光田健輔論(67) 「らい予防法」の背景(4)
ここまで心血を注ぎ作り上げた「ハンセン氏病法」が国会に提出される見通しが立ち、今までの苦労が報われると喜んだ全患協にとって、まさに青天の霹靂だったことだろう。
なぜ急に厚生省は「態度変更」したのだろうか。藤野豊は次のように推論する。
前日、改正促進委員会と所長たちの懇談会が全生園面会所で漸く実現した。なぜか光田健輔は出席しておらず庶務課長が代理出席しているが、九園長が出席している。
園長の間でも意見に違いがある。特に松丘保養園長の阿部秀直は、後に厚生省の改正案に対して強い不満を露わにしているが、これについては後で検証してみたい。
聖城の言葉から厚生省の考えを推測すると、全患協(「患者」)が作成した「原案」そのままを長谷川代議士によって「ハンセン氏病法」として国会に提出されると「変なものが出来ては困る」ので、厚生省が作成した「改正案」を提出する、ということである。
「変なもの」とは何か。患者の「要望」が法律化(法制度化)されることを危惧している。それは「将来弊害を残す」ことになる。厚生省が問題としたのは、「強制収容(隔離)」「懲戒検束権」「退所規定」「外出制限」である。
だが、私が疑問に感じるのは、厚生省(官僚)にとって、「癩予防法」に規定されている上記の項目(内容)がそれほどに重要なのだろうかということである。監督責任は厚生省にあるかもしれないが、実際に管理運営しているのは療養所長(園長)である。困るとすれば、彼らであって厚生省が直接に困ることは少ないのではないだろうか。にもかかわらず、厚生省が急遽、法改正案を作成すると言い出したのは、長谷川代議士に語ったとされる「面子がつぶれる」が理由でもないだろう。
厚生省が困るとするならば、自治会や全患協からの「請願」や「要望」、そのための「活動」であろう。つまり、患者の「自由」と「権利」を制限できなくなることで派生する問題への危惧である。
もう一つ考えられるのは、悪しき官僚制の体質である。一度作成した法律なり体制なりをなかなか改変しない、先達の行ったことを無難に踏襲していく、そういった「維持」に固執する弊害である。事実、「らい予防法」が実質的に骨抜きになっても何十年も廃止されなかったことを考えればわかるだろう。
余談であるが、内田守『光田健輔』の付録に「光田先生と日本のらい」と題して聖成稔が書いた一文が付録として挟み込んである。この本は昭和46(1971)年に初版が発行されているので、それ以前に書かれたものである。聖城のあの発言から約18年後である。
一体どの口が言っているのかと疑ってしまった。「患者の言うことによって改正すれば将来弊害を残す」「患者の作った原案そのまゝを、ハンセン氏病法として出すとの事で、変なものが出来ては困る」と言った本人、聖成稔その人である。18年も経って自分の言ったことを忘れてしまったのだろうか。退官した後に藤楓協会理事長に就任したからだろうか。18年前には「特効薬プロミン、DDS」も効果を上げていたのだが、気づくのに18年もかかったのか。
聖城も「癩予防法」改正には関与しているはずである。彼は患者の社会復帰をはばむものは社会の「誤解偏見」だと責任転嫁している。「らい予防法」が一番の元凶であると思わなかったのか。百歩譲って、そのための働きかけや社会啓発に何をしたのか。言葉や文章ではいくらでもきれい事は言える。官僚の無責任さに呆れ果てる。
では、厚生省を動かしたのは誰か。光田健輔であると私は考ている。
なぜなら、「強制収容」も「懲戒検束権」もすべて光田の発案であり、療養所建設による絶対隔離政策によるハンセン病根絶こそが唯一の方法であると信じ切っている光田にとって、まだ患者は生きているのだ。患者が「絶滅」してこその「根絶」なのだから。しかも海外との交流が頻繁になり、「韓国癩」の流入を極度に恐れる光田には、「癩予防法」の“柱”が切り倒されることは絶対に容認できないからである。これは「三園長証言」を見れば明らかであろう。
林や宮崎あたりから全患協の動きは掴んでいるはずだし、「ハンセン氏病法」の骨子も知っているはずだ。さらに懇意にしている厚生省官僚からも情報は筒抜けだろう。逆に、相当の圧力をかけていたのは間違いないだろう。
光田は『愛生園日記』に「ライ予防法」の項を設けているが、その内容は表面的な動向を客観的に淡々と記述しているだけであって、自らの関与については一言も書いてはいない。まるで政府が勝手に改正案を作成し、強行に採決に持ち込んだかのように書いている。
同じく、全患協からの各療養所に抗議行動の要請が来た際の対応について、次のように書いている。
青柳緑の『癩に捧げた八十年 光田健輔の生涯』に同じ場面が描かれている。本書は光田健輔の伝記的小説なので些か誇張気味な描写であって、実際に交わされた会話であるかどうかは不明だが、次のように書いている。
この後は、両書とも、本館前にテントを張って座り込んだ患者たちの代表との間で、三日三晩続いた交渉の様子、その間に光田の胸像が破壊された事件をめぐって患者が二派に分かれ、執拗に要求を繰り返すグループと胸像破壊の犯人が現れるまでは動かないというグループに分裂し、それが後々まで急進派と穏健派に分かれて対立する様相が書かれている。
両書から読み取れるのは、光田健輔の独善性と虚偽の言い訳、自己正当化である。
まず、光田は(プロミン治療の効果があっても)未だに「感染の危険」(「病菌をまきちらす」)を(信じているかどうかはわからないが)楯にとって絶対隔離政策を堅持している。園長の責任という名分から自らが「首実検」によって判断していると言っているが、要するに園長の主観的判断である。
青柳の書く会話は事実かどうかは別にして、「人権」に関するやりとりは、光田自身も書いていることなので、日ごろから口にしていたのだろう。この会話に光田の時代後れの価値観がよく表れている。つまり光田は「社会防衛論」(戦後は「公共の福祉」)の立場で、患者の人権は「健康な人の人権」の犠牲になってもかまわないと言っているのだ。
「社会防衛論」の立場に立てば光田擁護となり、現在でもこの立場からの光田擁護の人間は多い。
次に光田の独断(独善)性は、患者が「政治的な動きをする(「政治的に動く」)ことで、社会の反感(「ひんしゅく」)を買う」という考えに表れている。つまり、共産党や社会党、いわゆる「アカ」(左翼思想)に煽動されているという考えである。これも戦前の反共産主義の思想そのままである。自治会や全患協の運動に対する「弾圧」であるが、光田はそれを患者のため(社会の反発を受ける)と摩り替えている。それだけではなく、「患者たちをこの近くでうろうろさせないと約束している」を理由にするなど、あまりにも身勝手な理屈である。
さらに、臆測ではあるが、厚生省に圧力をかけて「癩予防法」改正を行わせ、自らの意に沿った内容に作らせた光田による妨害工作とも考えられる。