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光田健輔論(67) 「らい予防法」の背景(4)


ここまで心血を注ぎ作り上げた「ハンセン氏病法」が国会に提出される見通しが立ち、今までの苦労が報われると喜んだ全患協にとって、まさに青天の霹靂だったことだろう。

しかし、事態は、ここで大きく変わった。それは2月10日、長谷川代議士よって直接、伝えられた。
①衆院厚生委は総意で予防法改正の方針を決定、改正に関する小委員会を設けることにしたが、その矢先、②それでは厚生省の面子がつぶれる、もともと厚生省の主管であり、厚生省で担当者をきめ、作成するから譲って貰いたい、と野沢代議士を介して申し入れがあったので、③患者側と協議して作った改正「ハンセン氏病法(草案)」を骨子に立案することを希望条件として譲った。④明11日の所長会議も、そのための意見聴取が目的と思われ、⑤問題をここまで推進できたのは本運動の成果として大成功である、と。
改正の意思なしとうそぶいていた政府、厚生省の態度変更は、一方患者の団結と熱意が国会を動かした結果ではあるが、全患協側は、それを「大成功」と評価することはできず、むしろ立案の主体が、政府や施設の意向にそうべき立場の厚生省に移ったことに、大きな危惧と不安を感じないわけにはいかなかった。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

なぜ急に厚生省は「態度変更」したのだろうか。藤野豊は次のように推論する。

1953年2月11日、「癩予防法」改正に関する療養所長会議の場で、厚生省結核予防課長の聖成稔は「国家(会?)で議員提案となる。従って急遽改正しなければならなくなった。実は患者の言うことによって改正すれば将来弊害を残すので、当分やらないつもりであったが、長谷川代議士が患者の作った原案そのまゝを、ハンセン氏病法として出すとの事で、変なものが出来ては困るから政府提案とする」と述べている。そして、宮島事務官が朗読した改正案の基調には「ハンセン氏病としての病名変更はとらぬ」「強制収容はすべて勧奨でやれと云ふことは現実に不適」と記されていた。この記録を記したのは、菊池恵楓園長宮崎松記と推測されるが、この記録によれば、長谷川保が全癩患協の主張に沿った法改正案を用意したため、厚生省は急遽、対抗して法改正案を作成したということになる。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

前日、改正促進委員会と所長たちの懇談会が全生園面会所で漸く実現した。なぜか光田健輔は出席しておらず庶務課長が代理出席しているが、九園長が出席している。

まず全患協、促進委員会側から「ハンセン氏病法」に沿って、改正に対する意見、説明を述べ、これに対して各園長から質問、意見が述べられ、主として、①懲戒検束規定の存廃、②病名変更の是非、③入所はあくまで納得によるか、強制もやむをえないとするか、などについて話し合われたが、そのなかで①に関連、「無断外出は罰則によって取締り得るとは見られない。むしろ一切の罰則を廃することによって、却って、患者に責任感が生じ、うまくゆく」とする阿部、大西園長らと、「集団生活には、それを規制する法規があるのが当然で、権利の反面に義務なり罰則なりは、当然あるべき」とする高島、宮崎園長らとの二つに意見がわかれ、対立したことが注目された。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

園長の間でも意見に違いがある。特に松丘保養園長の阿部秀直は、後に厚生省の改正案に対して強い不満を露わにしているが、これについては後で検証してみたい。

聖城の言葉から厚生省の考えを推測すると、全患協(「患者」)が作成した「原案」そのままを長谷川代議士によって「ハンセン氏病法」として国会に提出されると「変なものが出来ては困る」ので、厚生省が作成した「改正案」を提出する、ということである。

「変なもの」とは何か。患者の「要望」が法律化(法制度化)されることを危惧している。それは「将来弊害を残す」ことになる。厚生省が問題としたのは、「強制収容(隔離)」「懲戒検束権」「退所規定」「外出制限」である。
だが、私が疑問に感じるのは、厚生省(官僚)にとって、「癩予防法」に規定されている上記の項目(内容)がそれほどに重要なのだろうかということである。監督責任は厚生省にあるかもしれないが、実際に管理運営しているのは療養所長(園長)である。困るとすれば、彼らであって厚生省が直接に困ることは少ないのではないだろうか。にもかかわらず、厚生省が急遽、法改正案を作成すると言い出したのは、長谷川代議士に語ったとされる「面子がつぶれる」が理由でもないだろう。

