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「重監房」に学ぶ(8) ルポ「特別病室」

藤野豊氏の『「いのち」の近代史』「Ⅵ継続された隔離政策 第二章「特別病室」」に、1947年に刊行された雑誌『真相』に、三谷孝「白日下に晒された療養所楽泉園を観る」というルポが掲載されていると、その一部を抜粋して引用・紹介してあった。私も読んでおくべきと考え、いろいろと手を尽くして買い求めることができた。わずか36ページほどの小冊子で、戦後すぐということで紙質も悪く、印刷も粗悪なもので、2枚の掲載写真も不鮮明でわかりにくい。印字の悪い文字を読みながら、まだ「特別病室」が健在であった時に、実際に全体と内部を見て、患者に直接に取材しての記事であるがゆえに、その生々しい惨状が浮かび上がってくる。

このルポは、共産党の支援を受けて立ち上がった患者たちによる「人権闘争」の結果、それまでの施設側の理不尽極まりない横暴な運営、患者への暴言・暴行、不正行為、そして「特別病室」が白日の下に明らかになり、国会でも追及された、その時期の取材である。

この貴重なルポルタージュがなぜ長く人々に注目されることなかったのか。ここに、その核心部分を抜粋して転載しておくことは、今後の研究にとっても歴史的史料としても有意義であると考える。


…赤松と櫟と白樺の林にかこまれた高原のはしに、国立癩療養所『栗生楽泉園』がある。ここに千二百五十五名の患者が収容され、未来に望みなき暗い『いのち』を養っているが、いままで当局者が癩患者の楽園だと喧伝されていた楽泉園は、その実、社会からかく絶しているのをよいことに、惨酷きわまる待遇と、強制労働と暗室拘禁が公然とおこなわれていた。この世の地獄であったことが明らかにされた。

…しかし患者たちの生活費は一日一人当り五円十四銭、燃料代も調味料代も含めて鶏一羽のえさ代にも足らぬ食費をおしつけられている。役人は社会と交渉のないのをよいことにして、患者の配給品をヤミに流したり、療養所の経費の一部をつかって『特別会計』だと称し、これをヤミ資金に大がかりなブローカーをやって私腹を肥していた。こうした秘密を少しでも外部にもらしたり、改革しようとする患者は『不穏分子』というらく印を捺されて五重の扉をもった暗室に拘禁され、いじめぬかれて殺されてしまう。こうした言語に絶する惨酷な処置が明治四十二年制定の『ライ予防法』という法律の名のもとに、社会の裏で公然と行われてきたのだ。だが、この地獄のすみかにも黎明が訪れた。八月十五日午後七時、はじめて患者集会がもたれ、人間らしい叫びの第一声があげられた。待遇の改善を要求し、職員の不正を摘発し、手足の不自由な患者がかたく手を握りあってたちあがり、ここにはじめて地獄の秘密があばかれたのである。

たちあがった楽泉園の患者たちが、まず問題にしたのは、“地獄の鉄鎖”とよんで恐れていた特別病室である。しかし病室とは名ばかり、ここに入れられたが最後医師の治療も受けられず、入浴もできず、食事は桃の実位いのにぎりめしに梅干しが一つで、入り口の五寸厚みの鉄扉はさびつくまで開かれない。療養所の門をはいって右に、赤松の林の中を約一町ばかり熊笹をおし分けて進むと、突然コンクリートの高いへいにぶつかる。ちょうど中世紀の中央アジア辺の城塞のような感じの建物が特別病室である。監房から外へ出るためには五重の鉄の扉をくぐらなければならない。室内は約四畳半の広さで総板ばり、床は地上約一尺位いの高さだがこの返は湿気が強いので黒かびがはえていた。窓は天井に近いところに巾四寸、長さ二尺五寸のものが二ヶ所あるだけで、冬に雪が積つたときなどは昼夜の判別がつかない暗さだ。もちろん電燈も保温設備もなく、一枚のゴザすら与えられずに薄い敷布団とかけ布団が一枚づつである。冬期は零下十七度以下にさがるので、獄死者は全身凍傷におかされ、苦しまぎれに布団の綿をちぎって全身にまきつけ、頭髪はうきあがり苦悶の形相もの凄く死んでいる。また湿気のために敷布団はコチコチになり一枚の板のように床に凍りついて、かけ布団のえりには患者の呼吸が凍って、死んでからあとも氷柱となってさがっていたこともあったという。獄内には患者の苦悶の落書きがいっぱいある。カレンダーをつくり一日一日と消したあとや、命をのろったものものこっていた。昭和十四年九月卅日から本年七月九日までの間に入獄者は九十二人(但しこれは帳簿に記載されたものだけで、この外記載外のものも相当あるようだ)、このうち法規上合法化されて処断されたものはただ一件で、あとはすべて不法拘禁である。一件書類が全然なくて処断されたものが六十四件もある。法規上では卅日以上は拘禁出来ないことになっているが、九十二件のうち卅日以上が八十五%をしめ、平均日数は百二十一日となっている。死亡者の数を季節的にみると、冬期に死んだものが八十二%をしめ、十八件、夏三件、秋一件となっている。

