網野善彦が雑誌『波』(新潮社)に連載していた「歴史のなかの言葉」に「被差別民の呼称」という連作がある。改題されて『歴史を考えるヒント』 (新潮文庫) として出版されている。
中世史家の中には異論もあるようだが、私は、いわゆる網野史学から随分と示唆をもらったし、影響も受けている。
簡潔に書いてあるので、「穢多」を中心に<被差別民の呼称>について網野の解説に従って整理しておきたい。
中世社会の中心は京都など畿内であり、交易でも西日本が主であったことから、西日本に「ケガレ」「キヨメ」の考えが拡がっていた。その考えは彼らが寺社に属していたことからも宗教的な意味が強く、<聖>と<賤>の両義性があったと考えられる。
網野は彼らを「聖なる領域に属する人々」「神仏に直属する職能民」であり、「年貢・公事を免除された給田を保持する特権を認められていた」ことから「職能民としての誇りを抱いていた」と考える。
「人間の社会と自然との間の均衡が崩れた状態からケガレが発生する」ことから、「井戸を掘ったり石や樹木を動かすことは、自然に大きな変更を加えることに」なるから、河原者はそういう仕事に従事できる特別な能力を持った「職能集団」であった。
網野は「列島の東部と西部の社会の、ケガレに対する感覚」が違うという。その一例として、罪人の「処刑(首切り)」を誰が行っていたかに着目して、次のように述べる。
この要因として、列島東部は狩猟が盛んであったことや、牧場で馬を飼育していたこと、獣を殺してその肉を食べていたことなどから、ケガレの問題に鈍感であったのではないかと網野は考えている。私は、この頃にはまだ京都から「ケガレ観」が伝播していないこと、まだ非人や河原人の集団がいなかったのではないかと考えている。
「穢多」の文字の初見は13世紀後半に編纂された百科辞書である『塵袋』だと言われてきた。その中で「エタ」とは鷹狩の時に鷹の餌になるものを取る「餌取」が転訛した言葉であると説明されている。その最後に「イキ者ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人也」と書かれている。この「エタ」に「穢多」という漢字が書き加えられている。京都部落史研究所の元所長であった師岡佑行は『京都の部落史(第3巻)』において「後筆」と述べている。私も同感である。
このことに関して網野は次のように書いている。
鎌倉幕府成立後、武家と公家による二重支配、守護や地頭による荘園や公領の侵略、貴族や寺社の経済基盤の弱体化、西国と東国の交易と交流など社会が大きく変動し、民衆の生活も変化していく。鎌倉新仏教が民衆の中に浸透し、人々の意識や価値観なども影響を受ける。神秘的な世界よりも現実世界に比重が移っていく。武士の出現と戦乱が社会を変え、民衆の意識も変えていったのが、平安時代末期から鎌倉時代前期である。
「穢多」が<賤>ではなかったという点は興味深い。「仏の敵である天狗」とは何を意味しているのか。また「穢多」は何を意味しているのか。具現化しているのであれば、何の表象であるのか。
網野が『天狗草紙』を解説している部分を抜き出してみる。
三井寺は、江戸時代、賤民芸能を取り締まって鑑札を発行している。ちなみに、近松門左衛門は千石取りの侍の子で、公家に勤めたりしているが、後に三井寺の別院で近松寺に入っている。沖浦和光は近松が武士の世界から賤民の世界に入ったと述べている。