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ハンセン病担当官の苦悩と喜び(2)

前回紹介した『かけはし ハンセン病回復者との出会いから』(小川秀幸)に、次の一文がある。

国が過去の政策を謝罪したことを受けて全国の都道府県知事らが岡山県をはじめ各地の療養所を謝罪に訪れたが、宮田さん(入所者)はその動きに「中央集権国家」の影を見た。
「この際ウチも行っとかなきゃ、といったそんな感じでしたね。国が強制収容ですよ、と言ったら地方は従うし、『それは間違いでしたから謝ります』と言ったらみんな謝罪に来るし…。裏返しだということです。国が控訴を見送ってそういうふうに動いたから地方もみな動いたわけです。結局、自分の感覚、自分の主張というものがなく、国に従っているだけなんですね。裏返すと、どうにでもなるということです」
もしかしたら、これが最も恐ろしいことなのかもしれない。「国が言うから」或いは「社会の風潮だから」ということで施行停止に陥ってしまうと、社会の矛盾にはなかなか気づかない。

小川秀幸『かけはし ハンセン病回復者との出会いから』

私も「宮田さん」と同じ「違和感」を感じたことを、今も覚えている。急に各都道府県知事や市長が各療養所を訪問して患者に「謝罪」する姿がTVニュースや新聞で流れ始めたことに疑問を感じていた。

何を謝罪したのか、なぜ謝罪したのか、なぜ今になっての謝罪なのか、彼らは本当にわかって謝罪しているのだろうか。私にはそのようには見えなかった。形式的な「謝罪」を神妙な顔つきで、反省している素振りで、カメラの奥にいる国民に向けてのアピールとしか思えなかった。

必ずと言っていいほど、「国を代表して~」「県を代表して~」という言葉を冒頭に付けての「謝罪」である。確かに、彼らは国や県の代表ではある。しかし、直接の加害者ではない。彼らの何代も前の総理や政治家、官僚、知事や市長が「らい予防法」を作成し、「無らい県運動」を推進し、強制収容の命令を下した。彼らが直接に患者に対して「執行」したわけではない。
何より日本のハンセン病政策、絶対隔離政策を考え、実行した光田健輔や療養所所長、医官たち、光田の意見に賛同して法整備を行った当時の厚生省官僚たちこそが「謝罪」すべきである。だが、彼らのほとんどが鬼籍に入っている。彼らの後継者たちは「踏襲」しただけだと責任を回避するか、沈黙するかであった。責任回避の根拠を<時代的正当性>に逃げている。

そう考えていくとき、私は「謝罪」の必然性は認めるが、必要性については必ずしも認めることはできない。「謝罪」の意味をどこに求めればよいのだろうか。どうしても一時的な感じがしてしまう。

「代表して」とは、誰の「代表」なのか。国民か県民か、それとも鬼籍に入った光田たちなのだろうか。光田たちハンセン病政策を推進した者たちに「代わって」の「謝罪」という意味なのだろうか。では、「謝罪」した当人はどう思っているのだろうか。自分には「黙認」「踏襲」「放置」の責任はあっても、実際に「執行」した責任はないと思っているのだろうか。


本書に、三重県知事の「謝罪」について、次のように書かれている。

三重県の場合は2001年6月に、当時の北川正恭知事が県議会の本会議で、真弓俊郎議員(共産)の一般質問に答えて次のように述べた。
「これまでの長きにわたり、患者や元患者の方々が単に病気に苦しむのみならず、ご家族の方々とともに社会において極めて厳しい偏見・差別を受けてこられたことに対し、その心中を察するに余りあるものがあります。また県におきましても国の施策の一環であるとはいえ、患者の方々の収容や入所の勧奨の業務を行うなど隔離政策の一端を担い、また差別や偏見の解消に積極的に努めてこなかったことについて反省するとともに、入所者の方々に対しても何らかの形で県としてのおわびの意向を伝える必要があると考えています」

その後県は、各療養所に対しておわびの文書を送ったが、知事自身の療養所訪問については、「入所者の意向を確認した上で検討していきたい」と述べるにとどめた。

小川秀幸『かけはし ハンセン病回復者との出会いから』

結局、北川知事が療養所を訪問することはなかった。三重県知事として初めて療養所を訪問したのは、野呂昭彦である。2004年4月14日、長島愛生園と邑久光明園を訪問した。
訪問に先立って、小川氏の取材に対して次のように話している。