では如何なる理由からこんな惨酷な目を見たのかというに、正当な理由があるとみられるものは二、三名で他は単に職員の感情を害したとか、また全然理由にもならぬことで投獄されたものが大部分である。

このほか園内では二段歩ほどの南瓜畑を患者に作らせているが、ここで収穫したものを職員たちが勝手に食料とし、余った分を町に売ってその金は職員たちが分け、そのあと畑にころがっている三番なりの小さな南瓜を、患者の一人が空腹にたえかねて盗んだというので早速この獄舎に入れた例もある。どんな理由であっても一度投獄したが最後、絶対に扉はあけない、毎日の食事が差入口に重なってくると入室者が死んだことが判るので始めて開けるのだ。

患者が中でいくらあばれても、わめいても社会からかく絶しているうえに園内でも人家から遠くはなれた山林中の出来ごとで、なんの役にもたたないようになっている。こうして人里はなれた秘境に、この世ならぬ地獄絵図がくりひろげられてきたのである。

栗生楽泉園は全員千四百四十五名、患者のほか職員百廿名と、保育所に未感児童百名が収容されているが、さる八月十五日の晩共産党参議院地方補欠候補者、除村吉太郎の応援演説会がこの楽泉園中央公会堂でもたれた。そのあと約四百名の患者と座談会を開いたが、この席上で患者たちの口から恐るべき秘密が一つ一つばくろされたのである。始めはなかなか口を開かなかった患者たちも、重なる不平不満に、あとで手ひどい復しゅうされる恐怖の感情をおし切って、次ぎ次ぎと非人道的な仕うちと職員の不正をあばいた。そこでまず個々ばらばらな患者の不平と希望を整理し、一本の要求にまとめあげて、一方同情的な職員と連絡をとって、現状打破へ団結して邁進することになり、その手はじめに窮迫した患者たちの生活実態調査を行い、これを基礎として十七日に第二回目の患者集会をもった。ここで暫定要求項目をきめ、職員の不正事実の調査を始めることになり、食料倉庫からはじめることになった。
第三回の患者大会は十九日午後七時から開かれ、六項目の要求を決定した。
一、生活保護法による扶助料を支給せよ。一人一カ月当り二百円。
二、作業賃金は現在の倍額、一人一日三円六十銭とし(いままで一円八十銭)半日労働はその半額ときめよ。
三、半強制労働を撤廃せよ
四、各種会計を公表するとともに園の運営は職員、患者格半数づつよりなる「運営委員会」をつくれ。
五、患者の最低生活を保証せよ。
六、不良職員の追放を行え。
なおこの日廿六名の交渉委員を決定、園当局と交渉することになった。かくして患者たちは、厭迫のどん底からたちあがって、解放の第一歩を踏み出した。
交渉の第一日は八月廿二日、患者六百名と園長、矢島医務課長、霜崎庶務課長、加島分館長らと要求項目を逐次協議した。
『生活扶助費』については今後努力を約し、『作業賃』については、患者側が以前にこれを認めていたことを理由に言を左右していたが代表者から作業賃頭ハネの不正事実を指摘し、会計の公表を約束させた。『半強制労働』については園当局が謝罪し、加島分館長は退職することになった。
第二日目の交渉は廿三日引つずき開かれ、問題の『人権蹂躙』の特別病室問題を審議し当局もその不当であったことを認めて、霜崎庶務課長が責任をとって退職することになった。つぎに『不正行為』について正したところが、別途会計および慰安会会計は、患者の利益をはかるという美名にかくれて関東一円にわたるヤミ資金として使われた事実が明らかとなった。しかし、帳簿は目茶々々で、何がいくらあるのか少しも分からないようになっていた。つぎに『保育所問題』をただしたが、この保育所は畳は破れ、布団はボロボロで、蚤、虱、南京蟲などうじょうじょ発生している不潔さで、子供たちは丸裸、はだしで親達のもとへ逃げ帰るありさまである。そのうえこの管理の責任者、保母菅野女史は、ほうきの柄を手頃に切って、子供をなぐる道具としていた事実をつき、責任者を退職させることにした。

