのは、ハンセン病の専門医であり療養所長である。光田らの意見や主張を、彼らの「権威」「専門性」ゆえに信じ込んだのである。
『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』に収録された和泉眞藏の上記論文において、専門医であるにもかかわらず絶対隔離論に固執した光田や彼の弟子たちである<第一世代>および<第2世代>の誤った認識や政策、偽りを論証し、厳しく糾弾している。
特に、光田健輔の国会での証言(「三園長証言」)については、「光田が述べていることは当時の医学の常識から見ても全く誤っている」「ようするに光田は、誤った情報で議員たちの恐怖心をあおり絶対隔離政策が変更されないように画策したのである」と手厳しく批判する。
和泉は本論文の「おわりに」で、「絶対隔離論者たちは、前近代から引き継いだ旧いハンセン病観と社会的差別や偏見に囚われて、伝染性や治癒性についての近代ハンセン病医学の知識を正しく反映させないという重大な過ちをおかした」と結論づけている。
私は、やはり光田健輔の「権威」と「専門家」という<イメージ>を、弟子たちも厚生官僚も盲信し追従してしまい、<呪縛>から逃れることができなかったのだと思う。
何より、もし自分が患者となり、家族から引き離され、断種・堕胎を強制され、隔離生活において強制労働をさせられ、管理者から高圧的な態度で接せられ、そんな人生を終生送らねばならないとしたら、どうであろうか。光田健輔そして宮崎松記や林芳信、ハンセン病の専門医、官僚や政治家は、自らと置き換えて想像したであろうか。
かつて国賠訴訟を批判した人物に対して、「1億円で私の人生と交換してくれるか」と反問した患者がいる。
「権威」ある者に最も不足しているのは<想像力>である。神谷美恵子の有名な詩に「どうしてこの私ではなくてあなたが? 」があるが、私には単なる心情的な同情・憐憫からの言葉としか思えない。彼女には自分が患者となって堕胎されたり、苛酷な労働をさせられたりする姿が想像できていたとは思えない。