「私が行くことによって反感を持たれることがあってはいけないと躊躇していたんです。しかし、国が隔離政策をとってきた、そして県もそれに追随してきた経緯がある……三重県知事という立場からいえば、過去のそういった状況については、どこかできちっと謝罪する機会、けじめが必要だと思いました。知事という立場で行っておくべきかな、と」

小川秀幸『かけはし ハンセン病回復者との出会いから』

かつて以前の勤務校で同僚だった教師が、教頭として私の転勤先に赴任してきたとき、その言動と態度の変わり様に驚いた。「すっかり管理職になりましたね」と皮肉を加味した声かけに、彼が「立場が人をつくりますから」と答えたことを今も覚えている。以来、私は「立場」という言葉の曖昧さと権威主義的な響き、何より「自分」と「立場」を便宜的に使い分けることに不信感をもつようになった。「立場が人をつくるのではなく、人が立場をつくる」と私は思っている。

小川氏は、野呂知事の長島愛生園訪問を取材した後、次のように書いている。

取材をしてひとつ感じたことがある。それは、野呂知事なりの思いをもう少し聞きたかったということだ。
知事のおわびの骨格は「入所者の皆さんは、病気の苦しみのみならず差別や偏見を受けてこられた。県は、国の施策の一環であるとはいえ隔離政策の一端を担ってきたし、偏見の解消に積極的に努めてこなかった。これについておわびする」という内容だった。これは、前任者の北川知事が三年前の2001年に県議会で述べた内容と、ほとんど同じである。
「行政の継続性」ということを考えれば当然なのかもしれないが、厚生政務次官を務め、以前にも療養所を訪問したことのある野呂知事ならではの見解や言葉が、もう少し聞きたかった。

小川秀幸『かけはし ハンセン病回復者との出会いから』

小川氏はやんわりと書いているが、「行政の継続性」ではなく、「立場上」の「謝罪」であれば異口同音となるだろう。あくまで「県として」行ってきたことをまちがいであったと反省しての「おわび」である。
具体的には、「国の施策の一環であるとはいえ隔離政策の一端を担ってきた」「偏見の解消に積極的に努めてこなかった」の2点についての「おわび」である。そして、「隔離政策の一端」とは、「患者の方々の収容や入所の勧奨の業務」(北川知事)である。

順当な内容であるが、たぶん秘書官らが国や他県の「謝罪」を参考に作文したのだろう。私が気になるのは、「国の施策の一環」という根本的な責任においては国に転嫁している点である。前回の高村さんの証言にあるように、国からの強引な命令に地方行政としては応えるしかなかったのは事実であろう。だが、やはり実働部隊として、都道府県知事の命令を受けて患者収容に努めた地方自治体の責任は大きいと思う。

1938(昭和13)年1月11日に内務省から分離される形で発足した厚生省の衛生局(その後、名称を公衆衛生局に変更)は戦後も「癩予防法」および「らい予防法」の施行に当たったが、都道府県での実施機関は、戦後の警察改革に伴って、警察の衛生部から都道府県の衛生部に移された。そして、1947(昭和22)年9月5日の保健所法改正により新たに自治体保健所として再発足した都道府県保健所が衛生部の指示の下で患者の強制隔離等に当たった。しかし、厚生省衛生局→都道府県衛生部→都道府県保健所というラインだけで全患者隔離を達成し得るかとなると、それは不可能に近かった。敗戦後の混乱の中でむしろ増加した「在宅患者」や「放浪患者」に対応するためには、戦前以上に民間の協力を得ることが不可欠となった。国および都道府県は民間団体と協力して、全患者隔離の必要性について地域住民の理解と協力を求めるための啓蒙・啓発活動を大々的に行った。

「戦後の『無らい県運動』について」熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書

私が「謝罪」に不十分さを感じてしまうのは、形式的な言葉に隠された「認識の不確かさ」と「教訓の不透明さ」である。責任ある立場であれば、ハンセン病の歴史、何がまちがいであったかについては知っておくべきだし、せめて「最終報告書」くらいは読み込んでおくのが当然だろう。そして、何を「教訓」として学んだのかを明らかにすべきである。その上でこそ、「謝罪」の意味がある。

入所者に向けて、「病気の苦しみのみならず差別や偏見を受けてこられた」と語る前に、ハンセン病患者や家族に向けられた「差別や偏見」とは何であったのか、それがどれほどのものであったかを学ぶべきである。どれだけの患者が自ら命を絶ったか、どれほどの辛酸を味わってきたか、人間として当然の権利である子どもや孫を我が手に抱けないことがどれほどの悲哀であるか、想像力をもって学んだ上で「謝罪」すべきではないだろうか。トップの認識と誠意の不十分さが、ハンセン病対策が今も不完全なままになっている要因だと私は思う。