厚生省が困るとするならば、自治会や全患協からの「請願」や「要望」、そのための「活動」であろう。つまり、患者の「自由」と「権利」を制限できなくなることで派生する問題への危惧である。
もう一つ考えられるのは、悪しき官僚制の体質である。一度作成した法律なり体制なりをなかなか改変しない、先達の行ったことを無難に踏襲していく、そういった「維持」に固執する弊害である。事実、「らい予防法」が実質的に骨抜きになっても何十年も廃止されなかったことを考えればわかるだろう。


余談であるが、内田守『光田健輔』の付録に「光田先生と日本のらい」と題して聖成稔が書いた一文が付録として挟み込んである。この本は昭和46(1971)年に初版が発行されているので、それ以前に書かれたものである。聖城のあの発言から約18年後である。

らいの医学は戦後になって急速に進歩し、本病の病原体である体内に侵入したらい菌に直接働く特効薬プロミン、DDS等が開発された。…これら新薬の発見、使用により大きな効果が上がり、それまで不治の病とされたものが治る病気になったのである。…
無菌状態となり、従って周囲の人々に感染の危険が無くなった多くの人々は、療養所の門を出て社会復帰をして行った。
…この新薬が発見される前に病状が悪化し、失明そのた種々の後遺症をもっている人々も多くその上高齢になっているので、社会復帰の望みのない人もかなりの数に上がっている。この様な方々にはせめて療養所の中の生活を少しでも明るく幸福なものにしてあげることが大切な問題である。
…社会復帰の希望のある人々には、何とかそれが実現される様にして上げたいものである。これをはばんでいる一番大きな問題は未だ根強く社会にはびこっているらいについての誤解偏見である。…
この「らい」を正しく理解することが社会全体に徹底すれば…温く迎えられる様になれば社会復帰をする人々はもっともっと増える筈である。

一体どの口が言っているのかと疑ってしまった。「患者の言うことによって改正すれば将来弊害を残す」「患者の作った原案そのまゝを、ハンセン氏病法として出すとの事で、変なものが出来ては困る」と言った本人、聖成稔その人である。18年も経って自分の言ったことを忘れてしまったのだろうか。退官した後に藤楓協会理事長に就任したからだろうか。18年前には「特効薬プロミン、DDS」も効果を上げていたのだが、気づくのに18年もかかったのか。

聖城も「癩予防法」改正には関与しているはずである。彼は患者の社会復帰をはばむものは社会の「誤解偏見」だと責任転嫁している。「らい予防法」が一番の元凶であると思わなかったのか。百歩譲って、そのための働きかけや社会啓発に何をしたのか。言葉や文章ではいくらでもきれい事は言える。官僚の無責任さに呆れ果てる。


では、厚生省を動かしたのは誰か。光田健輔であると私は考ている。
なぜなら、「強制収容」も「懲戒検束権」もすべて光田の発案であり、療養所建設による絶対隔離政策によるハンセン病根絶こそが唯一の方法であると信じ切っている光田にとって、まだ患者は生きているのだ。患者が「絶滅」してこその「根絶」なのだから。しかも海外との交流が頻繁になり、「韓国癩」の流入を極度に恐れる光田には、「癩予防法」の“柱”が切り倒されることは絶対に容認できないからである。これは「三園長証言」を見れば明らかであろう。

林や宮崎あたりから全患協の動きは掴んでいるはずだし、「ハンセン氏病法」の骨子も知っているはずだ。さらに懇意にしている厚生省官僚からも情報は筒抜けだろう。逆に、相当の圧力をかけていたのは間違いないだろう。

このように見てくると、「癩予防法」の改正については、療養所の所長の間にも厚生省案への批判論があったことが明らかであり、光田健輔ら一部の所長が強行したのではないかと推測される。4月3日に阿部は「本省でも光田園長の言は余り重要視していないと申したのは自分の誤算であった」と認め、光田の意見が法改正に大きく影響したことを認めているが、その際、光田が厚生省に提出した「国際癩対策意見」について議論している

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

光田は『愛生園日記』に「ライ予防法」の項を設けているが、その内容は表面的な動向を客観的に淡々と記述しているだけであって、自らの関与については一言も書いてはいない。まるで政府が勝手に改正案を作成し、強行に採決に持ち込んだかのように書いている。