何しろ社会の裏面に存在し、太陽の光の外にあったような療養所の何部には、数限りない不正が横行していた。配給品のヤミ流しや、患者日当の頭ハネ、園内物品の私物化など、その総額は千数百万円にのぼるといわれているが、患者たちの努力にもかかわらず帳簿が目茶々々でかんじんの不正の張本人と目されている霜崎庶務課長、加島分館長が逃走し、行方不明中でああるので核心がつかめぬ状態にあるが、その主な資料を集めて告訴の準備を進めている。霜崎庶務課長は戦争中空襲で郷里の家が焼かれると、園内からトラックに何度も山のように木材をつんで、家を建てた上、東京に借家までつくったといわれているし、また帳簿の上で霜崎氏が売り手と買い手をかねているような奇怪なものもある。
昭和廿一年十二月十九日付で毛布二千枚がはいったことになっているが、患者には千枚わたっただけで、官舎で職員が使っているものが三百六十枚もあるが、この外の分は行方不明になっている。
また帳簿には七百五十巻はいったことになっている綿布(巾一ヤール、長サ一巻百一ヤール、軍のはらい下げ品で公売一巻八十円であるが、ヤミでは六七千円のもの)が、用途が明らかでないので追及すると、約卅本を本年三月頃ガソリンと交換したといっているし、その残品を追及すると、ガソリンと交換したのは百四十二巻である、と前言をひるがえし、結局どうなったか判らないが、伊勢崎方面に相当量がヤミ流しされた事実はある。
こんほか附近の松葉鉱山に強制的に患者を働かせていたが、鉱山側では一日一人十円ぐらいの平均で支給していたというのに、事実はその三分の一もうけとっていなかった。
こうした病めるもの、前途に希望なき人達に加へられた不当な非人間的な処置は、いまは白日のもとにさらされて、世の公正な審判と同情をまっているのだ。


栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』に書かれた内容とほぼ同じであるが、両者を読み比べてみると、当事者の目線と外部の目線で微妙な違いもある。またルポルタージュの方が詳しい記述もある。今回は、プライベート(個人情報)に関わる部分(住所・氏名など)もあり、あえて転載しなかったが、特別病室に“入獄”させられた数人の記述は、患者を人間と思わない園当局の理不尽さを物語っている。

藤野氏は次のように述べている。

ルポは、「特別病室」で繰り広げられた患者虐待は、まさに隔離政策そのものから生み出されたものであることを指摘している。
このルポは、最後に「こうした病めるもの、前途に希望なき人達に加へられた不当な非人間的な処置は、いまは白日のもとにさらされて、世の公正な審判と同情をまっているのだ。」と結んでいる。たしかに、この「特別病室」の問題は、国会でも取り上げられ、ついに廃止されることになるのだが、果たして、「世の公正な審判」はなされたと言えるだろうか。
結局、「特別病室」は取り壊されたものの、関係者はだれひとり刑事罰を受けることはなかった。「特別病室」を設置して以来の歴代厚生大臣も、厚生官僚も、そして、「特別病室」設置を推進した光田健輔以下の療養所長たちも、現場の職員も、だれひとり、22名を死に追いやった刑事的責任を問われなかった。また、かれらは道義的責任も無視し続けた。

藤野豊『「いのち」の近代史』

これこそが「重監房」から学ぶべきことなのだ。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。