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部落史ノート(6) 被差別民の呼称(1)

網野善彦が雑誌『波』(新潮社)に連載していた「歴史のなかの言葉」に「被差別民の呼称」という連作がある。改題されて『歴史を考えるヒント』 (新潮文庫) として出版されている。
中世史家の中には異論もあるようだが、私は、いわゆる網野史学から随分と示唆をもらったし、影響も受けている。
簡潔に書いてあるので、「穢多」を中心に<被差別民の呼称>について網野の解説に従って整理しておきたい。

「河原人」「河原細工丸」、少し時代が降ると「河原者」などの呼称で史料に現れてくる職能民の集団がありました。…この職能集団も非人と同様におそくとも11世紀以降には成立していたと見ることができます。また、非人の集団が「長吏」に率いられてのと同様に、河原人や河原細工丸は「長者」という統轄者に率いられていました。…祇園社、北野社、醍醐寺などの寺社に属しており、…「清目」とも呼ばれていた…。
この人々は、主として死んだ馬や牛から皮を精製する仕事に携わっていました。そして皮をなめす仕事は主として河原で行われたため、そこから河原人のような呼称が生まれたものと思われます。畿内や西国では、犬や牛馬の死も人間の死と同様に「ケガレ」と考えられており、その葬送や解体はやはり「キヨメ」の仕事になります。

中世社会の中心は京都など畿内であり、交易でも西日本が主であったことから、西日本に「ケガレ」「キヨメ」の考えが拡がっていた。その考えは彼らが寺社に属していたことからも宗教的な意味が強く、<聖>と<賤>の両義性があったと考えられる。

網野は彼らを「聖なる領域に属する人々」「神仏に直属する職能民」であり、「年貢・公事を免除された給田を保持する特権を認められていた」ことから「職能民としての誇りを抱いていた」と考える。
「人間の社会と自然との間の均衡が崩れた状態からケガレが発生する」ことから、「井戸を掘ったり石や樹木を動かすことは、自然に大きな変更を加えることに」なるから、河原者はそういう仕事に従事できる特別な能力を持った「職能集団」であった。

網野は「列島の東部と西部の社会の、ケガレに対する感覚」が違うという。その一例として、罪人の「処刑(首切り)」を誰が行っていたかに着目して、次のように述べる。

…承久の乱の首謀者である貴族たちは、鎌倉に護送される途中、武士によって首を切られています。もちろん、それは幕府の意思によるのですが、実際に首を切ったのは護送していた武士たちであり、決して放免などの特別な集団ではありません。そしてそうした武士がとくに「ケガレ」にふれたとはされていないのです。
一方、同じ頃に京都では法然上人の弟子と後宮の女房との「密通」が問題とされ、安楽房という放念の弟子が六条河原で首を切られています。その場面は『法然上人絵伝』に描かれていますが、刀を振るっているのが放免であることが明らかに確認できます。つまり、処刑に即してみても東日本と西日本との際は明らかで、とくに処刑・葬送に携わる職能民集団は東日本には形成されていないと考えざるをえません。

この要因として、列島東部は狩猟が盛んであったことや、牧場で馬を飼育していたこと、獣を殺してその肉を食べていたことなどから、ケガレの問題に鈍感であったのではないかと網野は考えている。私は、この頃にはまだ京都から「ケガレ観」が伝播していないこと、まだ非人や河原人の集団がいなかったのではないかと考えている。

「穢多」の文字の初見は13世紀後半に編纂された百科辞書である『塵袋』だと言われてきた。その中で「エタ」とは鷹狩の時に鷹の餌になるものを取る「餌取」が転訛した言葉であると説明されている。その最後に「イキ者ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人也」と書かれている。この「エタ」に「穢多」という漢字が書き加えられている。京都部落史研究所の元所長であった師岡佑行は『京都の部落史(第3巻)』において「後筆」と述べている。私も同感である。
このことに関して網野は次のように書いている。