高村さんの人生を考えると、回復者同様、つねに悩みながら一生をおくったといえるかもしれない。
法律に基づいて収容を進め、法律が果たした役割を認める一方、その法律が家族を引き裂き、時には命をも奪う冷酷さに涙した。思い切って国にもの申すが却下され、病気に対する偏見にも直面、その解消に努めるが世間の意識はなかなか変わらない……。

私は思う。法律がどんな形であっても、また携わったのが警察から県職員に変わったとしても、収容は半ば強制的なものだったという面は否定できないのではないか。
ハンセン病にかかった人たちは、本当はもっと母親にまとわりついていたかった、本当はずっと故郷で暮らしたかった……。でも皆さんは知っていたのだ、隔離を定めた法律があることを。そして、いったん警察や保健所に通報されれば家族や親族にまで偏見が及び、村八分になることを。

結果的に、ほとんどの人は療養所へ行く道を選んだ。しかしそれは法律や社会の偏見に“包囲”された結果であり、純粋な自分の意思とはいえないのではないだろうか。つまり、実質的には強制的な収容だったのではないか。

社会全体が「ハンセン病は迷惑な病気だ。患者を遠いところへ隔離してしまえ」という空気をつくり、それが大きな圧力となって、患者や回復者を社会の隅っこに追いやってしまった。厚生省は隔離を盛り込んだ法律を作り、国会はその誤ちに長年気づかなかった。また、医者もハンセン病の感染力がきわめて弱いことを周知しようとせず、マスコミもソッポを向く。書いたとしても「患者を野放しにするな」というような記事。そして国民は「〇〇町にハンセン病患者がいる」と通報し、社会からはじき出そうとした。
つまり、ハンセン病、あるいはハンセン病回復者に見向きもしなかった大多数の立場、大多数の国民が「強制した」収容だったのではないかと思っている。

小川秀幸『かけはし ハンセン病回復者との出会いから』

長く引用したが、小川秀幸氏のこの一文にハンセン病問題が今も続いている理由(要因)が端的に述べられていると思う。我々は、「見えないようにされていた」「隠されていた」と言っても、あまりにも「無関心」でありすぎたのだ。

人は「知らなかったから」と言うだろう。私自身も、岡山県東部に住み、車でわずか3~40分のところに長島がある。牛窓のオリーブ園には遊びにも行ったことがあり、年に数回は対岸に立って瀬戸内海を眺めている。にもかかわらず、大人になるまでほとんど知らなかった。朧気に記憶しているのは、「あの島には鬼のような人たちが閉じこめられている」というような風評だった。

教師となり、部落問題に関わる中でハンセン病問題にも取り組み始め、詳しく知るようになり、「らい予防法」廃止にも参画した。「知ったことに対する無関心は、人間の物化である」とは、高橋和巳の言葉だが、知らないままであれば、無関心であることさえ気づかなかっただろう。

「隔離」の恐ろしさは<人間の存在>を消し去ることができるということだ。

島国だからこその刑罰だろうが、古来から「島流し」の刑が存在する。典型的なのは、江戸時代の「八丈島」だろう。実は、岡山にも「流人島」があった。長島の隣に位置する日生諸島の鹿久居島は「流罪の島」であった。光田健輔が療養所の候補地を島に求めた背景に、「八丈島」などの「流人島」があったのかもしれない。

『かけはし』に、入所者である川北さんが、邑久長島大橋開通を報じた当時の新聞の見出し「“人間回復の橋”開通」に違和感を覚え、「それやったら、わしらそれまで人間やなかたんか、ということになりますわな。正しくは“人間性回復の橋”なんですよ」と語ったと書かれている。

私は、厳しい見方かもしれないが、ハンセン病の歴史、そして光田健輔の考えからは、やはり“人間回復の橋”の方が正鵠を射ていると思う。入所者の立場からは川北さんの思いの通りだろう。しかし、島に「隔離」した側からは、ハンセン病患者という<人間の存在>を消し去ったのである。<存在>しているのに<存在>していないことにされたのである。橋は“人間存在の回復”なのである。

その意味でも、高村さんや村田さんたちのようなハンセン病担当者は、<存在>を消された入所者の<存在>を証明し続けた人々であると私は思う。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。