同じく、全患協からの各療養所に抗議行動の要請が来た際の対応について、次のように書いている。

患者たちは「患者代表五名の東京派遣と、十名を岡山県庁へ陳情に送らせよ」と園長に申入れてきた。そこで職員会議をひらいて「彼らの要求をきくべきかどうか」をはかった。患者の気持のはけ口を見出してやりたいから、要求をいれてやってもよかろうではないかという意見と、患者の暴力的な行為に屈しては、今後の園内の秩序が乱れるもとであるから、要求を入れるべきないという、二つの意見に分かれた。私は後者を採択した。患者の要求に対して全面拒否の肚をきめたのである。

東京ですわりこみをやっている患者たちは、他の療養所で一時帰省の許可をとっているのだが、長島愛生園では平常から家庭の事情などでの一時帰省でも、いちいち私が首実検をして、伝染の恐れがないと確信したものしか出していない。ことに今度のように患者たちが政治的に動くことは、かえって社会のひんしゅくを買うだけのことで、患者にとっても好ましくない結果になることはわかりきっている。「タヌキ爺ッ、おれらを飼い殺しにする気か」と怒号されても、私は患者の要求をいれることはできなかった。

光田健輔『愛生園日記』

青柳緑の『癩に捧げた八十年 光田健輔の生涯』に同じ場面が描かれている。本書は光田健輔の伝記的小説なので些か誇張気味な描写であって、実際に交わされた会話であるかどうかは不明だが、次のように書いている。

「どうしてそんなに必死になるのだ」
「われわれの人権を守るためです」
「では訊くが、君らは二言めには人権擁護を口にする。人権蹂躙の事実があったかね」
「生涯をこの島に隔離されて終わらなければならないということが、何よりの証拠です」
「病菌をまきちらす人間を社会に放任して、大多数の健康な人の人権は無視してもいいというのかね」
「いまはそんな話ではなく、菌を伝播する恐れのない軽症者を東京へ派遣することを許可してほしいと言っているのです」
「なんといわれようと、わたしは許可することはできん。君らが政治的な動きをすることで、社会の反感を買うのが恐いのだ」
「東京派遣がだめなら、せめて岡山県庁への陳情だけでも許して下さい」
「よく聞いてくれよ。わたしはこの島を作るとき岡山の人たちに、患者たちをこの近くでうろうろさせないと約束してある」

青柳緑『癩に捧げた八十年 光田健輔の生涯』

この後は、両書とも、本館前にテントを張って座り込んだ患者たちの代表との間で、三日三晩続いた交渉の様子、その間に光田の胸像が破壊された事件をめぐって患者が二派に分かれ、執拗に要求を繰り返すグループと胸像破壊の犯人が現れるまでは動かないというグループに分裂し、それが後々まで急進派と穏健派に分かれて対立する様相が書かれている。

両書から読み取れるのは、光田健輔の独善性と虚偽の言い訳、自己正当化である。
まず、光田は(プロミン治療の効果があっても)未だに「感染の危険」(「病菌をまきちらす」)を(信じているかどうかはわからないが)楯にとって絶対隔離政策を堅持している。園長の責任という名分から自らが「首実検」によって判断していると言っているが、要するに園長の主観的判断である。

青柳の書く会話は事実かどうかは別にして、「人権」に関するやりとりは、光田自身も書いていることなので、日ごろから口にしていたのだろう。この会話に光田の時代後れの価値観がよく表れている。つまり光田は「社会防衛論」(戦後は「公共の福祉」)の立場で、患者の人権は「健康な人の人権」の犠牲になってもかまわないと言っているのだ。
「社会防衛論」の立場に立てば光田擁護となり、現在でもこの立場からの光田擁護の人間は多い。

次に光田の独断(独善)性は、患者が「政治的な動きをする(「政治的に動く」)ことで、社会の反感(「ひんしゅく」)を買う」という考えに表れている。つまり、共産党や社会党、いわゆる「アカ」(左翼思想)に煽動されているという考えである。これも戦前の反共産主義の思想そのままである。自治会や全患協の運動に対する「弾圧」であるが、光田はそれを患者のため(社会の反発を受ける)と摩り替えている。それだけではなく、「患者たちをこの近くでうろうろさせないと約束している」を理由にするなど、あまりにも身勝手な理屈である。

さらに、臆測ではあるが、厚生省に圧力をかけて「癩予防法」改正を行わせ、自らの意に沿った内容に作らせた光田による妨害工作とも考えられる。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。