…いずれにしても、生き物を殺して肉を売る「悪人」であると差別的な視点で「エタ」を見ていることは明らかといわなくてはなりません。これは非人・河原人を神仏の直属民と見ていた時期とは、はっきりと異なった視点といってよいと思います。
その背景にあるのは、神仏の権威の低落にともなうケガレに対する社会の対処の仕方の変化があっと考えられます。つまり、それまで人の力を超えた畏怖すべき事態と考えられていたケガレを「汚穢」として嫌悪し忌避するような意識がこの頃からとみに強くなってきます。それは、人間と自然との関係が大きく変化し、社会が文明化したためであるとも言えると思います。

鎌倉幕府成立後、武家と公家による二重支配、守護や地頭による荘園や公領の侵略、貴族や寺社の経済基盤の弱体化、西国と東国の交易と交流など社会が大きく変動し、民衆の生活も変化していく。鎌倉新仏教が民衆の中に浸透し、人々の意識や価値観なども影響を受ける。神秘的な世界よりも現実世界に比重が移っていく。武士の出現と戦乱が社会を変え、民衆の意識も変えていったのが、平安時代末期から鎌倉時代前期である。

「穢多」という言葉は13世紀後半に生まれ、15世紀になると畿内では社会に定着していきますが、注意すべきは『天狗草紙』に描かれた「穢多」が決していわゆる「賤民」ではなかったという点です。仏の敵である天狗を捕まえ、首を捩じり殺している点からもわかるように、この時期の「穢多」は非常に強力なおそるべき力を持つ人々と考えられていました。それは、『天狗草紙』の詞書に、天狗にとっての「おそろしきもの」として、尊勝陀羅尼のような密教の呪文等と併記して「穢多のきもきり」、つまり「穢多」に肝を切られてしまうことが挙げられている事実からみても、よくわかります。

「穢多」が<賤>ではなかったという点は興味深い。「仏の敵である天狗」とは何を意味しているのか。また「穢多」は何を意味しているのか。具現化しているのであれば、何の表象であるのか。
網野が『天狗草紙』を解説している部分を抜き出してみる。

『天狗草紙』は、天狗という異形な姿をした仏の敵が世の中で悪事を働く光景を描いた絵巻で、例えば延暦寺や三井寺の僧侶たちが武装して強訴を起こし、お互いの寺を焼いてしまうような、このころに起こった事態はすべて天狗の仕業として描かれています。またこの絵巻は、男女の僧尼や非人たちを従えて「遊行」遍歴し、踊り念仏を通じて時宗を広めていた一遍や、芸能を営みつつ禅宗の教えを広めていた放下という集団に対して強烈な敵意を抱き、いずれも天狗のあやつっている「畜生道」「魔業」の輩であるときびしく非難しているのです。
「穢多」という文字が用いられたのは、こうした文脈を持つ絵巻の中で、調子に乗り過ぎた天狗が「穢多」に捕まって殺される場面が描かれます。天狗は『今昔物語集』以来、鳶と見られていますが、ここでも嘴が尖って羽を持った鳶の姿で描かれており、その空を飛ぶ鳶に向かって「穢多童」が鉤に刺した動物の肉を投げ上げます。そして、それに食いついた鳶、つまり天狗が空から引きずり下ろされ、「穢多童」に捕らえられて、首を捩じり殺されていく様子が同じ場面の絵の中に描かれています。
その絵の中には、おそらく牛馬のものとみられる皮を干している場面も出てきますので、この「穢多童」が河原細工丸であることは間違いないと考えられます。

三井寺は、江戸時代、賤民芸能を取り締まって鑑札を発行している。ちなみに、近松門左衛門は千石取りの侍の子で、公家に勤めたりしているが、後に三井寺の別院で近松寺に入っている。沖浦和光は近松が武士の世界から賤民の世界に入ったと述べている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。